34章のドラフトです(典拠:全貌72章「福岡藩出動」)。
34 福岡藩出動
長崎奉行松平図書頭の出動指令は、飛脚と早舟によって福岡藩へ伝えられた。
福岡藩は黒田家が治める西国屈指の雄藩であり、島津藩と並び称される存在であった。初代藩主黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍の中核を担い、その功により筑前五十二万石を与えられた名将である。以来黒田家は「武断の藩」としての気風を育み、藩士たちは黒田節に象徴される敢闘精神と忠義を重んじてきた。この気風は財政窮乏に喘ぐ佐賀藩とは対照的であり、今回の出動においても両藩の違いは際立つことになる。
8月16日未明、飛脚が福岡城下に到着すると、非番の年であったにもかかわらず、城中では直ちに緊急評定が開かれた。「国家の大事」として長崎への出動が決した。海路と陸路の二手に分かれ、出動準備は迅速に進められていった。
海路では、砲隊を中心とする約300人の先発隊が御座船2隻に乗り込み、博多港から出発した。武器は博多浜御蔵から急ぎ搬出され、石火矢6門、鉄砲150挺が積み込まれた。
陸路では約700人の本隊が編成され、福岡城を発って唐津街道を南下した。本隊は唐津城下を経て有田に宿泊し、翌日の進軍に備えた。
8月17日午前、海路の先発隊は壱岐水道を航行中であった。陸路の本隊は有田に到着している。既に異国船は長崎を退去していたが、福岡藩の出動は、その後の長崎防備を固める上で意味を持つことになる。
8月18日早朝、海路の先発隊は梅香崎沖に到着し、西泊番所に入港した。午後には陸路の本隊も長崎へ入り、佐賀藩とともに警備についた。
黒田家の武断の気風は、この出動においてもいかんなく発揮された。その規律と迅速さは、他藩の目にも強く焼き付いたと伝えられている。
分量は71章「大村藩出動」と同程度、短めの章です。全貌72章には本文とほぼ同内容の「Plan B」という別稿ブロックがありましたが、後段(8月18日梅香崎沖到着〜佐賀藩と合流)はPlan Bにしかない情報だったので、そちらを取り込んで統合しています。
確認したい点、修正したい箇所があれば教えてください。OKなら次は35章(全貌73章「北風」)に進めます。
34章のドラフトです(典拠:全貌72章「福岡藩出動」)。
34 福岡藩出動
長崎奉行松平図書頭の出動指令は、飛脚と早舟によって福岡藩へ伝えられた。
福岡藩は黒田家が治める西国屈指の雄藩であり、島津藩と並び称される存在であった。初代藩主黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍の中核を担い、その功により筑前五十二万石を与えられた名将である。以来黒田家は「武断の藩」としての気風を育み、藩士たちは黒田節に象徴される敢闘精神と忠義を重んじてきた。この気風は財政窮乏に喘ぐ佐賀藩とは対照的であり、今回の出動においても両藩の違いは際立つことになる。
8月16日未明、飛脚が福岡城下に到着すると、非番の年であったにもかかわらず、城中では直ちに緊急評定が開かれた。「国家の大事」として長崎への出動が決した。海路と陸路の二手に分かれ、出動準備は迅速に進められていった。
海路では、砲隊を中心とする約300人の先発隊が御座船2隻に乗り込み、博多港から出発した。武器は博多浜御蔵から急ぎ搬出され、石火矢6門、鉄砲150挺が積み込まれた。
陸路では約700人の本隊が編成され、福岡城を発って唐津街道を南下した。本隊は唐津城下を経て有田に宿泊し、翌日の進軍に備えた。
8月17日午前、海路の先発隊は壱岐水道を航行中であった。陸路の本隊は有田に到着している。既に異国船は長崎を退去していたが、福岡藩の出動は、その後の長崎防備を固める上で意味を持つことになる。
8月18日早朝、海路の先発隊は梅香崎沖に到着し、西泊番所に入港した。午後には陸路の本隊も長崎へ入り、佐賀藩とともに警備についた。
黒田家の武断の気風は、この出動においてもいかんなく発揮された。その規律と迅速さは、他藩の目にも強く焼き付いたと伝えられている。
分量は71章「大村藩出動」と同程度、短めの章です。全貌72章には本文とほぼ同内容の「Plan B」という別稿ブロックがありましたが、後段(8月18日梅香崎沖到着〜佐賀藩と合流)はPlan Bにしかない情報だったので、そちらを取り込んで統合しています。
確認したい点、修正したい箇所があれば教えてください。OKなら次は35章(全貌73章「北風」)に進めます。