夜の海に、黒い巨体が浮かんでいた。
検使の船は、その船腹へ漕ぎ寄せていく。昼に見たときよりも、闇に沈んだフェートン号は一層大きく見えた。檣も帆も、ただ黒い塊として頭上に迫ってくる。
検使二人が提灯を高く掲げた。
「ホウセマンか」
声をかけると、船縁に人影が動いた。帽子をとり、こちらへ会釈した者がいる。ホウセマンだった。
生きていた。
検使たちは、まずそのことに胸を撫で下ろしたはずだ。オランダ人の身に万一のことがあれば、自分たちの切腹は免れない。生死すらわからぬまま沖へ漕ぎ出してきて、いま、その姿を闇の中に確かめた。
だが安堵はそこまでだった。ホウセマンの背後、船縁には次々と人影が現れ、検使一行を見下ろしている。何人いるのか、闇では数えきれない。見上げる側と、見下ろす側。検使の船は、いつのまにか相手の懐に入り込んでいた。
甚左衛門にオランダ語で通訳させ、検使は問うた。
「いずれの国の船か。なぜ二人のオランダ人を捕らえたのか。貿易を求めて参ったのか」
これが、日本側とフェートン号との初めての言葉のやり取りである。
この日、不意に現れて長崎じゅうを震え上がらせた異国船が、ここで初めて口を開いた。
貿易が望みかと尋ねたのは、これまでにも貿易を求めて不審な船が現れた例がいくつもあったからだ。
ホウセマンは船上で何か指図を受けた様子で、こう答えた。
「夜中に本船へ他の船が近づくことはできません。御検使様は明朝お越しください」
そう言うと、姿を消した。
このまま引き下がるわけにはいかない。背には図書頭の「生きて帰るな」という叱責がある。検使は漕ぎ手に命じ、船をさらに船腹へ寄せた。
「もう一度呼び出せ」
甚左衛門が声を張ると、ホウセマンがふたたび船縁に現れた。
「もう一度問う。願い事があるのなら取り計らうこともできる。頭分の者が、こちらの船へ参られよ」
ホウセマンは船内へ戻り、船主と相談している様子だった。
そのうちに、フェートン号の舷から二艘の小艇がするすると吊り下ろされ、検使の船を左右から挟んだ。小艇の前後には砲が据えられている。抜き身の剣が光り、男たちの手には短筒や小銃。いずれも弾を込めている気配だ。見上げれば本船の二段の砲列にも、一門ごとに二人ずつ水兵が取りついて、号令ひとつで撃ち放つ構えである。
検使一行は、生きた心地もなかった。それでも、事情を聴かずに戻れば役目は果たせない。図書頭の声が、乏しい勇気をかろうじて支えていた。
ホウセマンに同じことを重ねて問うと、別の異国人が出てきて何か言う。言葉はわからない。やがてホウセマンが現れ、こう告げた。
「この船は支那から参ったとのことです」
甚左衛門は退かなかった。
「船がこれほど大きいのだ。支那の船ではあるまい。真実を申せ」
すると今度は──「辨柄より出帆した」という答えが返ってきた。ベンガル。インドである。
「ではなぜオランダ人を捕らえた。どのようにも取り計らう。まずオランダ人を解き放つよう伝えよ」
それからどれほど経ったか。闇の中で、相手の返事を待つ時間だけが長い。やがてホウセマンが、ようやく用件を持って戻ってきた。
「船中は食物が乏しくなっております。これらを補給していただければ、オランダ人をお戻しし、ほかに用もないので明日にも帰帆いたします」
水と、食糧。
それが、この巨大な軍艦の求めるものだった。略奪でもない。戦でもない。──少なくとも、その時の検使たちには、そう思えた。
しかもホウセマンは、横文字の手紙を寄越した。甚左衛門が受け取り、提灯の明かりに目を走らせる。ベンガルを出帆したこと。船主の名。水と食物が乏しいので届けてほしいこと──そう記されていた。
顔の見えぬ怪物だった船が、ここで初めて名を持った。横文字の手紙を寄越し、自らの用件を語り始めた。
甚左衛門はこれを訳して検使に伝えた。
「この品々、今は夜ゆえ用意できぬ。明日までには必ず届ける。ゆえに、二人のオランダ人は今、解き放たれよ」
だが、フェートン号はこれを拒んだ。
「ならば、そちらの乗組員のうち二人をこちらへ寄越せ」
甚左衛門が検使の言葉をオランダ語に移して伝えると、この申し出はフェートン号側には奇怪に映ったようだった。何を言われているのか、解しかねている気配である。
「今晩二人の人質を預かっても案ずるには及ばぬ。明朝食物を届け、オランダ人が戻れば、預かった二人も返す。人質を出せ」
そう重ねても、相手は承知しない。人質を交わすという日本の流儀は、彼らには通じなかった。
検使二人は、意を決した。
「オランダ人を戻さぬなら、我らとて帰ることはできぬ。──我ら二人、異国船に乗り込む」
決死の言葉だった。甚左衛門が訳して伝えると、ホウセマンの返事が返ってきた。
「ではこちらへお越しください、と船主が申しております」
だが、この答えに甚左衛門は引っかかった。
オランダ人二人だけでは済まぬのではないか。検使二人まで、まとめて船中に捕らわれるのではないか。
検使が「どうなっている」とやり取りの中身を尋ねるので、甚左衛門が伝えると、二人は「では乗り込む」と腰を上げかける。甚左衛門はホウセマンに質した。
「御検使様お二人が乗船されて、御身に万一のことはないか」
ホウセマンの答えはこうだった。
「それは異国人の申したこと。自分には、何とも言えませぬ」
この一言で、甚左衛門の懸念は消えなかった。むしろ深まった。四十歳、小通詞並の末永甚左衛門は、検使に乗船の取り止めを進言した。御役所付の溝口仙兵衛、林與次右衛門の二人も、これに同調して乗船に反対した。
そのうちにホウセマンが、大声で何度も叫び立てた。
「早く船を離れてください」
ただならぬ声であった。
検使一行はフェートン号を離れ、数百メートルを退いて神崎まで戻り、そこに船を止めた。
今しがた起きたことを急ぎ書き留め、寄越された横文字の手紙を添える。これを林與次右衛門に持たせ、西役所へ走らせた。
沖へ出たときには、何ひとつわからなかった。どの国の船か。なぜオランダ人を捕らえたのか。何を求めているのか。
いま、その輪郭が初めて見えた。
顔の見えなかった敵が、初めて顔の半分を見せた夜だった。
。