17 ドゥーフの手紙

 深夜、奉行所に一艘の船が戻った。
沖へ出ていった末永甚左衛門である。彼は、拉致されたオランダ人のひとり、ホウセマンと会った。そして、一通の手紙を託されて帰ってきた。
報せは、すぐに松平図書頭のもとへ運ばれた。
待ちに待った報せだった。オロシャ船かもわからぬ謎の大船が、オランダ船を装い、剣を振るってオランダ人二人を奪い去った。なぜ夜の港内を小艇で探り回ったのか。検使や沖出役が口々に言う、あの重武装は何なのか。何ひとつわからぬまま、役所の者も、町の者も、ただ恐れおののいて夜を過ごしてきた。
そこへ、ホウセマンに会ったという男が、二人の無事を伝え、しかも書簡を携えて戻った。
横文字の手紙は、ひどく短かった。図書頭はすぐに末永を招き入れ、訳を命じた。
「ベンガルより、船が一隻参りました。船長の名はペリューと申します。閣下は水とすべての食料品に事欠いており、それを供されるよう求めております」
署名は、ホウセマンとシキンムルの二人。
水。食糧。
書かれていた要求は、それだけだった。
それが、あの巨大な軍艦の求めるものだった。
図書頭は、眉をひそめた。
水と食料の尽きた船が、禁を承知で長崎に助けを求めてきた例なら、これまでにもいくつもある。だが、だからといって──日本の国法を破り、オランダ人を奪い去った行いが、許されるはずもなかった。
胸の内には怒りが渦巻いている。だが同時に、図書頭はわかっていた。この短い一通は、「御国の預かり人」であるオランダ人を取り戻す、ただひとつの糸口でもある。
怒りと、安堵。二つが胸の中で並んでいた。
末永はもうひとつ、間近で見たことを告げた。
「船は非常に大きく、四十門を超える加農砲を備えております」
遠目に怯えた者たちの報せとは違う。すぐ脇まで漕ぎ寄せ、冷静に見てきた男の言葉である。相手が、恐るべき戦闘力を持つ軍艦であることが、あらためてはっきりした。
「かぴたんを呼べ」
図書頭は、出島のオランダ商館長ドゥーフを召した。ほどなく現れたドゥーフに書簡を見せ、問うた。やり取りは、大通詞中山作三郎を介して行われる。
「これが異国船の要求だ。もし水と必需品を与えたなら、奪われた二人のオランダ人は解き放たれると、そなたは保証できるか」
ドゥーフは、すぐには答えなかった。
この男は、感情では動かない。日本に来て八年、商館長となって五年。安請け合いがどれほど危ういかを、誰よりも知っている。事が暗転したとき、責めはいつも、その言葉を口にした者に向かう。
しばし考えて、ドゥーフは答えた。
「御奉行閣下。残念ながら、その保証はできかねます。──私は今や、あの船は敵国の船であろうと見ております」
「では、どうするのがよいと、かぴたんは考えるか」
そう問われて、ドゥーフの思考は速く回った。
彼は、二人の部下を救わねばならない。だが、それだけではない。出島の商館を、守らねばならない。この異国船への日本側の対応ひとつで、何が起こるか、予断を許さなかった。
ドゥーフにとって最も望ましいのは──あの船が、二人のオランダ人を返し、何ひとつ衝突を起こさぬまま、海の彼方へ消えてしまうことだった。船が求めているのが水と食糧であり、それが満たされれば人を返して去るというのなら、これは願ってもない話である。
慎重に考えをめぐらせたのち、ドゥーフは図書頭に提案した。
「もし船長が、ホウセマンとシキンムルを解き放つなら──私は、私の名誉にかけて、水と食料が与えられることを確約いたします。その旨を記した短い手紙を一通、船長あてに書くべきかと存じます」
そしてこう付け加えた。
「ただし、そのためには、奉行閣下のお力添えが要ります」
図書頭にとって、これは苦い提案だった。
国法を踏みにじり、オランダ人を違法に奪い去った異国船──その要求を、こちらから書面で吞む。法と秩序に誰よりも謹厳なこの男にとって、本意であろうはずがない。
だが、ここが我慢のしどころであることも、わかっていた。法を貫けば、二人のオランダ人の命はない。現実をとれば、法を曲げることになる。その板挟みのなかで、図書頭は、ドゥーフの手紙を許した。
ドゥーフは、筆をとった。書かれたのは、ごく短い手紙である。
『当湾内に投錨中の船の船長へ。貴殿。現在私は、貴殿により船上に留め置かれている二人のオランダ人から、貴殿が水と若干の食料品とを必要としている旨の報告を受けている。もし貴殿がこの手紙を受け取りしだい、上記二人のオランダ人を送り返すなら、私は貴殿に、この国におけるオランダ人の上長として、私の名誉にかけて、貴殿が長崎奉行閣下から水とその他の食料品を恵与されることを、会社印をもって保証する。一八〇八年十月五日、早朝一時。なお、貴殿が必要とするものがあれば、それを手紙にして両オランダ人に与えられたい』
短い。だが、この一通に懸かっているものは、あまりに重かった。
オランダ人二人の命。長崎の平穏。そして、出島そのものの行く末。すべてが、この紙片の上に載っていた。
図書頭は、その重みを承知のうえで、中山作三郎に書面をあらためさせ、その手紙を末永甚左衛門に託した。
一度、異国船と渡り合ってきた男である。供には、西義十郎と御役所付の溝口仙兵衛がついた。
末永は、手紙を懐に、ふたたび沖へ向かった。
夜明けには、まだ間がある。

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