26 解放

図書頭の指図は沖にも届いた。

「水野菜の件については、紅毛人を受け取ってから届けよ」
この指図に、沖の検使たちは顔を見合わせた。紅毛人を受け取ってから食料を届けよ、という。果たして、それが可能だろうか。
彼らの目の前には、武装した巨大な軍艦が浮かんでいる。人質の二人はまだ艦上に捕えられたままだ。前夜来の要求に対して交渉は停滞し、相手がいつ砲門を開くか分からない。この危うい均衡の中で、現場にいた彼らには、それでは事は進まぬように思われた。
まず食料を渡さなければ、話は一歩も進まないのではないか、と。
受け取ってから届けるという順序では、相手は動かない。動かなければ、人質は戻らない。現場で異国船と対峙する者たちには、まず食料を渡すほか道はないように思われた。
沖には検使四人のほか、山田吉右衛門、花井常蔵、木部幸八郎、大通詞石橋助左衛門、名村多吉郎ら、奉行所の中枢が顔を揃えていた。
「他ならぬ食料の補給である。ここはまず異国船が求めるものを渡した方が良いのではないか」。
意見は評議一決した。そして全員揃って庁へ向かった(崎陽日録25p)。
奉行という長崎統治機構の頂点に立つ人物に対して、その指図に異を唱えるのである。一人で向かえば、その者一人が咎を負うことになりかねない。前夜には上川伝右衛門が逆鱗に触れ「オランダ人を取り戻すまで生きて帰るな」と厳命されたばかりであった。それでも進言せねばならぬと彼らは判断した。誰か一人に責めを負わせぬため、危急の決断を全員の総意として示すため、その場の者がことごとく庁へ向かった。恐らく決死の心持ちであったろう。それが「全員揃って」の四文字に滲んでいる。
図書頭はこの意見を聞き入れた。そして先の指図を改めた。
沖で検使等が食料供給を優先すべきではないかと討議しているころ、フェートン号の艦上では、ペリュー艦長がホウセマンを呼んで「上陸して食料を要求して来い」と命じていた(ドゥーフ「日本回想記」英文版101p)。ホウセマンは命令を文書化することを求めたので、ペリュー艦長はオランダ人水夫のメッツェラールを呼んで、オランダ語の文章を完成させた。それがこの事件を彩るハイライトの一つとなる、ペリュー艦長の最初の手紙である。
『オランダの会社に所属している二人の者は、ディルク・ホーゼマンとヘリット・スヒンメルで、そのうちのディルク・ホーゼマンは上陸するが、わが艦のスループ船(1本の帆付き小艇)で岸壁へ向かうことになる。艦長はわれわれ〔両オランダ人〕を捕えて捕虜にした。そして船長はわれわれを昨日の五時以来拘留している。そして(一人は)今三時に船から降りる。艦長は、次のように言った。すなわち、できる限り速やかに食料品を送るように、と。そうすればスヒンメル氏が岸壁へ向かうようにし、そして〔船は〕沖に出るつもりである。もし彼〔艦長〕が食料品を今夕以前に得られない場合は、彼は明朝までには、帆走して来て、日本の小船や中国ジャンク船をすべて焼き払うつもりでいる。
(署名) 艦長グリットウッド・ベリュー』
この手紙は、突然の脅迫として現れたのではない。前日の真夜中、フェートン号の船縁に出たホウセマンが食料などの要求を伝えてから、既に半日以上が経過していた。ペリュー艦長にしてみれば、その要求に対して、ドゥーフの返事を除けば日本側から明確な返答が無いままだったのである。要求してから半日、待てども返事は来ない。ペリュー艦長の側から見れば、日本側が意図的に事態を引き延ばしている、と映ったとしても不思議はない。「日本の小船や中国ジャンク船をすべて焼き払う」という一句は、この苛立ちと焦燥の中から書かれたものであったろう。
ドゥーフの返事には「二人のオランダ人を送り返すなら、私は貴下に、この国におけるオランダ人の上長〔商館長〕として私の名誉にかけて、貴下が、長崎奉行閣下から、水とその他の食料品を恵与されることを保証する」とあった。だがペリュー艦長は、この時点では二人を先に解放する気は全く無かった。順序は逆である。まず食料、しかる後に解放、という構えであった。沖の検使達が「まず食料を渡すべきだ」と進言したのと、奇しくも要求の順序は噛み合っていたことになる。
メッツェラールが脅迫の手紙を書き終えると、ペリュー艦長はホウセマンに警告した。「食料を持って戻って来なければ、シキンムルは容赦なく絞首刑にされるぞ」。帆船時代の絞首刑は、帆桁から首を吊られることを意味する。さらにペリュー艦長は、ホウセマンの上司であるオランダ商館長ドゥーフに宛てた手紙も渡した。こうしてホウセマンは2通の手紙を持って、フェートン号の短艇に乗り移った。
ここからは「崎陽日録」が記録している(26p)。
遠見番の船五艘が、異国船を遠巻きにして見守っていた。彼らは昨15日(和暦8月)早朝に白帆注進をして以降、既に30数時間以上も沖に出ていたことになる。不眠不休の可能性が高い。これは図書頭以下の奉行所の諸役人、ドゥーフ等オランダ商館員も同様だったろう。遠見番達は水や食事をどうしていたのだろう。戸町辺りから、あるいは大波止から届けていたのだろうか。
その五艘に乗り込んでいる遠見番達は、異国船からバッテイラ(小舟)が降ろされ、10人ほどが乗り込むのを見ていた。その船が、彼らを目指して真っ直ぐ漕ぎ寄ってくる。一気に緊張が走った。弓や刀は持っていない。だが船底に手鎗の用意があったので、これを構えた。今や遅しと、息を詰めて待った。
遠見番は士分でこそないが、奉行所の役人である。元を糺せば『召し抱えられた遠見番は、江戸時代初期に多くの大名が改易され、天下にあふれ出た浪人たち』(「白帆注進」21p)であった。手鎗を構えて一戦交えるつもりで待つその覚悟は、本物であった。
彼等が身構えて待っていると、バッテイラが近くまで来て、乗組んだうちの一人が帽子を取って手招きする様子を見せた。何者か、何の用か。ためらって見守っていると、バッテイラは大胆にも、遠見番の船五艘の真ん中まで漕ぎ寄せて来た。
五艘に取り囲まれることも厭わず、その只中へ漕ぎ入る。バッテイラは左右に大砲(近接戦用のカロネード砲(散弾砲)であろう)を備え、乗組みの者は短銃や槍で武装している。銃を持たぬ遠見番では、太刀打ちが出来ない。だが英海軍の水兵達は、相手の真ん中まで臆せず乗り込んで来た。この一点に、戦い慣れた者の胆力が存分に現れている。
バッテイラは嘉悦忠兵衛と別府恒三郎が乗っている船に近寄ると、ホウセマンを突っ込むようにして移し、矢のように素早く本船へと帰って行った。
嘉悦忠兵衛は、両御番所にいる検使の菅谷と上川が乗る佳行丸に乗りつけ、以上の次第を報告してホウセマンを渡した。検使の船はホウセマンを受け取り、通詞甚左衛門茂十郎を呼んで、異国船の様子とホウセマン一人を戻した子細を尋ねた。一人を戻した以上、水と野菜を直ぐに届けるべきだろう。通詞甚左衛門茂十郎に御役所付き溝口仙兵衛を付き添わせ、一同乗り込んで庁へ向かった。
ホウセマンは検使の上川伝右衛門に付き添われて西役所に着いた。上川は昨夕、図書頭の逆鱗に触れて「オランダ人を取り戻すまで生きて帰るな」と厳命されて沖へ出て以来の、これが初めての上陸であった。もう一人の菅谷保次郎が相変わらず沖に出っぱなしだったのか、上川に同行したのかは分からない。彼等が乗船していた佳行丸で戻ったのだから、菅谷が一緒だった可能性もあるが、詳細は不明である。ただ、彼等が昨日(日本時間8月15日)の昼前に沖へ出て以来、着の身着のままであったことは間違いない。
さて、この「ホウセマン解放」については、全く違う記録が残っている。他ならぬドゥーフが書いた「オランダ商館日記」と「日本回想記」である。
両者の食い違いは、些細なものではない。ホウセマンが、沖合の遠見番の船上で引き渡されたのか、それとも岸壁に降ろされたのか――解放の場面そのものが、根本から異なっているのである。
「崎陽日録」は、既に見た通り、バッテイラが遠見番の船五艘の真ん中まで漕ぎ寄り、嘉悦忠兵衛らの船にホウセマンを突っ込んで本船へ帰った、と記す。ホウセマンは沖の船上で受け渡されたことになる。
ところが「オランダ商館日記」は、10月5日(日本時間8月16日)の16時にホウセマンが上陸した、と記し、こう続けている。
『彼は船長によって神崎の岸壁に下ろされ、必要とする食料品を取って来るよう、そしてそれを自分で持参してできるだけ速やかに船に戻るよう命令を受けており、それを彼は誓って約束せねばならなかった、そして、彼ホーゼマンは御番所に行ったが、その場所に検使たちが通詞助左衛門および小通詞才右衛門〔今村〕とともに居た。彼ホーゼマンは、同人たちに対しては、彼が船長により、食料品を取りに来るため岸壁に送られたこと、また船長が、そうすれば彼ら両人を解放すると約束したことしか言わなかった、と。』
「日本回想記」100pにも『その後、ホウセマンはボートで崖に降ろされ、そこから日本の船を呼び寄せた』とある。
崎陽日録は沖の船上での受け渡しと記し、ドゥーフの二つの記録は岸壁への上陸と記す。「オランダ商館日記」はリアルタイムで書かれた記録であるから、思い違いとは考えにくい。一方の「崎陽日録」もまた記述が迫真的であり、嘉悦忠兵衛、別府恒三郎と固有名まで挙げて受け渡しの場面を描いている。どちらが事実か、今となっては判じかねる。両者の記録を並べて置くほかはない。
なお「日本回想記」は、岸壁の場面についてこう続けている。『ホウセマンは日本語をかなり理解できたので、自分の状況を説明することができた。さもなければ、どの日本人も彼を乗せる勇気はなかっただろう』。もしホウセマンが岸壁で手を振っても、沖に出ていた監視船や番船の人間には、異国船の者か紅毛人(オランダ人)かの見分けがつかなかっただろう、とドゥーフは言っているのだ。緊迫した状況の中で、ドゥーフは、そのように記している。
こうしてホウセマンは西役所へ向かった。一人の人質が戻ったことで、止まっていた歯車がようやく動き始める。
長崎とフェートン号の対決は、次の局面へ入ろうとしていた。

上部へスクロール