文化5年8月15日、西暦1808年10月4日の午後。長崎港の港口を出た外海に、十四艘の小舟が、散り散りに浮かんでいた。
検使とオランダ委員の一行が八艘。真っ先に港外へ出た隠密方と盗賊改方が二艘。二人一組の遠見番の沖出役が四艘。それだけではない。入ってくる船がオランダ船であれば、高鉾島のそばに投錨したところを何十艘もの小舟で港内へ曳いていくのが長崎の定めであったから、曳舟の群れもすでに出ていた。
その日は、風が強かった。神崎と女神の岬を過ぎると、海の色はにわかに黒く変わり、うねりが大きくなっていく。そこからさらに3キロほども沖へ出た四郎ヶ島のあたりでは、検使やオランダ商館の委員を乗せた大型の役船でさえ、上へ下へと大きく揺れ続けていた。一行は、昼過ぎに大波止を漕ぎ出して以来、この荒れる海の上で、ひたすら待ち続けていたのである。
オランダ船が入ってくると、検使と呼ばれる役人と、出島の商館から出たオランダ人の委員とが沖まで漕ぎ出し、それが間違いなくオランダ船かどうかを見定める。旗合せと呼ばれるこの確認のために、一行は、こうして海の上に出ていた。
やがて沖から、三色の旗をたなびかせた一隻の大船が、港口へ向かってゆっくりと近づいてくる。
その船は、誰も見たことのない大きさだった。944トン、和船の千石船の何倍もある巨艦である。巨体は役船の一団へぐんぐんと迫り、目の前でほぼ止まったかと思うと、ゆっくり舳先を沖へ向け直した。
この一事を、しかし、長崎の誰も読み取れなかった。帆船には機関もなければ、速力を殺す仕掛けもない。風と帆と舵だけを頼りに、944トンの巨体を小舟の群れの目前まで寄せ、そこで停め、軽々と回頭してみせる。並みの商船に、まして荷を満載した商船にできる芸ではない。強い風がそれを助けたにせよ、あの操艦を見た瞬間に、相手が何者であるかを察してよかったはずである。だが十四艘のどの舟からも、そういう声は上がらなかった。検使とオランダ委員の船は、停まった大船へと、むしろ安心して漕ぎ寄せていく。
少し距離を置いて、オランダ委員のホウセマンとシキンムルが、その船へ向かって呼びかけた。いずれの船か。オランダ船だ、と答えが返ってきた。
午後5時半。大船の舳先に吊るしてあった青塗りの小舟、長崎の人々がバッテイラと呼ぶ舟が、するすると海面へ巻き下ろされた。崎陽日録は、ひらりと海上に下り、と書いている。長さ4、5間といえば8メートルから9メートル、幅は2、3間。天幕を張り、十五人ほどが乗り込んでいる。左右で二人が杓子のような橈を操ると、舟は見る間に速度を上げ、オランダ委員の船へ、まっすぐ漕ぎ寄ってきた。
ひらりと、と書かれるほどの手際は、その場の思いつきから出るものではない。この舟の上げ下ろしと乗り込みを、彼らは東シナ海を渡るあいだ、飽きるほど繰り返してきていた。演習の成果である。つまりこれから起きることは、長崎の沖で咄嗟に思い立った狼藉ではなかった。あらかじめ組み立てられ、幾度も稽古された段取りが、いま順に実行へ移されようとしていた。
船縁に立ったホウセマンとシキンムルが、もう一度問いかける。どの国の船か。オランダ語で、返事があった。オランダ船だ、バタビアから来た。検使は、二人の委員の船のすぐそばにあって、通詞を通じて、このやり取りを聞いている。オランダ人二人の委員は、念には念を入れて、さらに尋ねた。去年バタビアへ帰ったオランダ人のイイキスは、乗っているか。乗っている、とすかさず返ってきた。名を挙げて問い、名を挙げて答える。これで確かめは済んだはずであった。
済んではいなかった。相手の船には、オランダ語を操る者が乗っていたのである。問いの意味を即座に解し、間を置かずに答えを返せる者が。偽装は、旗を掲げるだけのものではなかった。
やがて、バッテイラの異国人が言った。こちらの船へ移れ。委員は答えた。もうすぐ御検使の御一行が、そちらへお越しになる。
その時である。大船の上から、メガホンを通して、大きな声が発せられた。
何を言ったのか、日本側には分からない。分かる者は、その海上に一人もいなかった。それが、襲撃の下知であった。
次の瞬間だった。
バッテイラの船板が、がばと跳ね上がった。その下から、十五人がいっせいに躍り出る。手に手に短筒を握り、小型のカロネード砲に点ずる火縄を振り、腰には剣を帯び、白刃を抜いて頭上に振りかざし、口々に大声をあげながら、あっという間に二人のオランダ人を取り押さえ、そのまま、バッテイラの中へと引きずり込んだ。
先に引き込まれたのは、ホウセマンであった。驚いたシキンムルは、後ずさって船の中ほどまで退いたが、異国人たちは残らず剣を抜いてオランダ委員の船へと飛び移り、力ずくで、彼をもバッテイラへ連れ去っていく。シキンムルはこのとき、帽子と靴を、海へ落とした。
委員の船に乗っていた通詞は、三人いた。六三郎は、とっさに検使の船へ飛び移って、この事態を知らせた。繁次郎と作七郎は、危ういと見て助けに入ろうとしたが、もみ合ううちに海中へ落ちてしまう。漕ぎ手や舵取りもまた、我先にと海へ飛び込み、あるいは他の舟へ飛び移った。たまたま船に残った者も、恐怖で酔ったようになって、櫓も漕げない。さきほどまで集まっていた数十艘の役船や援船は、時雨に舞い散る木の葉のように、ばらばらと逃げ散っていった。近辺の漁師や商い船までが、大声で呼び立てながら逃げ出し、船から転げ落ちて泳ぎ去る者まで出た。
責めるには当たるまい。200年ものあいだ、この国で抜き身の刃を向けられた者は、ほとんどいない。まして短筒である。生涯に一度も見たことのないものが、いきなり眼前で振り回されたのだ。
二人を奪ったバッテイラは、たちまち大船へと戻っていく。本船から綱が下ろされると、舟は舷側へ引き寄せられ、舳先から鉤をかけられて、くるくると巻き上げられた。張られた天幕が、風をはらんで舞うように引きつけられていく。その一部始終を見た者が、めざましかりける有様也、と書き留めたほどの、鮮やかな手際であった。
やがて、全長36間、65メートルの本船は、舷側にずらりと並んだ大砲の砲門を開き、軍器を張りめぐらせた。船楯が、左右に次々と立てられていく。6尺余の帆木綿を一抱えもあるほどに巻き固め、チャン綱と鉄鎖で編み上げたもので、こちらの石火矢の玉を受け止めるための備えである。
つまり相手は、日本側の反撃を、当然あるものとして勘定に入れていた。国法を破って人を奪えば撃ってくる。それが軍人の常識である。
だが、反撃はなかった。舟は動かず、漕ぎ手はもはや漕ぐどころではない。固めた備えも、四十門の砲も、この日ついに一度も使う必要がなかった。相手が見積もった長崎と、そこにあった長崎との差が、この一点に集約されている。
検使の船も、動かなかった。菅谷保次郎と上川伝右衛門の二人は、ただ海上に、立ち尽くすほかなかった。
そこへ、検使の船へ漕ぎつけた者がいた。隠密方の吉岡十左衛門である。直ちに庁へ報告する、と言い捨てるなり、そのまま舳先を港へ向け、漕ぎ入れていった。
江戸から下ってきた幕吏は、この海上に三人いた。検使の二人と、隠密方の吉岡である。位でいえば吉岡が最も下、手附出役の同心にすぎない。その最も下の者ひとりだけが、この修羅場で我に返り、次に何をなすべきかを自ら決めた。
盗賊改方の田口惣兵衛もまた、遠くからこの一部始終を見ていた。検使の船を追いかけ、高鉾島の横でようやく漕ぎ寄ると、すぐに庁へ報告せよ、と命じられる。だが、漕ぎ手たちは動転して、櫓がいっこうに動かない。やむなく田口は、たまたま曳舟に出ていた小舟へ乗り換え、戸町御番所の下まで漕ぎつけて番所の者に異変を告げると、そのまま奉行所へと急いだ。
そして沖では、もう一艘の舟が、懸命に櫓を漕いでいた。遠見番の児島唯助と吉川次郎平である。
実はこの二人だけが、はるか沖で行き合ったときから、気づいていた。この船は、オランダ船ではない。本船から一町、100メートルほど後れながら、二人はその異変を一刻も早く検使に伝えようと、水主たちに必死で漕がせた。だが、順風を一杯にはらんだ大船は、あまりにも速い。しかも旗合の役船が、その大船へ近寄っていくのが、見えている。急げ、急げ。吉川と児島は、自らも櫓を押した。それでも、海はあまりに広かった。
この日、長崎で真実に手が届いていたのは、江戸から下った与力でも、蘭語を解する通詞でもなく、沖の見張りを務める二人の地役人であった。だが軽輩の見立ては、伝わるべき道を持たない。二人が漕いでいたのは、海であると同時に、その道のなさでもあった。
二人が検使の船へ辿り着いたとき、すべては、もう終わっていた。
オランダ人は、とうに奪われたあとだった。
J版