大波止に舟をつけるなり、山田吉左衛門は西役所へ駆け込んだ。両御番所から漕ぎ戻ったばかりの、息を切らし血相を変えた姿である。その報告は、短く、信じがたいものであった。西泊・戸町の両御番所は、もぬけの殻であった。
そこには、千人の佐賀の兵が詰めているはずであった。長崎港口を北と南から扼する西泊と戸町、そこに詰める千人こそが、長崎を守る兵のすべてである。
図書頭が問うた。「して、番所には何人おった」
山田は、まだ整わぬ息のまま答えた。「両所合わせて、五十人に及びませぬ」
千人のはずの兵が、五十人。その数字が広間に落ちた瞬間、まるで天井が抜けたかのようであった。誰も、動かない。誰も、声を出さない。
「石火矢は、備えてあるか」
「それも、ございませぬ」
もはや、驚く力さえ残っていなかった。長崎港は、裸であった。
図書頭は、すぐには声を発しなかった。
そして、すべてが一度に繋がった。異国船から放たれた小艇三艘が、両番所の前を悠々と通り抜けていったのは、なぜか。港内を漕ぎ回る小艇を「すぐに召し取れ」と佐賀の聞役に命じても、曖昧な返事しか返らなかったのは、なぜか。番所には、止める者がいなかったのである。
佐賀藩は、引き払っていた。
年番の佐賀と福岡は、年ごとに交代で千人の兵を長崎に置く。その重い負担の代わりに参勤交代を軽くされ、両藩は「百日大名」と呼ばれた。警備を解いて国へ帰れるのは、来航したオランダ船が9月20日までに出帆したときで、これを「減番」と呼ぶ慣例である。だが、いまは8月15日、その時期にはまだひと月も間があった。佐賀藩は、慣例を待たず、独断で兵を引き揚げていたのである。
かつて正保4年、禁を破って交易再開を迫るポルトガルのガレオン船二艘を長崎に封じ込めたとき、この港には千五百艘の船と五万の大軍が集まった。図書頭が、その故事を知らぬはずはない。だが太平の160年が過ぎたいま、彼が動かせる兵は、ほぼ皆無であった。避難してきたドゥーフが聞き知ったところでも、武装できる者はせいぜい百五十人にすぎなかったという。
千人の備えが消えていたことを、誰一人、報告しなかった。図書頭自身、それを確かめてもいなかった。着任以来、両御番所を一度見て回ったきりである。その付けが、よりにもよって、この夜に回ってきた。
図書頭は動いた。異国船来航の第一報では「大村は領内を固めよ、唐津は見回りに及ばず」と指示していたが、それを撤回し、佐賀・福岡・大村へ、ただちに出兵せよと命じる。近い諫早にも、同じ命が飛んだ。
だが、兵は来ない。番所の人数配りを幾度催促しても、諫早豊前は「人数まもなく参る」と答えるばかりで、いつ着くとも言わぬ。両御番所は、なお手薄のままであった。
検使を次々に遣わしても、心もとない。図書頭は、人見藤左衛門と荒堀五兵衛を番所へ差し向けた。二人は潔く請け、荒堀は槍を持たせてほしいと自ら願い出て、貸槍を握って出ていった。
同じ役を、もう一人に命じた。岩原役所の勘定方、中村継次郎である。だが、返事は煮え切らない。検使を勤める覚悟がない、という。着る物が手薄だというので、上條徳右衛門が衣類まで貸してやった。それでも、腰は上がらない。戦うための槍を求めて出ていった荒堀とは裏腹に、中村は、借りた衣をまといながら、ついに動かなかった。
座してはいられぬと、図書頭は市中見回りの出馬を命じた。異国人上陸の噂に浮足立つ大波止・五島町へ、将軍の御黒印を自ら守護し、行列を立てて回る。奉行自らの出馬となれば、五十名を超える行列の支度も要る。この混乱のさなかに、なお手間のかかる格式を選んだのである。将軍の任命状を掲げて練り歩くことは、竦(すく)む町と警備の者たちへの無言の圧力でもあったろう。だがそれ以上に、これは戦術ではなかった。玄関番が持ち場を捨てて消え、中村継次郎のように命を渋る者まで出た夜である。律儀なエリート旗本である図書頭は、座視できぬ己の焦燥を行動に変えねばならなかった。武将としての立ち居振る舞いを、竦む家来たちに自ら見せる必要があったのだ。この見回りに、目に見える成果はなかった。長崎の街は、総動員であった。町年寄は武装した役人を率いて、空になった出島・唐人屋敷・米蔵の見張りに立ち、老いた外国人世話掛は、大筒を据えて大波止を守った。
図書頭は、ほどなく西役所へ戻った。だが、オランダ人はまだ帰らない。異国船も、なお港口に居座っている。夕刻に二人が奪われてから、すでに真夜中である。図書頭は動き続けた。だが、長崎を覆った混乱は、なお一歩も収まらなかった。
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