「港中の船を残らず焼き払う」――その一文が読み上げられた瞬間、図書頭の顔色が変わった。
異国人どもは入港を禁じた湊へ押し入った上、望みの品を今夜までに届けねば停泊中の船をことごとく焼くと言ってきたのである。これまで図書頭は、オランダ人を「御国の預かり人」としてその身柄を案じ、ドゥーフの言を容れて異国船への補給さえ許してきた。だが、脅迫は別である。それは長崎奉行への、ひいては御公儀への挑戦であった。
図書頭は座を立ち、奥へ入った。やがて戻るまでの長く激しいやり取りを、「崎陽日録」27pはこう伝える。
『図書頭奥に被入申さるゝは異人共緩怠也望之品を於不遣は湊中の船中共焼拂んと申送る餘りに法外なる申分なれば望の品々遣はすに及はず是より先を駆けて焼打すへし』
――異国人どもが禁を犯して湊へ入り込んだのは不埒千万。望みの品を送らねば湊中の船を焼き払うと言ってきたが、あまりに法外な申し分である。品など送るには及ばぬ。こちらから先手を打って焼き討ちにせよ。
屈服ではなかった。
異国船を焼き討ちにする。
図書頭は先手を打つ決断を下した。
そのまま図書頭は佐賀聞役・関傳之允と筑前聞役・花房久七の両名を書院に呼び出し、面と向かって命じた(「崎陽日録」27p)。
『異国船よりかひたんえ以書簡申越候は望之品々今晩迄に不相遂に於ては湊内船焼拂う可申段申越之不埒至極之義付品々是より先を駆焼打候打可致候其爲図書頭にも御番所え可致出張候間急キ其用意致し未人數參着無之候はヽ佐賀蔵屋數並第前水浦屋數に有合之人數引連両人とも龍出候様急度被申達候處傳之允答て焼打之手段深堀より返答不申越候間暫く猶予致し候様にと申次の間へ引て用人徳右衛門へ右同様の趣申聞傳之允久七のみにて再應同様之答も恐入候付帰宅之上重役の者へ猶又申聞へしとて退散す』
――船を焼き払うとは不埒至極。こちらから先んじて焼き討ちにせよ。図書頭みずから番所へ出張するゆえ、急ぎ支度を整えよ。人数が足らねば佐賀蔵屋敷と前の水浦屋敷にいる有り合わせの兵を引き連れ、両名とも軍勢の先頭に立って出陣せよ――。たとえ寡兵であろうと、有り合わせの兵で異国船を焼き打ちにする。図書頭はそう肚を決めたのだ。
ところが関傳之允は動かなかった。
対応の一切を支藩・深堀藩へ丸投げしてきた傳之允は、出陣の命に応えようとせず、「焼き討ちの手段について深堀から返答が来ておりませぬゆえ、しばらくご猶予を」と申し述べた。そして次の間へ退き、用人・徳右衛門へ同じことを繰り返す。傳之允と久七の二人だけで重ねて同じ返答をするのは恐れ多い、帰宅して重役へさらに諮ると言い残し、退散した。
戦支度を整えるでもなく、ただ「猶予を」と繰り返し、ついには重役を持ち出して逃げを打ったのである。
その重役が誰であったかは、ほとんど記録に残らない。長崎詰の家老は十八歳になったばかりで、心を砕いて事に当たったが番頭二人の不始末により後に押込を命じられたと、通航一覧453pが「文化五年或伝」として伝えるのみである。だがいずれにせよ、佐賀藩側は混乱の極みにあり、誰も決断を下せなかった。
奉行の命に応えられる兵力など、そもそも長崎には存在しなかったからである。
図書頭は戦う決意を固めた。
しかし、その時の長崎には戦う軍勢そのものが存在しなかった。
図書頭が最後に望みを託せるのは、長崎に隣接する深堀藩だけであった。