佐賀藩を代表する学者、古賀穀堂は、昌平黌の学官であった父精理に学んだ俊才で、鍋島斉直が九代藩主になった翌年の文化三年(一八〇六年)に藩校弘道館の教授に就任した。彼の残した日誌は、武藤長蔵博士が編纂した『日英交通資料』その十一に収録されている。藩士が古賀のもとを訪れて意見を交わし、藩政を報告する様子が記録されており、藩主斉直の同時代人であるだけに、その藩政批判は率直で辛辣である。
この日誌からは、フェートン号事件発生時の佐賀藩の内情の一端を垣間見ることができる。文化五年(一八〇八年)八月十五日からの数日間を引く。
『十五日 朝早く、藤崎十兵衛が大坂へ向けて出発した。浪華(大坂)に直行し、鍋島源右衛門と同行する。この旅の目的は、大坂で商議を行い、借財の利息を減らして財政の負担を軽くすることにある。これは大事業であるが、賛否が分かれて多くの意見が飛び交い、世論の動揺が懸念される。
十六日 今夜、長崎から急報が届いた。ロシア船が高鉾島付近に入港したという。その意図は測りがたく、長崎の人々は騒然となった。藩の城内でも諸宗室、大夫、官人たちが集まり、議論が白熱して夜を徹して続いた。ロシア船は、実はイギリス船であるようだ。
十七日 長崎へ向かった者の中には、参政の相良内記、属官の百武善左衛門、長崎奉行所の原口彌左衛門らがいるという。
長崎では、鎮台(著者注・長崎奉行のこと)が検使を派遣してロシア船の目的を尋ねた。しかしロシア人は無礼にも検使の槍を奪い、オランダ人のカピタンとその仲間二人を拘束した。検使はどうにか逃げ帰ったが、ロシア人はさらに深堀藩の人物をも拉致しようとし、その者は泳いで逃れたという。鎮台は、江戸に決戦の覚悟を伝える急報を送り、長崎邸はこれに応じるべく準備を進めた。先鋒部隊と警備部隊の二隊がただちに佐賀から出動し、長崎の情勢は沸き立つように緊迫している。
十八日 朝、洪(軍議の場)に赴く。牟田口宮富、成富千兵衛、田中東兵衛らが出陣の準備を進めるが、その決定には多くの異論があり、同意しない者も多い。昼に再び洪へ戻り、洪翁(軍議の主催者)の話を聞く。彼は「ロシア人の態度はますます無礼であり、決戦は避けられぬ。君命により、近日中に出兵の準備を急がねばならぬ」と述べた。
佐賀藩の状況は極めて危機的であり、まるで積み重ねた卵のように不安定である。その理由は二つある。
一つ、江戸の藩邸は財政的に困窮し、銀の供給が絶たれている。さらに世子(後継者)が去る七日に死去し、藩にとって未曾有の危機である。
二つ、大坂での借銀交渉のため、鍋島源右衛門と藤崎十兵衛がすでに出発した。しかし長崎での軍備が不足し、食糧の確保すら危うい。それにもかかわらず、関係者はこの危機を深刻に受け止めず、まるで他人事のように考えている。』
この日誌の十五日の記述は重い。異国船襲来の急報が届く前日、佐賀藩は借財の利息軽減策をめぐって藩論が沸騰していた。藩士が大坂へ向けて発つほどの大事業であり、賛否が分かれて世論が動揺するほどであった。佐賀藩は「困窮」という宿痾に、息も絶え絶えだったのである。
そこへ十六日の夜、長崎からの急報が飛び込んだ。だが城内の対応は、すぐに派遣軍の編成にかかる、というものではなかった。諸宗室、大夫、官人が集まり、議論が白熱して夜を徹したというのである。これは明らかに異常な事態であった。佐賀藩は「長崎御番」という長崎警備の大役を担い、そのために参勤交代では諸藩より負担を軽減されている。本来であれば議論などしている暇はない。出動兵士の軍装、兵糧の炊き出しと、やるべきことは山ほどある。それを夜通し議論に費やした。
十八日の出陣準備にも、なお異論が噴出した。「その決定には多くの異論があり、同意しない者も多い」という。長崎警備を任じられた当の藩が、出兵の可否で割れているのである。幕府がこれを問題視したのは当然であろう。
この鈍重さは、福岡藩と並べると際立つ。同じ長崎御番でありながら、福岡藩(黒田藩)はこの年が非番であった。それでも――
『家老黒田源左衛門諸役人同道、御役所罷出申演候て、去る十五日異船入津人數可差出御達之趣、十六日相達、卽刻人數相調へ、海陸とも八千餘人晝夜走せ付、只今到着仕候』(通航一覧四四五頁)
非番の藩が、十六日に通知を受けるや、ただちに八千余人を調え、陸と海から昼夜を分かたず急行させ、十八日の昼には長崎へ到着させている。急報から到着まで、中一日しか要していない。八千余人の軍勢を動かす軍費・兵糧の調達が並大抵でないことは言うまでもない。それを非番の藩がやってのけた一方で、当番の佐賀藩は議論に明け暮れていた。
なぜこれほど動けなかったのか。日誌が二つの理由を挙げている。江戸藩邸の困窮による銀の途絶、そして世子の死去である。襲来の九日前に世継ぎを失っていた。藩の中枢はその衝撃の只中にあった。さらに借銀交渉のために重臣が大坂へ発ったばかりで、長崎の軍備も兵糧も整わない。動こうにも、動かす銀がなく、動かす態勢がなかった。佐賀藩は、幕府から任ぜられた長崎御番よりも、藩財政の逼迫を深刻に受け止めていた――そう言うほかない。
では、その困窮にあえぐ佐賀藩本藩は、図書頭の度重なる増援督促に、どう応えたか。
古賀の日誌の十七日には、参政の相良内記、属官の百武善左衛門が急ぎ長崎へ向かったとある。これは関傳之允からの続報を受けての差し立てであったろう。続いて「先鋒部隊と警備部隊の二隊がただちに佐賀から出動し」とあるが、結局この二隊は出動しなかった。愚図愚図しているうちに異国船(フェートン号)が出帆し、図書頭から「出動取り止め」の指令が届いたからである。
老中への報告には、「異国船出帆のため、長崎奉行松平図書頭から出動を取りやめるよう指令が来たので取り止めた」とある(通航一覧四三七頁)。態勢が整わず間に合わなかったことには、何ひとつ触れていない。
気になるのは、この報告書に『松平図書頭より申し遣わされ候に付』とあることである。「図書頭」は官職であるから、様付けがなくとも無礼とは言えない。だが他藩の報告では「松平図書頭様」と様を付ける例が多い。ここにも佐賀藩の屈折した感情が滲んでいると見るのは、考え過ぎだろうか。
図書頭が幾度も呼びつけ、激しく責め立てた聞役関傳之允もまた、この混乱しきった佐賀藩の内部事情の中で動いていた。動こうにも動けぬ本藩を背負い、なすすべもなく奉行所の前に額を擦りつけていたのである。
では、その佐賀藩を率いていた藩主とは、いかなる人物だったのか。
鍋島斉直である。