長崎には、戦える兵がいなかった。
湾内には英艦フェートン号が居座り、ボートを下ろして人質を取り、薪水を脅し取ろうとしている。にもかかわらず、図書頭の手元に動かせる武力はほとんどなかった。長崎警備の本役である福岡・佐賀の両藩は、この年いずれも在番の人数を大幅に減らしており、いざというとき即座に出せる兵はわずかしかいない。佐賀藩の蔵屋敷をのぞいてみても、実働の兵力と呼べるものは見当たらなかった。図書頭がどれだけ見渡したところで、湾に乗り入れた異国の軍艦に立ち向かえる手駒は、どこにもなかったのである。
だが、ただ一つだけ例外があった。深堀の兵たちである。
深堀藩は石高はわずか六千石、佐賀藩鍋島家の支藩で、領地は長崎に隣接していた。藩主は佐賀藩の家老職が務めるという小藩にすぎない。起源は戦国の深堀氏にさかのぼり、大村氏の一族とされる。天正十五年、豊臣秀吉が長崎を直轄地としたとき、深堀氏は周辺の領地を失い、深堀の地に押し込められた。やがて鍋島家の支配下に入り、深堀藩として続いた。系譜としてはそれだけのことである。
問題は、その小藩が何を抱えていたかであった。
寛永以来、佐賀藩は幕府から長崎の防衛を命じられており、その実務を担っていたのが深堀鍋島家だった。深堀藩の領分には香焼島、伊王島、高島が含まれる。いずれも長崎港の外海に浮かぶ島であり、外洋から湾内へ通じる航路の咽喉にあたる。その島々を押さえ、外海に向けて高鉾、蔭ノ尾、長刀岩の三カ所に台場を据えていたのが、この藩であった。長崎防衛の要となる台場は、深堀藩の領内にあった。つまり、外海から湾口へ至る海域そのものを、深堀藩が日々警固していたのである。
軍備も、小藩のものではなかった。大井昇の研究によれば、藩士とその家臣を合わせた総兵力は三百人を超える。船を操る船頭役者船は三百五十七人、緊急動員を解いた減番のときでさえ、なお百六十四人を確保していた。保有する船舶は五十六隻にのぼり、そのうち一隻は物見のための大型の井楼船である。これがどれほどの数か。幕府が長崎の戸町・西泊の両番所に置いた船は、合わせて二十四隻にすぎない。一支藩が、幕府直轄の両番所の倍以上の船を、独力で備えていたことになる。外洋に向けた哨戒、台場の保持、海上での迎撃――深堀藩は、それを日常の任務とする武装集団であった。
ここに、図書頭がすがろうとした理由がある。
長崎奉行所は、行政機関である。法を司り、貿易を統べ、町を治める役所であって、軍隊ではない。配下の与力・同心はいても、海に出て軍艦と撃ち合うための部隊ではなかった。これに対し、深堀藩は軍事組織であった。台場を持ち、外洋を哨戒し、船を出して敵を迎え撃つことを本来の任務とする集団である。図書頭がこのとき求めていたのは、文書を起こし指図を伝える文官ではなかった。船を出し、銃を構え、湾口を塞ぐことのできる兵であった。そして長崎の周辺で、それができる者は深堀藩をおいて他になかったのである。
佐賀本藩を動かす道は、事実上閉ざされていた。図書頭から矢のような催促を受け続けた佐賀藩聞役の関傳之允は、自藩の蔵屋敷に実働兵力がほとんどいないことを誰よりも知っていた。本藩から兵を呼ぶには日数がかかり、その間にも英艦は湾内で振る舞い続ける。だからこそ関は、ひたすら深堀藩への肩代わりを画策したのである。本藩はすぐには動けない。動けるとすれば、深堀しかない。関の必死の周旋は、その一点に注がれていた。
深堀藩には、武勇の伝統もあった。元禄の昔には、深堀事件と呼ばれる流血沙汰を起こしている。長崎の町年寄を相手取り、藩士数十人が押し寄せて首を討ち取ったという事件で、討ち入った十人が切腹となってもなお、藩主にお咎めはなかった。長崎奉行ではなく幕府老中の裁断が下されたあたりに、深堀藩士への同情の色がにじむ。荒事を辞さぬ気風が、この藩には流れていた。
もっとも、その事件から百八年が過ぎている。フェートン号が現れたとき、深堀の兵がなお往時の気概を保っていたかどうかは、誰にも分からなかった。
その深堀の兵たちに、図書頭は最後の望みを託した。
長崎を救いうる、唯一の戦力。しかし、その援軍はすぐには現れなかった。図書頭は、深堀の兵が姿を見せるのを、焦れるような思いで待たねばならなかった。