8 悲報
夜も更けたころ、沖に潜んでいたあの異国船の脇腹から、黒々とした小艇三艘が、音もなく海面へ滑り降りた。オールが水を切る音だけが、しじまに規則正しく響く。満月は皓々と港を照らし、その白い光の帯の上を、三つの影が滑るように動いていく。何をしに来た船なのか、誰も知らない。大波止の警備陣も、港に面した町々の者たちも、ただ息を殺して、闇に浮かぶその不気味な影を見つめるほかなかった。得体の知れない小舟が、夜の港を我が物顔に徘徊している。その事実だけが、見る者の胸のうちに、じわりと恐怖を染み込ませていった。
出島の南西、わずか300メートルほどのところには、唐船が幾艘も舷を寄せ合い、身を縮めるようにして停泊していた。武装した異国の小舟が、その間近を音もなく行き交うのを見て、唐人たちの顔からみるみる血の気が引いていく。船という船が、慌ただしく煙を焚き上げた。闇にくゆる白い煙が、月明かりに浮かび上がる。続いて、唐人屋敷への合図であるフーフラの、甲高く尾を引く音が鳴り渡った。唐人屋敷でもこれに応え、大鉦をけたたましく打ち鳴らし、加勢の船を幾艘も漕ぎ出させる。それを遠目に見た他の廻船は、船火事が出たものと思い込み、たちまち浮き足立った。異国船から火を放たれたと勘違いした者たちは、陸に上がっていた乗組員も構わず、我先にと自分の船へ駆け戻っていく。
けたたましい鉦と喇叭の音は、狭い谷あいの町並みを駆け抜けるようにして、瞬く間に長崎中へ広がっていった。市中では、オロシャが乱入したという叫び声が飛び交い、山野へ立ち退くべしと、男も女も戸を蹴破るようにして道々にあふれ出た。海も陸も、一度に騒ぎ立つ。その物音は、幾重にも重なり合って、大波が岸に寄せるかのようであった。
稲佐郷では婦人の乗る船が呼び止められたという。北瀬崎では漁師が、深堀では佐賀の足軽が、それぞれ取り押さえられて食物まで奪われたともいう。梅香崎あたりでは、水門を打ち破ろうとする者まで出たとの話も広まった。真偽のほどなど、もはや誰にも確かめようがない。人が捕らえられたらしい、食物を奪われたらしい、出島の水門が破られたらしい。そうした根も葉もない流言が、口から口へ、闇の中を伝わっていく。
人々は家財を車に積んで逃げ惑い、その恐怖は役人たちをも浮き足立たせて、奉行所の玄関からさえ、いつしか人影が消えていた。出島のオランダ人たちも、館を襲うために異人が大波止に上陸したという噂に追われて立ち退き、年番大通詞中山作三郎に守られて、西役所へ移ってくる。ドゥーフは、将軍の御朱印を、その胸元にしかと懐いていた。
そこへ、検使の二人が戻ってきた。菅谷保次郎と上川伝右衛門である。
その帰り方に、この日の彼らのすべてが表れている。現場に最も近い西泊の警備所へ自分たちの船だけで乗りつけ、非常警備につけと言い捨てると、槍持ちも従者も、配下の船さえも置き去りにしたまま長崎へ向かった。しかも、長崎港の表玄関である大波止には着けていない。出島を挟んだ反対側の江戸町から、ひっそりと上陸したのである。供も槍も失った二人きりの姿を、人目に晒したくなかったのであろう。恥ずべき振舞いであることを、当人たちが誰よりも承知していた。その何よりの証拠が、この上陸地点であった。
髷は乱れ、潮を吸った袴の裾が重く垂れている。肝心のオランダ人は、奪われたままであった。
続いて、山田吉左衛門が血相を変えて駆け戻ってきた。額に汗を浮かべ、息も整わぬまま言上する。拉致の報を受け、花井常蔵とともに御役所附両組二十人、玉込め鉄砲二十挺を率いて、西泊・戸町の両御番所へ差し向けられた、その一人である。花井は番所に残り、山田だけが、夜道を駆け通してきたのだった。
西泊と戸町は、長崎港口を西と東から扼する両御番所である。本来ならば、千人もの佐賀の兵が、鎧兜に身を固めて詰めているはずの場所であった。それが、もぬけの殻だという。両所を合わせても五十人に満たず、石火矢の備えすら、ない。
山田は、これを人前では決して口にしなかった。図書頭ひとりの耳に、声を潜めて伝えている。当然の判断であった。長崎の守りが空だという事実がひとたび漏れれば、ただでさえ流言に浮足立っている町は、収拾がつかなくなる。げんに奉行所の役人でさえ、玄関から姿を消しているのである。
長崎御番を務める佐賀と福岡の両藩は、千人を置く重い負担の代償として、参勤交代を年に百日へ軽減されていた。世に百日大名と呼ばれる所以である。さらに、その年のオランダ船が9月20日までに出帆すれば、警備を解いて国へ帰ることが許された。減番という。だが、この日はまだ8月15日である。減番が許される道理は、どこにもなかった。それを佐賀藩は、誰に断ることもなく、独断で行っていたのであった。
これを聞いた図書頭は、束の間、声を失った。
そして、この一報によって、すべてがひとすじに繋がった。両御番所の前を、悠々と通り抜けていった小艇。港内を我が物顔に漕ぎ回るあの三艘。あっけなく捕らえられたオランダ人。問い詰めても、煮え切らぬ返答しか寄越さぬ佐賀の聞役。そのどれもが、ただ一つの事実を指し示していた。長崎を守るべき兵は、はじめから、そこにいなかったのである。
のちにドゥーフは、その回想録に、この時奉行は自らの命運を悟ったであろう、と書き残している。だがそれは、オランダへ帰ったのちに、図書頭が切腹したという結末を知ったうえで綴られた一文である。この夜の当人の胸を占めていたのは、おそらくもっと単純な、しまった、という思いであったろう。なぜ御番所の駐留人数を、この目で確かめておかなかったのか。着任以来、前任の曲渕甲斐守とともに一度視察したきりであった。多忙を理由に目配りを欠いてきた、その最も大きな付けが、よりによってこの夜に回ってきたのである。いま歯噛みしても、遅い。
長崎の守りは、ひとえに、この佐賀の千人を柱として成り立っていた。その柱が、まるごと、失われていたのである。なるほど奉行所の地役人は、二千人を数えはする。だが、その大半は会所と役所を切り盛りする町人であって、戦える者ではない。町使、散使、唐人番を合わせても百名ほど、しかも実戦の心得などない。武器を取れる下級の役人をかき集めてみても、せいぜい百五十に届かぬ。いざ動かせる兵は、図書頭の手もとに、ほとんど残されていなかった。
かつて正保4年、禁を破って入港したポルトガルの船二艘を封じたときには、九州諸藩の船千五百艘、兵五万が長崎に集まっている。161年前のことであった。その先例を、図書頭は当然に知っている。知っているだけに、いま自分の手にあるものとの落差は、いっそう身に堪えたはずである。太平の161年が長崎の守りから何を抜き取っていったのか。それが、この一夜で残らず露わになった。
いま、この長崎で、図書頭が自らの手で動かせる者は、わずか百五十に満たなかった。
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