プロローグ

プロローグ 五島沖、10月3日

正午の観測
1808年10月3日の正午、英国軍艦フェートン号は、五島列島の西方の海上にあった。
この日、艦上で観測された緯度は北緯32度21分、クロノメーターによって算出された経度は東経127度55分である。そしてその日の航海日誌の余白には、長崎までの距離と方位が、簡潔に書き留められている。
Nagasaki N 80 E 170 Miles.
長崎は、ほぼ真東にあった。距離にして170マイル、順風にさえ恵まれれば、一昼夜のうちに達しうる隔たりである。わずか1行のこの記載は、この艦がまぎれもなく長崎を目標に定めて航行していたことを、何よりも端的に物語っている。
漂流でも、偶然の接近でもない。170マイルという数字は、そこへ行くと決めた者だけが書き留める数字である。
士官たちは、長崎の位置を勘や推測ではなく、数値として正確に把握していた。緯度はその日の太陽の南中高度から割り出され、経度は艦載のクロノメーターから算出される。18世紀末以来、英国海軍が世界中の海で幾度となく繰り返してきた測位の作法が、この日の正午もまた、五島沖の海の上で、寸分違わず踏襲されていたのである。
午後
午後に入っても、艦は東へ進み続けた。
午後3時半、当直の士官は、五島列島の西端が北方およそ7リーグの位置にあることを記録に残している。北へ20海里あまりの海上に、島影の北端が姿を現していた。
やがて時刻が午後5時半に至ると、艦内の動きが一段と引き締まる。
Mustered at Quarters.
戦闘配置点呼である。
フェートン号は、英国海軍のフリゲートであった。喜望峰を回り、インド洋を越え、必要とあらば東洋の海まで展開することを前提に建造され、運用されてきた艦である。主武装をなす18ポンド砲は、一発の重さおよそ8キロの砲弾を、長い砲身から遠くまで飛ばし、敵艦の船体やマストを撃ち砕く。一方、砲身の短いカロネードは、射程こそ及ばないが軽くて扱いやすく、近距離で素早く撃ち込んで敵艦を制圧する。フランス革命戦争から続く長い戦時のなかで、この種の艦は、あらゆる海域で、あらゆる事態への対処を命じられ続けてきた。乗組員の多くは、すでにヨーロッパ、インド洋、あるいは東洋海域での長期の航海を経た者たちであった。
砲甲板では、砲員が砲身に手をかけ、薬室の状態を確かめていく。火薬庫の鍵が士官に渡され、灯火が点検される。号令は短く、復唱は低く、号令と動作のあいだにはほとんど間がなかった。これは奇襲のための行動でも、儀礼でもない。点呼が終わったとき、艦は戦う備えのできた状態を、自らの内側で確かめ終えていた。
恐るべきは、これが特別な支度ではないという一点である。彼らにとって、戦えるようにしておくことは日課であった。戦うことが常態である国の艦が、200年のあいだ一度も戦っていない国へ、いま向かっている。
同じ頃、視界のなかで島影が長く広がっていく。航海日誌は、こう記す。
The Island of Gotto Extended from N55W to N7E.
艦の左舷側、ほぼ100度近い角度にわたって、五島列島が黒々と横たわっていた。さらにその島々の上には、2つの峰が並んで突き出ているのが認められる。The Asses Ears。長崎に近づく英国船にとって、古くから知られた航海の目印である。
古くから知られた、という一語も、また重い。英国の船乗りは、これまでにもこの海を通っていたのである。日本の側は、そのことを何ひとつ知らない。
艦は、目標を視野に収めた。夜が、始まろうとしていた。
この夜が明けるまで、長崎はまだ、何も知らずにいる。
J版

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