14 暗殺指令

 二人のオランダ人は、まだ戻らない。異国船は、港の奥に錨を下ろしたまま、微動だにしない。二人を船腹に呑み込んだまま、ただそこに居座り続けている。武力で威嚇するでもなく、要求を突きつけてくるでもない。ただ、動かない。何を待っているのかさえ分からぬこの沈黙こそが、図書頭にとって最も始末に負えなかった。
 西役所の広間には、鎧を着けた者や書付を抱えた者が集まっていた。注進が届くたびに、誰かが立ち、誰かが出てゆく。両御番所の空も、石火矢の不在も、すでに知れ渡っていた。残る望みは、佐賀・福岡・大村へ発した出兵の命だけである。だが、その注進だけが、いつまでも届かなかった。
 座には重い沈黙が落ちていた。
 その凍結を破ったのは、図書頭の怒声であった。「関傳之允を、呼べ」
 声には、抑えきれぬ怒りが滲んでいた。佐賀藩聞役の関傳之允は、程なく広間に姿を現した。図書頭に呼びつけられるのは、この夜すでに幾度目かのことである。
 図書頭が問うた。「佐賀の兵は、まだ着かぬのか」
 関は、平伏したまま、はきとした返答を避けた。「ただいま、国元へ急ぎ手配りをいたしております」
 「では、いつになれば来る」
 「それは……追って、ご報告仕ります」
 史料は、関の胸の内までは語らない。だが、想像はつく。国元の実情を、誰よりも知っていたのは関自身であった。佐賀の兵は、来ない。減番の名目で、すでに引き払ってしまっている。それを正直に申し上げれば、佐賀藩の失態がその場で露見する。かといって、いつまでも「追って」を繰り返せば、いずれ化けの皮は剥がれる。進むも地獄、退くも地獄であった。関には、事実を告げる勇気も、偽りを貫き通す胆力もなかった。ただ、時間を稼ぐことだけが、彼にできる、唯一の芸当だったのである。
 何を問うても、暖簾に腕押しであった。図書頭は、すぐには口を開かなかった。西泊も戸町も空であり、石火矢もなく、頼みの佐賀兵も、いつ来るとも知れない。座には重い沈黙だけが落ち、策を言う者は誰もいなかった。言える者も、いなかったのである。
 やがて図書頭が顔を上げた。「使者を、船へやる」
 穏やかに、丁重に乗船を願い出よ。船長に会い、来航のわけを問え。望みがあれば、言わせよ。二人のオランダ人を返すなら、その望みを叶えてやる、と告げよ。
 ここまでは、まだ交渉であった。
 図書頭は、続けた。「もし、船長が応じねば」
 一拍、間があった。「不意を突き、広刃の刀で、船長の首を斬れ」「そして、その場で、腹を切れ」
 広間の空気が、凍りついた。交渉ではなかった。討ち死にの命令であった。たった一人で敵艦に乗り込み、船長を斬り、その場で腹を切る。船長を斬ろうが斬るまいが、遣わされた者は死ぬ。生きて戻ることは、はじめからない。
 図書頭は、実戦を知らない。日本の地に戦がやんで、すでに170年が過ぎている。かたや、ナポレオン戦争を生き抜いた英海軍は、二人を拉致したあの一幕だけでも、統制の取れた動きを見せていた。覚悟だけでは、その差は埋まらない。
 だが図書頭は、なお決断を下してはいなかった。この策が成るものかどうか、異国の軍艦を知る者に確かめる必要があった。
 図書頭は大通詞の中山作三郎を呼んだ。異国の軍艦を知る者は、長崎にドゥーフのほかにいない。奪われた二人も、ドゥーフの手の者である。
 作三郎は出島へ赴き、図書頭の考えを伝えた。ドゥーフは、即座に答えた。「そのような攻撃に、益はない。船長も、使者も、死ぬだけだ。何も達せられはせぬ。武装した兵を、大勢、船へ送り込むがよい」
 作三郎は、答えた。「その兵が、いない」「2日、3日のうちにも、来られぬ」
 返す言葉は、なかった。同じ空白は、すでに両御番所で図書頭自身が思い知ったばかりであった。ドゥーフの説く正攻法もまた、その同じ空白に阻まれていたのである。
 この計画そのものが、通航一覧にも用部屋日記にも、一行として残されていない。後世に伝えたのはドゥーフの商館日記だけであり、そこにさえ、命じられた用人の名は記されていない。
 数刻前、これよりはるかに軽い務めを命じられた中村継次郎は、言葉を濁して動かず、借りた衣をまといながらも腰を上げなかった。だが、この用人は、逃げなかった。
 刀を受け取り、「承知仕りました」と答えた。黙って、頭を下げた。そして、立ち上がった。

J版

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