8 凶報

中秋の名月が、日見峠の上に昇った。天は晴れ渡り、港の水面が月光をはねかえすように輝いて、奉行所の庭にも、青白い光が満ちている。
次の間では、月番の近習が、膳の支度を調えていた。今宵は中秋の名月、しかも待ちわびたオランダ船が、ようやく港へ入ったという。夜が更ければ、図書頭様も酒や肴菓子のひとつくらいは召し上がられよう──そう胸のうちで算段しながら、近習は居間のほうへ進もうとする。長い夏のあいだ張りつめていた奉行所に、その夜ばかりは、ひさしぶりの安堵が漂っていた。
そこへ、検使からの書状が届いた。大通詞の中山作三郎が持参したもので、四郎ヶ島のあたりで認めたものらしい。
「例年よりは大型の船ながら、紅毛船に相違なく、荷足も深く見えますれば、まずはご安心下さい」
荷を満載したオランダ船──近習がこれを図書頭の前で読み上げると、奉行の面も、ようやくやわらいだ。名月の夕べに、これ以上ふさわしい知らせはない。やがて膳が運ばれ、盃が満たされようとしていた。
──その盃が、唇に届くことはなかった。
玄関のほうで、ただならぬ足音がした。四郎ヶ島から漕ぎに漕いできた隠密方の吉岡十左衛門が、息を切らして駆け込んできたのである。広間へ転がり込むようにして、用人の木部幸八郎に急を告げる。木部の顔色が、さっと変わった。
その報せは、近習がまさに酒肴を差し出そうとした、その刹那に、図書頭の耳へ届いた。
「直に聞く」
図書頭は盃を置くと、すぐさま対面所へ立ち、吉岡を呼んだ。
吉岡は平伏したまま、声を絞り出した。
入港したのはオランダ船ではござりませぬ。異船にござります──。
日の暮れ方、その船は、高鉾島の前に碇を入れた。検使も前へ出られ、旗合も済んだように見えた。そこで紅毛の本船へ近寄ったところ──と、吉岡の声が震えた。青く塗ったバッテイラが一艘、海上へ巻き下ろされる。天幕を張ったその舟は、左右で杓子のような橈を操りながら、ぐんぐん本船へ寄っていった。と見るうちに、船板が跳ね上がり、下から十五人ばかりが躍り出る。めいめい短筒を握り、火縄を振り、剣を帯び、白刃をかざし、喚き声をあげて、こちらから出ていた紅毛人二人に襲いかかった。一人は拒もうとしたが、たちまち剣を突きつけられ、二人ともに捕り押さえられて、本船へ引き入れられた。検使船の船頭も棹子も、われ先にと海へ飛び込み、あたりの漁師船も商い船も大騒ぎで逃げ惑い、なかには海へ落ちる者まであった──。
吉岡は本来、カピタンへ返すべき証文を受け取り、御役所へ差し出す役目であった。本船へ幾度も催促したが、なぜか、返事は出てこない。不審に思いながらも港口まで付き従ってきたが、あまりの不穏さに、ついに追従をやめ、港口へ走り入って検分し──そうして、いま申し上げたこの有様を、目の当たりにしたのだという。
オランダ人が、奪われた。
図書頭の顔色が、変わった。だが、立ち上がるのは、速かった。
「物の具持て」
近習が、具足柩を運び込む。図書頭は、兜を除いた小具足を──籠手、脛当、脇楯と、手早く身につけていく。鎧をまとった奉行は対面所に床几を据え、次々と上がってくる注進に、その場で手配を下していった。
盗賊改方の田口惣兵衛、沖取締遠見番の児島唯助、吉川次郎平──沖の様子が、息せき切って次々に運ばれてくる。図書頭は自らそのひとつひとつを聞き、矢継ぎ早に指令を飛ばした。
「物の具持て」の一声で、奉行所は一変した。
上條徳右衛門の家来・毛利健助は、用部屋へ鎧一式を運び込み、いつでも着られるよう広げた。高橋忠左衛門は、自分の詰所へ走って鎧を身につける。具足の触れ合う音、走る足音、呼ばわる声──。先ほどまで膳の支度に静まりかえっていた館内が、たちまち騒然となった。
図書頭は、隣り合う代官屋敷の高木作左衛門を呼んだ。
「港内の防備、かねて打ち合わせの通りにせよ。舎弟道之助は、一隊を率いて稲佐郷へ出よ」
岩原屋敷の支配勘定や普請役にも、招集がかかる。人見藤左衛門、中村継次郎、荒堀五兵衛、松本佐七──いずれも物の具に身を固め、奉行所へ駆けつけて、詰めた。
夜の長崎を、伝令が走った。
やがて、佐賀藩の聞役・関傳之允が呼び出された。上條徳右衛門の案内で、対面所へ通される。
この日の朝、彼は「香焼島の沖に異船が見えました」と、報せに上がったばかりであった。あのとき奉行所は、「季節外れとはいえオランダ船なら大慶」と、すっかり祝いの色に包まれていたのである。
それが、どうだ。
対面所に現れた奉行は、鎧姿であった。関傳之允は、思わず息を呑んだ。
図書頭の口調は、朝とはまるで別人のように厳しい。
「すぐに紅毛人二人を取り戻せ。その上で、船を打ち砕き、焼き沈める。焼草火船その他の用意をし、書面にて報告いたせ。敵船には悟られぬよう、国許へ増援を即刻要請せよ」
関傳之允は平伏して、これを承った。が、その胸の内は、穏やかではなかった。穏やかどころか、激しく波立っている。図書頭は、気づかない。脇に控える上條徳右衛門も、気づかない。焼き打ちを決行せよ──その命に、関傳之允は、どう応えればよいのか。いや、応えようが、ないのだ。佐賀藩の警備には、誰にも言えぬ事情があった。
彼は早々に対面所を辞し、港に面した大黒町の佐賀藩屋敷へと向かった。名月の照らす夜道を急ぎながら、その胸には、どす黒い不安が、ただ膨らんでいくばかりであった。
町年寄で砲術家の薬師寺久左衛門が呼ばれた。
「港内十四ヶ所の台場、かねて決めた通りに石火矢を据えよ。異船が近寄らば、打ち払え」
上條徳右衛門が動く。武器蔵預りの三浦藤次郎や永尾亀三郎らを呼び、石火矢と大筒を薬師寺へ渡させた。運ぶための地車を用意させ、人足を手配する。旗、幔幕、鎖帷子、旗竿──ありったけを取り揃えて差し出させた。煙硝蔵からは、塩見元助が火薬を出す。
その夜半、長崎の谷々に、雷のような音が轟いた。石火矢を載せた地車の車輪が鳴り、運ぶ者どもの掛け声が、山にこだまする。狭い町に住まう者たちは、何事かと、戸の内で身を縮めたであろう。
書院には、長崎に駐在する諸藩の聞役が呼び集められた。大名を迎える正式の間である。鎧の図書頭が、厳しい面持ちで言い渡した。
「異国船渡来の非常である。めいめい、国許へただちに急使を立てよ。跡の船も見えたなら、用意次第、軍勢を繰り出せ」
聞役たちは、国許へ走らせる使者を仕立てるべく、次々と退出していった。
広間には、町年寄の後藤惣太郎が詰め、町方との繋ぎを一手に引き受ける。町使、散使、唐人番の一同が、大広間へ呼び集められた。帯刀を許された者も多く、室には、殺気にも似た熱がこもっている。そこへ鎧姿の図書頭が現れた。一同が平伏すると、奉行は自ら声を張った。
「非常の時である。めいめい気合を入れ、手柄を立てよ」
後藤惣太郎が一同を代して、決意を言上する。彼らは武具庫で槍を受け取り、めいめいの持ち場へと散っていった。
御役所付の鉄砲組二十名には実弾を装わせ、山田吉右衛門と花井常蔵が引き連れて、戸町と西泊の御番所へ急がせる。台場の大砲がどう据わっているか、その目で確かめに走らせた。
奉行所も、町も、喧騒の坩堝であった。
つい先刻まで、名月の夜の、祝いの膳が用意されていた。その同じ部屋から、いまや次々と命令が発せられている。紅毛人を取り戻せ。焼草火船を仕立てよ。出帆させるくらいなら、打ち沈めよ──。
日頃、書を繙き、政務に勤しむ謹厳な奉行の姿は、もうそこにはなかった。異国の者に襲われ、目の前でオランダ人を奪われた、その恥辱に、松平図書頭は、将軍直属の旗本武将の顔になっていた。敵を撃ち滅ぼす。ただそれだけを見据えて、なお命令を発し続ける。
名月は、なお中天にあった。その光は先刻と変わらず、港にも町にも降りそそいでいる。変わったのは、その下の長崎であった。具足が鳴り、石火矢が曳かれ、伝令が闇を走る。祝いの夜は、戦の前夜へと、しだいに張りつめていった。

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