夕刻、その報せが西役所に届いた。沖で、オランダ人の委員二人が奪われた――旗合に出たホウセマンとシキンムル、あの二人である。異国船から躍り出た男たちが、抜き身の剣で、二人を本船へ引きずり込んだという。報を受けた図書頭は、すぐさま鎧を身につけ、対面所に出た。注進は次々と舞い込み、その一つひとつに、図書頭が指図を飛ばしていく。庁内の騒ぎは、もはや一方ならぬものであった。
やがて、根も葉もない流言までが、町を走りはじめる。人が捕らえられたらしい、出島の水門が破られたらしい――。人々は家を捨てて逃げ惑い、その恐怖は役人たちをも浮き足立たせて、奉行所の玄関からさえ、いつしか人影が消えていた。
そこへ、検使が戻ってきた。菅谷保次郎と上川伝右衛門である。供を捨て、槍を捨て、ただ二人だけで帰ってきた。肝心のオランダ人は、奪われたまま。結局、彼らには、何ひとつできなかったのである。
続いて、山田吉右衛門が、血相を変えて駆け戻った。西泊と戸町――長崎港口を、北と南から扼する両御番所である。本来なら、千人もの佐賀の兵が詰めているはずであった。それが、もぬけの殻だというのである。両所を合わせても、五十人に満たぬ。石火矢の備えも、ない。これを聞いた図書頭は、すぐには、声を発することができなかった。
そして、この一報で、すべてが一本につながった。港内を、我が物顔に動き回る小艇。やすやすと捕らえられたオランダ人。問い詰めても、曖昧な返答しかしない佐賀の聞役。――そのどれもが、ただ一つのことを指し示していた。長崎を守るべき兵は、初めから、そこにいなかったのである。
長崎の守りは、ひとえに、この佐賀の千人を柱として成り立っていた。その柱が、まるごと、なかったのである。なるほど奉行所の地役人は、二千人を数えはする。だが、その大半は会所と役所を切り盛りする町人であって、戦える者ではない。武器を取れる下級の役人をかき集めてみても、せいぜい百五十に届かぬ。いざ動かせる兵は、図書頭の手もとに、ほとんど残されていなかった。
それでも、図書頭は命を発した。佐賀、福岡、大村へ、ただちに出兵せよ。諌早にも、人数を出せ。第一報では「唐津は見回りに及ばず」としていた指図を、自らの手で覆しての下知である。港内では、異国船から出た小艇三艘が、なおも我が物顔に漕ぎ回っている。「すぐに召し取れ」と佐賀の聞役に命じても、返ってくるのは、相変わらず曖昧な返事ばかりであった。出島の商館員には退避を命じ、ドゥーフ以下を西役所へ移す。そして、戻ったばかりの検使二人を、ふたたび沖へと送り出した。オランダ人を取り戻すまで、生きて帰るな――と。
夜が更けても、検使からの報せは、いっこうに来ない。じっと座しているにも耐えられず、図書頭は、ついに出馬を命じた。大波止から、五島町へ。将軍の御黒印を自ら守護し、行列を仕立てて、市中を見回る。だが、ほどなく西役所へ戻ったときも、事態は、何ひとつ変わってはいなかった。
真夜中になっても、事態は、まるで動かなかった。焦燥を募らせた図書頭は、ついには、異国船そのものへ使者を送ることまで、考えはじめていた。
ちょうどその頃、小通詞の末永甚左衛門が、奉行所へ戻ってきた。末永は、奪われたオランダ人の一人、ホウセマンに会っていた。そして、その手から、一通の手紙を託されていたのである。