朝の一報が海上に届いたとき、吉川次郎平と児島唯助の乗る沖取締遠見番の船は、佐賀領鷹島の沖まで足を伸ばしていた。長崎港口から十キロ、伊王島や香焼島からは、さらに四キロも先である。足もとにはもう、外海の深い色が広がっていた。報せを聞くなり、二人は舳先を沖へと向けさせ、水主たちは一斉に櫓へ取りついた。
その日、空は晴れていた。だが、風が強い。戌亥――北西から吹きつけるその風に、吹流しは真横に張りつめ、海面には白波が立って、波頭が砕けるたびに、しぶきが容赦なく顔を打った。うねりは大きく、小舟は波の背に乗せられては谷へ落ち、落ちてはまた、高々と持ち上げられる。
その南の沖、七里か八里の彼方に、児島唯助が一つの帆影を見つけた。野母の鼻を回り込み、まっすぐ伊王島を目指して入ってくる、一隻の船である。
櫓が軋み、水主たちは背を丸め、足を踏ん張って漕いだ。だが、船はいっこうに進まない。北西の風は、沖から入ってくるあの船にとっては追い風だが、それを迎えに行く小舟にとっては、真っ向からの向かい風であった。向こうが風をはらんで滑るように近づいてくる一方で、こちらは波を一つ越えるたびに押し戻される。汗が噴き出し、息が上がる。それでも帆影は、漕いでも漕いでも、遠いままだった。
伊王島から二里、三里。ようやく船影が大きくなってきたかと思うと、風はさらに強まり、波はいよいよ高くなって、近づこうにも近づけない。ただ、波に揉まれるばかりであった。
そのうち、あの船がゆっくりと向きを変えた。風を横から受ける形になって、風下の波が、ふいに弱まる。今を措いてない――水主たちはその一瞬を突いて漕ぎ寄せ、ついに船腹へ取りついた。
見上げた二人は、思わず息を呑んだ。
舷側が、空を塞いでいた。
毎年入ってくる紅毛の商い船とは、丈も、横幅もまるで違う。波の上にそびえ立つその壁は、小舟の何倍もの高さで頭上に立ちはだかり、甲板の様子は、下からはまるで見えない。波に揉まれる自分たちの小ささが、にわかに身に迫ってくる。これほどの船を、二人は、これまで見たことがなかった。
見たところ、紅毛船――オランダ船のようではある。だが、どこかおかしい。旗がないのだ。どこにも、旗印というものを掲げていない。
そもそも来航の船には、踏むべき決まりがある。まず沖取締遠見番が真っ先に近寄り、出島のオランダ人から預かってきた横文字の書簡を手渡す。すると向こうはそれに何ごとか書き入れ、ふたたび返してよこす。長年、繰り返されてきた仕来りであった。
次郎平は身を乗り出し、預かってきた書簡を頭上へ高々と差し出した。受け取れ、これに応えよ、と手真似で何度も繰り返す。だが、何の返事も、返ってこない。頭上にそびえる壁は、ただ黙したままであった。人の影は確かに動いている。こちらを見下ろしている気配もある。それでいて、誰一人として書簡に手を伸ばそうとはせず、何ひとつ、応えてはこないのだった。
不審が、ぐっと胸をついた。これは、尋常な船ではない――。そう思った瞬間、次郎平の頭をよぎったのは、注進であった。一刻も早く、このことを港へ報せねばならぬ。だが、それができなかった。
こちらは、小さな舟にすぎない。ひとたび離れたが最後、大船が順風を受けて走り出せば、もう二度と追いつけはしない。報せに走れば、船を見失う。かといって船に食らいついていれば、その報せが出せない。どちらの道も、立ちゆかぬのである。心ならずも、次郎平は、ただ追尾を続けるほかなかった。
巨船に引きずられるようにして、小舟は、伊王島の内へ内へと運ばれていく。神の島が、しだいに近づいてくる。波は、相変わらず高かった。
伊王島から一里の沖まで来たとき――船尾にに、ふいに、大きな旗が翻った。赤、白、青。
オランダの旗であった。
だが、それでも、次郎平の胸の疑いは消えなかった。まことに阿蘭陀船であるならば、なぜ今この時まで旗を隠していたのか。なぜ、初めから堂々と掲げなかったのか。傍らの児島唯助もまた、無言のまま、その旗を見上げている。二人が胸の内で考えていることは、同じであった。――何かが、おかしい。
次郎平は、もう一度、書簡を高く掲げて待った。だが、やはり返ってはこない。なおも度々催促すると、頭上の誰かが、ようやく手真似で応えた。どうやら、返事を書く、と言っているらしい。
ところが、それきりであった。誰も降りてはこず、書簡を取りに来る者もいない。高い舷側の向こうに人影は動き、こちらを見ている気配もあるというのに、いっこうに応えようとはしないのである。ついに次郎平は、声を荒げた。――ならば、その書簡を返せ。だが、その後はもう、誰一人として姿を見せなかった。赤白青の旗だけが、むなしく風にはためいている。その光景は、応えがあるよりも、かえって不気味であった。
小舟は、なおも巨船に引かれて、港口へと近づいていく。次郎平の胸には、漕ぎ出したときよりも、よほど重い疑いが残っていた。最後まで旗を隠していたこと、横文字の書簡に応えぬこと、こちらの問いかけのことごとくを、のらりくらりとはぐらかすこと。――この船は、何かを隠している。
だが、その疑いを抱いているのは、波間に揉まれるこの小舟の上の、わずか数人だけであった。離れれば、順風を受けた巨船はたちまち先へ行き、どこへ向かったかも分からなくなる。だから、追うしかない。そして追っている限り、誰も港へ注進には走れない。
長崎奉行所が真っ先に受け取るべきであった報せ――入ってくる異国船は、旗も掲げず、合図にも応えぬ、尋常ならざる船である、という、ただ一つの警告。それは、こうして誰の耳にも届かぬまま、巨船とともに、長崎港の口へと、ゆっくり吸い込まれていった。