2 迷走

午後、フェートン号は、ついに長崎の沖へと達した。はるばるインド洋を越えてここまで来た目的は、ただ一つ――長崎に入るオランダ船を捕えることである。だが、そのためには、まず肝心の長崎港そのものを、この目で見つけ出さねばならなかった。
ペリューは甲板に立ち、望遠鏡を東へ向けた。やがて、海岸線が視界に入ってくる。緑の陸地が、低く、長く連なり、山々が幾重にも重なって、その裾を海へと落としている。だが、どこにも、港らしいものは見当たらなかった。
地図の上では、そこに長崎港があるはずだった。インドで、マウント・ヴァーノン号の船長から手に入れた、手書きの地図である。海岸の形も、島の位置も、細かく書き込まれていた。航海士は、その紙片を幾度も海岸と見比べる。紙の上では、港はすぐそこにある。ところが、目の前の海をいくら見渡しても、その入口だけが、どうしても見当たらない。
ところが、肝心の港だけが、どうしても見つからない。
長崎港は、もともと天然の要害である。外海から望めば、島が、岬が、山が、幾重にも重なり合い、互いの姿を覆い隠してしまう。げんに海岸の手前には、いくつもの島が横一列に並んでいた。一つや二つではない。低い島影が連なって、その奥をことごとく塞いでいる。島の影は陸の緑に溶け合い、どこまでが島で、どこからが本土なのか、まるで判然としない。どれが地図のどの島なのか、すぐには見分けようもなかった。
緑の海岸線は、どこまでも続いていた。港の入口となる切れ目は、どこにも見当たらない。港の入口は、その重なりの、さらに向こうに隠れていた。
測深の声が、間断なく甲板に響く。船は、緑の岸に沿って、ゆっくりと進んでいった。望遠鏡が、島影を一つずつ丹念にたどっていく。どこかに、必ず切れ目があるはずだった。だが、いくら進んでも、緑は途切れない。
ペリューは、進路を南へ取った。地図にある島を回り込み、岬の先へと出る。その先にこそ、港があるはずだった。この岬さえ回りきれば、必ず港が現れる――そう信じての針路であった。
船は、野母の岬を回った。
港は、なかった。
目の前に開けたのは、島原湾の、ただ広いばかりの海原だった。岸は、見る間に後ろへ遠ざかっていく。港の気配などどこにもなく、遥か彼方に、雲仙の山が一つ、ぽつりと聳えているばかりである。
長崎港は、どこにもない。
甲板の空気が、にわかに変わった。地図が間違っているのか。それとも、いま見ているこの海岸そのものが、そもそも違うのか。航海士たちは、もう一度、地図を広げ直した。だが、紙の上の地形と、目の前の海岸とは、もはや噛み合わない。さきほどまで対応していたはずの島影さえ、どれもこれも、地図とは合わなくなっていた。どの島が、地図のどの島なのか――いまや一つとして、確かなものはなかった。
誰も、それを口には出さなかった。ただ、視線だけが、海岸と地図のあいだを、幾度も幾度も往復する。見落としているとすれば、いったいどこなのか。進路を誤ったのか。それとも、まだ見つけられずにいるだけなのか。
船は、引き返した。来た航跡をそのままたどり、岬を廻って、再びあの島々の連なりへと戻っていく。望遠鏡が、一つ、また一つと、島影を根気よくたどり直す。航海士は、地図と海岸とを、もう一度、初めから照らし合わせはじめた。
――そのときである。島影の一つに、何かが、ひらりと翻った。すかさず望遠鏡を向ける。布だった。風をはらんで、ゆっくりと揺れている。赤、白、青――。
オランダ国旗だった。
ペリューは、目を凝らした。長崎へ入港するオランダ船は、まず伊王島で合印を交わす定めだという。そのため伊王島には、かねてオランダ国旗が備えられていると聞いていた。
実はこの時、伊王島の遠見番所がフェートン号を季節外れのオランダ来航船と思ったのである。
あれが、伊王島だ。
そう悟った瞬間、これまでばらばらだった島影が、地図の上で、一つに繋がった。どうしても合わなかった島という島が、すべて、あるべき位置へと収まっていった。
それは、つい先ほど通り過ぎたばかりの海岸だった。ところが今度は、これまで見落としていた島が一つ、はっきりと目に入る。こんもりと盛り上がった、緑の島である。さきほどは、背後の海岸線とちょうど重なって、ただの岬の一部にしか見えなかった。島と陸とのあいだに海が横たわっていることに、誰一人、気づいていなかったのである。望遠鏡を、その島へ据える。地図の島影と、ゆっくり重ね合わせた。
間違いない。高鉾島である。
船は、その高鉾島の北の端へと近づいていく。ゆっくりと、回り込む。
切れ目が、あった。
緑の海岸線の奥に、細い水路が、ひっそりと口を開けていた。両岸から岩がせり迫り、その幅は、わずかしかない。これを見落とすのも、無理はなかった。だが、その水は、確かに奥へ奥へと続いている。そこはもう、海ではなかった。
そこが、長崎港の入口だった。島と岬と山が幾重にも重なり、その姿を巧みに隠していたのである。

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