34 鍋島斉直


異国船が長崎の沖に現れ、オランダ人二人が拉致されたという急報は、長崎警備の任にあたる佐賀藩にも届いた。長崎奉行松平図書頭から、異国船を打ち払うための出動命令が下された。図書頭は幾度も使者を立て、督促を重ねた。
だが佐賀藩は、すぐには動かなかった。
このとき佐賀藩の内情は逼迫していた。藩主鍋島斉直の代、藩の借財は一万五千貫に達していた。出動命令が下されたまさにそのさなかも、藩内では大坂へ赴いて借財の利息軽減を願う藩士のことで、藩論が沸騰していた。
佐賀藩士古賀穀堂は、このころの藩の有様を日誌に書きつけている。藩主斉直の同時代人であり、藩政の内側を間近に見ていた者の筆である。その記述は、ただの愚痴ではない。
「十八日。情勢を覆すような策を持つ者は、胸を叩きながら長く嘆息している。近頃、浪華の藩邸の役人塘源藏が急ぎ帰り、浪華の事情を報告した。しかし権力者は長期の憂慮を持たず、嘆かわしいことである。本藩は奢侈にふけり、女色とおべっかが横行し、国をむしばむ害悪となっている。人情は崩壊し、財政は行き詰まり、金銀や穀物は底をついている。軍備は荒廃し、人材は無能で怠惰であり、奸臣ばかりで、頼るべきものが何一つない。釜の底が焼け尽くされるほどの危機にあるというのに、なおもだらだらと無策であるのは、まるで蛙のようである。崎陽は万国の防衛の要所であり、きわめて重要である。しかし舟船の備えは貧弱であり、兵卒の数は少なく、官吏には統制力も機略もない。軍事計画はまるで子供の遊びのようであり、嘆かわしいことである。」
「肉食」とは、禄を食む者、すなわち藩の上層部を指す言葉である。古賀はその肉食の者たちが「長慮」を持たぬと断じた。一藩士が藩主の側近や重役をここまで名指しで難じる筆は、尋常ではない。これほどの言葉を日誌に書きつけねばならぬほど、古賀の目に映った佐賀藩の姿は、救いがたいものであったのだろう。
古賀の筆は、十八日だけでは終わらない。同じ日、彼はさらに書き継いでいる。藩の武備を統べるはずの隊長の家を訪ねれば、隊長自身の武備すら整っておらず、隊卒たちは気ままに過ごし、何の備えもない。上級の武学を修めた者は、藩内にわずか二、三人しかいないという。古賀はこれを「可歎(嘆かわしい)」の一語で結んでいる。
廿一日の記述には、さらに重い一節がある。崎陽鎮台の使者が軍律違反の責めを負って自裁し、その家臣六人もまた後を追って自害したという報せである。泊台・戸町を守る兵は怯懦にして愚庸、国家の大事を誤ったと、古賀は記す。長崎警備の最前線で、命をもって責めを贖う者が出ていた、その同じ時に、佐賀本藩では藩論がまとまらず、隊長の武備すら整わぬままであった。
廿二日には、軍備を確かめたところ「第五、六段目の備えに過ぎず」とある。守りの優先順位として、武備はそれほど低く置かれていたのである。古賀はこの急務を誰が主導するのかと、重ねて懸念を記している。
佐賀藩が動けなかった理由は、一つではない。古賀の日誌が示すのは、いくつもの困難が同時に重なっていた藩の姿である。
第一に、財政の破綻があった。江戸藩邸への銀の供給は絶え、借財は一万五千貫に達し、利息軽減のための交渉に藩士が大坂へ赴くほどであった。
第二に、藩論の対立があった。出兵の可否をめぐって異論が噴出し、城内では夜を徹して議論が続いた。決すべき時に、決められなかったのである。
第三に、軍備そのものの不足があった。隊長の武備が整わず、武学を修めた者もわずかしかいない。守りの備えは、優先順位の下位に置かれていた。
第四に、人材の不足があった。古賀は「人材庸惰、奸臣のみ」と記し、頼るべき者が一人もいないと断じている。
第五に、政治指導力の欠如があった。これらすべてを束ね、藩を一つの意思へとまとめ上げる力が、どこにも見当たらなかった。
これは、佐賀藩という組織がその時たまたま怠けていた、という話ではない。財政、藩論、軍備、人材、指導力――支えるべき柱のすべてが、同時に傾いていたのである。異国船が港の沖に迫り、奉行所が出動を求めているそのときも、佐賀藩はその全体重をもって動けずにいた。
では、この藩を率いていた藩主とは、どのような人物だったのか。
古賀は藩主の名を記してはいない。しかし藩政の頂点に立つ者への批判として読むことは十分可能である。

こうした混乱の頂点に立っていたのが、九代藩主鍋島斉直であった。財政は破綻し、藩論は割れ、軍備も整わない。その佐賀藩を率いる責任は、すべて藩主に帰する。

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