32 恥辱

佐賀藩聞役関傳之允が「重役の者に尋ねます」と言って辞去したが、その後重役の者は来ない。水五艘の追加要求を好機と見た図書頭は、関傳之允と福岡藩聞役花房久七を呼び出した。異国船出現以来、関傳之允の呼び出しはもう十回を超えている。そのたびに厳しく叱責され、それでもなすすべのない関傳之允は、この頃相当に追い詰められていた。それでも彼は図書頭の責めを上司たる「重役」に振ろうとはしなかった。「重役に尋ねます」と言いながら、その重役を連れて来て説明させようとはしない。佐賀藩の警備責任を厳しく責め立てる図書頭の前に、この「重役」を晒すわけにはいかない、という意思があったとしか思えない。
前にも書いたが、この「重役」は上司でありながら「主君」の係累であったと思われる。長崎という「世界の窓」「情報の宝庫」に、鍋島家の将来を担う人材を蔵屋敷の長として送り込むことは十分ありうる。とすれば、何としてもその名誉を守らねばならない。十八歳の「重役」本人はこの事態に相当気を揉み懊悩していたというが、関傳之允は彼を表に出せなかった。宮仕えの辛さである。
関と花房の二人が直ちに参上すると、オランダ人が襲われたという第一報以来の凛々しい甲冑姿の図書頭は、焼き打ち準備がはかどっていたら今にも攻撃を開始する勢いであった。関は青ざめた。
「いまだに深堀藩からは焼き打ち手段についての報告は来ておりません。いろいろ準備もあるので今暫し時間をいただきたいと申しております。図書頭様の御出陣をお取り止めいただきたいとの気持ちでは毛頭なく、まだ焼き打ち準備が出来ておりませんから、との申し分でございます」
これはまさに涙声で平身低頭、畳に額を擦り付けんばかりではなかったか。その上、関はとうとう上條徳右衛門に「私は聞役で軍役ではございません」と悲鳴のような釈明をする始末であった。
呆れ果てた上條徳右衛門が遂に切れた。手を変え品を変え弁明を重ねて返事を引き延ばし、毎度同じことばかり言うので埒が明かぬと思った上條は、この一大事の最中だから言い分の当否はともかく、口上の間違いがあってはならぬと両人の前で念を押した上で、「二百年来こういうことがなかった時代ゆえ油断もあろうが、鍋島家の恥とこそ思われよ」と吐き捨てた(崎陽日録二九頁)。
剛毅な上條徳右衛門の真骨頂と言えよう。上條は奉行所の次席にすぎず、幕府の中では御家人風情である。その彼が、大藩佐賀藩の聞役を公然と罵倒したも同然であった。佐賀藩内では中堅の役職を勤める関傳之允にとって、これほどの恥辱はなかったはずだが、関にこの時その自覚さえあったかどうか。
だが、ここで見落としてはならないのは、上條の叱責が一人関傳之允個人に向けられたものではなかったことだ。上條は長崎奉行所を代表して、長崎警備の年番藩でありながら一兵も動かせぬ佐賀藩そのものの体たらくを突き付けたのである。「鍋島家の恥」という一語は、聞役の不手際を咎めたのではない。藩の名そのものに突き立てられた刃であった。
このやり取りについては用部屋日記に詳細が記されている(通航一覧四二八頁)。軍役の二人が出向いて申し上げたところによれば、焼討ちの手続きは未だ深堀からの指示がなく実行に至らず、段階的に進めるべきことがあって延引している、しかし決して御奉行の出陣をお止め申し上げる意図ではない、ただ焼討ちの準備はいまだ整わず御供の人数も本国から到着していない、我らは単なる伝令役であり軍役の者ではないため、このように申し上げた――とのことであった。
そこで上條は、直ちに筆と紙を取り寄せ、その場で口上を書き取らせた。混乱の最中ゆえ多くの事柄が重なり行き違いも生じる、それを防ぐために書き留めたのである。その書付を二人に見せ「この通りで相違ないか」と問いただすと、二人とも異議なく承知した。よって上條はこの書付を保管し、後日甲斐守へと引き渡した。
ここで起きていることの重みは、武断政治であればお取り潰しは必定であった、というような遠い仮定にあるのではない。要は、奉行所がその場で書面化したという事実にある。関と花房の弁明は、口頭で消えるはずの言葉から、両人が自ら「相違ない」と認めた文書へと変わった。長崎警備の年番藩がその責を果たさなかったという事実が、言い逃れのできぬ公式記録として残されたのである。後日それが甲斐守へ引き渡されることまで含めて、これは佐賀藩にとって重大な意味を持った。
こうしてここまで責められる事態は、関傳之允個人だけのものではなく、大藩と称される佐賀藩そのものの恥辱となった。長崎市内では、この事件における佐賀藩の失態は長く嘲笑の的となったという。
だが、関傳之允を責めるだけでは十分ではない。彼はあくまで長崎にいた一介の聞役に過ぎなかった。では肝心の佐賀本藩は、この危機の最中に何をしていたのか。次章ではその実態を見ていこう。

上部へスクロール