陽が西に傾いてきた頃、沖合では水と野菜を届けた一行の帰りを待っていた。陽暦10月5日(和暦8月16日)の日の入りはちょうど18時、月はすでに17時21分に上がっている。だから17時45分前後であったろうか。 そこへ甚左衛門と茂十郎がやっと帰って来た。「牛と野牛(バッファロー)などを届けてくれれば残る一人のオランダ人シキンムルも解放する」と船主が言ったという。そして横文字の手紙を預かっていた。西役所ですぐに和訳された内容は以下の通りである。 『昨夜手紙でお願いしていた水と野菜は今日届けていただきおかげを持って早速船内で用いております お心添えをかたじけなく感じ思っております 私は水野菜など積み込んだ上で上陸させるとのことでございます また薪は格別船内では必要なものなのでなにとぞ2艘分ほどもお届けくださりますよう船主が申しております シキンムル』 つまりシキンムルがフリートウッドに命じられて書いた手紙であった。 さらにもう1通の手紙があった。 『昨日手紙で申し上げた水野菜を今日お届けいただき本船へ積み込みましたのでこのことにつき厚くお心遣いいただき千万かたじけなく思っております。 私の上陸につきましては牛野牛などを積み込むまでは上陸はできません またお願い申し上げますのは水芋並びに薪これは早くお届けくださいますようお願い申し上げます 水5艘芋200斤これは異国船より送られてきたきた船主のお願いでございます シキンムル』 同じ様な内容の二つの手紙がなぜ必要だったか。1通目は薪2艘分の補給を要求しているが、それをシキンムルが筆記しているうちにフリートウッドはさらに要求を追加することにして、“水5艘芋200斤”を加える2通目を書かせたのだ。 フェートン号では真水が不足していたのであろう。一度受け取ったあと、さらに五艘分を求めてきた。届けられた水の清冽さに感嘆したのである。稲佐郷の井戸で汲まれ、清潔な樽で運ばれた水は、彼らに生き返ったような心地をもたらしたに違いない。 彼らを魅了したのは、水だけではない。10月中旬(陽暦)の爽やかな薫風、港を包み込む山々の柔和な緑、見渡す限りの丘に広がる丁寧に開墾された耕作地、瓦を重ねた町々の静かな佇まい。それらは母港マドラスの騒々しさ、寄港したマラッカの灼熱の太陽やマカオ港外の黄色く濁った珠江とはまるで違う感動を、彼等フェートン号艦上の人々にもたらしたのである。フェートン号は不法侵入者であり、オランダ商館員を拉致している立場でありながら、この港町に魅了されたのだ。 日誌記録者ストックデールは、航海日誌に特別なページを作り、こう述べている。 『港の景色は、凡そ想像し得られる自然及び芸術の最も美しいものの一つである。』 またフリートウッドもその報告書に次のように記している。 『⾧崎港は、あらゆる点から考えて、おそらく世界でもっとも素晴しく、またもっとも安全な港の一つだろう。』 フリートウッドはまだ18歳の若者であった。オランダ人を拉致して長崎の町が狂乱状態に陥り、町中の鐘が狂ったように鳴り響き、『陸手海手とも高張提灯篝火夥しく二里にも及び真昼の如し』(通航一覧406p)となっても怯えもせず、むしろそれを楽しむかのように自ら小艇に乗って港内を探索し、無謀にも稲佐の海岸に上陸して裕福そうな民家を覗いたりしていたのである。 図書頭の狙いは当たった。水5艘の追加要求――少なくとも今夜中の出帆はあるまい。敵を港内に引き留めることに成功した、と図書頭は考えた。 今こそ反撃の機会であった。図書頭は再び佐賀藩聞役関傳之允と福岡藩聞役花房久七を呼び出した。