芋二百斤、梨三十個。フェートン号が要求し、図書頭が与えた品々の数量を並べてみると、水五艘という数字は一見すると気前がよい。だが本当にそうだったのだろうか。なぜ図書頭は、よりにもよって水を、五艘という分量で渡したのか。この章はその問いから始めたい。
図書頭の置かれた立場を思い起こす必要がある。フェートン号の艦上には、捕らえられたオランダ商館員がいた。彼らの安全を確保するためには、補給を拒むわけにはいかなかった。要求を撥ねつければ、人質の身に何が及ぶか分からない。しかし一方で、十分な量を一度に渡してしまえ図書頭が同時に達成しなければならなかったのは、三つのことであった。捕らわれたオランダ人を救い出すこと。異国船を港内に引き留めておくこと。そして、近在の諸藩から援兵が到着するまでの時間を稼ぐこと。**しかし、この三つを同時に満たすことは容易ではなかった。**補給を拒めば人質が危うく、補給を尽くせば船が去る。図書頭は、その狭い隙間を縫うように補給を運ばなければならなかった。水を少しずつ渡すという判断は、このジレンマの産物である。
長崎には、外国船への給水制度がもともと整備されていた。長崎は重要な物流の拠点であり、港に停泊するオランダ船や中国船への給水、出島や唐人屋敷への生活用水の供給を担う仕組みが、長崎奉行の管理下に置かれていた。水の値段も長崎会所の運営のもとで定められていた。一六七三年に倉田次郎右衛門が私費で創設した倉田水樋が中島川の水を町々に供給しており、水船もこれを取水源としたものと見てよい。長崎の水船は比較的小型の平底和船であったというから、一艘で運べた量はそれほど多くはなく、四斗樽にして十樽前後であったろうと推測される。当時の廻船用の水樽は四斗樽、すなわち七十二リットルほどが一般的であった。
では、その水を受け取ったフェートン号の側はどうであったか。彼らが最後に水を補給したのは、八月の最終週、マカオにおいてである。珠江デルタの濁った河口付近で得た水が、清涼であったとは思えない。補給された水は合計七十トンほど、それが八月九月の酷暑のなか、最下層の船底に積まれていた。水には細菌や藻が繁殖し、変色し、異臭を放っていたとしても不思議はない。うまい水であろうはずがなかった。
衛生状態も良いとは言えなかった。マドラス出航以来すでに死者が出ており、今も船中には病人がいた。艦長フリートウッド・ペリューが書記に書かせた二回目の手紙には、病人がいるので牛または山羊を数頭要求しており、それがなければ出発できない、という趣旨の記述がある(『長崎オランダ商館日記四』二〇三頁)。
だからこそ、長崎で受け取った水は、彼らの目に格別のものと映ったはずである。のちにフリートウッド・ペリューはその報告書にこう記している。
『水はとても清潔な大樽に容れられて運ばれてきた。それらは彼等のボートの中ほどに据えられ、一バットより多くの水がはいっていた。』
一バットは十八リットルほどの容量である。四斗樽より小さい樽であった可能性もあるが、ここで注目すべきは樽の大小ではない。「とても清潔な大樽」という一句である。日本側の補給が粗末で間に合わせのものではなく、むしろ丁寧に整えられたものであったことを、敵将みずからの筆が証言している。図書頭は、ただ水を渡したのではなかった。新鮮で清潔な水を渡したのである。
その効果は確かにあらわれた。水の要求はこの後エスカレートしていく。八月十六日に水五艘、続いて十七日朝に水三艘を受領している(日本側の記録では水五艘)。うまい水が、異国船をなお港内に引き留めた。
佐賀藩が常駐させているべき千人の兵力が不在のいま、図書頭にとって、近在の大村藩・諫早藩・福岡藩から援兵が到着するまで、何とか時間を稼ぐことが急務であった。補給はする、しかし一度に与えはしない。その判断は、人質の安全と時間稼ぎとを両立させるための、苦しい綱渡りであった。
図書頭は水を与えたのではない。水を利用して時間を買ったのである。
そして時間は、あと一歩のところまで稼がれていた。長崎を出航したフェートン号は追い風に乗り、わずか五日でマカオに着いている。とすれば、十七日朝の水補給は航海上は必ずしも必要ではなかったとも言える。新鮮な水のうまさが出航を一日遅らせた可能性さえあるのだ。大村藩の到着はフェートン号出航(正午)後の午後であり、福岡藩の到着はその翌日であった。援軍が、あと半日早く着いていたなら——歴史は違った貌を見せていたかもしれない。
水の補給は、フェートン号事件のもう一つのドラマであった。