27 脅迫

ホウセマン上陸の詳細については、日本側とドゥーフの記録に齟齬があるが、彼の帰還は歓喜と憤怒の波紋を巻き起こした。
歓喜したのは無論ドゥーフ等オランダ商館の人々だった。崎陽日録は「かぴたん以下の者ども広間に出向きホウセマンに逢て悦事限りなし」(崎陽日録26p)と記す。この表現からは、二人の同胞のうち一人が無事に戻ったことへの商館員たちの安堵と歓喜がいかに大きかったかがうかがえる。その渦中に、なんと図書頭が自ら広間に姿を現したのである。
図書頭にとっては異国船の内情に一番通じた生き証人が帰還したのであるから、聞き出さねばならぬことは限りが無かった。だがホウセマンは異国船からの横文字の手紙を預かっていた。図書頭はすぐに和訳を命じ対面所に戻った。広間では人の出入りが絶えない。密議には向かない。
対面所へは年番大通詞名村多吉郎、通詞目付関傳之允、ドゥーフとホウセマンが続いて入り、すぐに和訳が始まった。
歴史的文書であるので、まず英訳を見よう。
『The two Gentlemen who belong to the Dutch company, Dirk Gozeman and Gerrit Schimmel, of whom Dirk Gozeman will go to the wall and will steer with his own ship to the wall, and that the captain has taken us and made prisoners, and that the captain has held us since yesterday for five hours, and now asks for three hours on board, the captain will send provisions as soon as possible, and Mr. Schimmel will then steer to the wall and will set sail. And if he does not receive the provisions before evening, he will return tomorrow evening and set the Japanese vessels and Chinese junks on fire.』
これはメッツェラールのオランダ語からの直訳であり、日本語に直せば次の様になる。
『オランダ東インド会社に所属する2人の役人、ディルク・ホウセマンとヘリット・シキンムルのうち、ディルク・ホウセマンは港に向かい、自身の船を操って岸壁に接岸する。艦長は我々を捕虜とし、昨日から拘束している。今さらに3時間船上での待機をする。艦長はできる限り早く食料を受け取り、シキンムル氏は港へ戻り、出港する予定である。もし食料を日没前に受け取れない場合、明朝まで待機し、日本船と中国のジャンク船に火を放つ。 艦長フリートウッド・ペリュー』
崎陽日録はこれを原文に忠実にではなく、簡潔に伝えている。
『昨日ホウセマンとシキンムルを小船で本船へ連行したのは海上で食物を使い果たしたので今日その品々をお願いするため連行しました このホウセマンを上陸させますので食べ物類をなにとぞ今日中に本船へお届けください それが叶えられれば残るもう1人シキンムルを戻しすぐに出帆します もし今日中に届かなければ明朝までに日本船唐船を焼き払います』。
これを聞いた図書頭はみるみる紅潮し、対面所を蹴るようにして奥へ入った。激情がほとばしったのである。だが図書頭の怒りは、単に脅されたことへの激発ではない。怒るのが当然であった理由がある。
そもそも異国船は国法を破って長崎港に侵入した。これだけでも本来なら入港の時点で撃破すべき相手であった。その異国船が、白昼、幕府役人の面前でオランダ人二人を拉致した。人質を取り、武力を背景に補給を要求し、応じなければ港内の船を焼き払うと脅した。不法侵入、人質拉致、武力威嚇、補給要求、そして焼き討ちの予告という、段階的に積み上げられた無法である。一つ一つが本来ならば許されぬのに、相手はそれを重ねた上で居直り、こちらに要求を突きつけてきた。国法を踏みにじられ、幕府を統べる御公儀そのものが侮られたに等しい。長崎奉行として、そして武士として、この居直りを前に紅潮しなかったとすれば、むしろその方が不自然であった。
実はホウセマンは、フリートウッドからオランダ商館長宛の手紙も預かっていて、それをそっとドゥーフに渡した。このことは当然「崎陽日録」にも「通航一覧」にも記述が無い。何らかの意図をもってフリートウッドがドゥーフ宛に書いた手紙を、ドゥーフの許可無しに通詞たちに知らせるわけにはいかないからだ。それは英語の手紙であった。
『The two gentlemen belonging to the Dutch Factory at Nagasaki, Derth Gozeman and Gerrit Schimmel, one of whom now going on Shore were taken by my Boat Armed by my order for that purpose & have been detained by me since 5 o’clock on the 4th of October.(ナガサキのオランダ商館に所属する二人の紳士、デルト・ゴゼマンとヘリット・シンメルのうち、一名を現在上陸させるが、彼らは私の命令に基づいて武装した私の舟艇により捕らえられ、10月4日午後5時より私により拘束されている。) フリートウッド・ペリュー 碇泊中のイギリス・フリゲート艦艦長』
すでにホウセマン口述の糺し書きで明らかになる事実を、なぜわざわざドゥーフ宛に持たせたのか。フリートウッド・ペリューは二人のオランダ人を拉致した当初から、商館長はなぜ来ないのか、と繰り返し尋ねていた。江戸初期に日本との関係を絶って以降、初めて長崎に現れた英国海軍の艦長として、彼はこの来航に歴史的な意義を自任していた。その彼にとって、敵国オランダ――今はフランスの属国である――の商館長は、ぜひとも会っておきたい相手であった。ドゥーフは、当時の日本の内情を知る、ほとんど唯一の欧州人だったからである。バタヴィアの情勢、長崎の交易の実態、日本側の防備――遠征の報告書に書き込むべき情報を、ドゥーフとの面会から得られると見込んでいたであろう。むろんこれは推測の域を出ない。だが、商館長への執着の強さと、後日の報告書に長崎の事情を詳しく書き残したことを併せ見れば、ドゥーフを情報源と捉えていたと見て大過ないだろう。
図書頭が奥に入ったのち、ホウセマン口述の糺し書きが届けられた。それは次の様な内容であった。
『筆者紅毛人(ホウセマンのこと)が船に上がるとイギリス人船頭が鉄砲を手に持って尋ねてきたのは「当年2隻のオランダ船がバタヴィアから出港している。その船を探すために港内に入ってきた。もし正直に答えなければこの鉄砲で撃ち殺す」と言い、「今年はまだオランダ船は入港していない」と筆者紅毛人(ホウセマン)が答えたところ小舟3艘を下ろし1艘に50人ずつ乗り込み鉄砲大砲その他武器を備えてオランダ船が港内にいるかいないのか確認するため3艘が港内に入りました。カピタンはなぜ来ないのかと船主が尋ねるので当時病気で寝ていたから来れない(と答えました)。本船には350人が乗り込んでいるそうです。これは筆者紅毛人(ホウセマン)が話したところカピタン(ドゥーフ)が申し上げました 辰8月 』
この糺し書きは、図書頭にとってきわめて重大なものであった。これまで奉行所は、異国船が何者で、何のために港内に侵入したのか、その兵力がいかほどか、まったく把握できないまま手探りで対応してきた。それがこの供述によって、日本側は初めて、相手の目的がオランダ船の捜索であること、本船には約350名が乗り組んでいること、そして港内に侵入した小艇3艘にはそれぞれ約50名、合わせて約150名の武装兵が乗っていたことを知ったのである。敵の正体と規模を、ようやく数字をもって掴んだ瞬間であった。焼き討ちを命じるにせよ、補給で時を稼ぐにせよ、相手の兵力の一端を初めて具体的な数字として把握した。糺し書きは、図書頭がこののち下す一切の決断の前提となる情報だった。
オランダ商館日記には、『[奉行]閣下は立腹して立ち上り、部屋から出ていった。その後少し経って、秘書官が来てこう言った。すなわち水と食料品はすでに一部分船に送られた、そして四頭の牛と一頭の山羊もある、そしてホーゼマンは今やそれを持参して船に行き、できる限り、彼がスヒンメルとともに戻って来るよう心を配ることになっている。(長崎オランダ商館日記206p)』と記録されているが、実は図書頭が立腹して奥へ行き、上條徳右衛門が戻ってくるまでに長く激しいやり取りがあった。その内容を次の章で展開する。
ここで留意しておきたいのは、この時の図書頭の補給の指示である。
『波戸場役呼出し野菜薪蕪根キ等用意申付御代官手代え水船壹艘早々差出候やう申渡』(「崎陽日録」19p)――用意させたのは、わずかに水船一艘と野菜類であった。これは図書頭が脅迫に屈したのではない。水を必要量与えてしまえば異国船は出港してしまうかもしれない。逆に、水が足りぬうちは出港できぬはずである。ならば補給を満たさず、わずかずつ与えることで、異国船を港内に留め置くことができる――そういう計算であった。図書頭は補給を、脅しに応じる屈服としてではなく、異国船を繋ぎ止める交渉の道具として用いようとしたのだ。脅迫を受けてもなお、事態の主導権を手放してはいなかった。
上條徳右衛門が言ったように、8月16日の16時以降、ホウセマン解放のあとに水一艘と野菜類が届けられた。これが第一回目の補給である。これについて次の章で詳述する。

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