24 侠気

ここで暫し、時系列の進行を離れたい。この事件で動いたのは、武士だけではなかった。逃げ惑う者が町に溢れるなか、長崎の町人たちもまた、それぞれの「侠気(おとこぎ)」を示している。危機に直面したとき、人々がどのように公(おおやけ)のために動いたか――それを見ていきたい。
文化年間、「日本」という国はすでに認識されていた。だが、それは「国家としての日本」ではない。江戸幕府を「公儀」と称したように、当時の人々にとっての「公」とは、幕府が取り仕切る世の秩序のことであった。彼らは「国家」のためではなく、「公」のために動いたのである。
その「公への奉仕」の意識は、この事件の展開のなかに、強烈に読み取れる。
41章で述べたように、松平図書頭は老中への第一報で、オランダ人を拉致したまま出帆するようなら佐賀藩福岡藩に打ち砕くよう命じ、「焼き打ち出来るよう準備が出来れば即刻出動せよ」と指示している。その夜、末永甚左衛門がホウセマンの書簡を持ち帰り、異国船が水と食糧を要求していることからドゥーフの提案に応じて補給を命じたが、国法を無視してオランダ人を拉致した異国船を焼き打ちにする決意は揺るがず、佐賀藩福岡藩にその準備を急がせた。
焼き打ち準備の噂は、あっという間に広まったと思われる。長崎中の港湾関係者を動員する作業になるからだ。
用部屋日記によれば、五箇所宿老が揃って奉行所を訪ねたのは8月16日(陽暦10月5日)の午後のことである(正確な時刻は不明)。「五箇所宿老」とは、京都、堺、長崎、江戸、大坂の五つの主要都市で商人や行政を取りまとめる役職で、長崎での貿易実務をほぼ一手に担う商人たちである。
彼らはこう申し出た。先年の南蛮船焼き討ちの際、船仕切りは宿老が一手に引き受けさせられた例があり、当時は力及びませんでしたが、手附人足が五箇所会所に集合しておりますので、いつでもご用命ください――と。五箇所会所は西役所の北側、表門から緩い坂を100mほど下った、今の江戸町公園から文明堂裏あたりにあった。集合した人数は不明だが、この手勢は焼き打ち準備に欠かせぬマンパワーであった。
この「先年の南蛮船焼き討ち」がどの事件を指すのかは不明である。実際に南蛮船焼き打ちが行われたのは慶長14年、有馬晴信がポルトガル船を攻撃して沈めた一件だが、幕府の命で長崎奉行が、通商を願い出て渡来したポルトガル船二隻を500艘の軍船で長崎港に包囲封鎖したのは寛永16年(1639年)である。焼き打ちは行われなかったが、宿老たちが言うのはこの寛永16年の事件であろう。各藩から動員された500艘がポルトガル船を包囲したなかで「その節お役に立てなかった」というのは、民間の包囲参加が要請されなかったという意味だろうか。
さらに大坂堺の宿老も参上し(五箇所宿老と同道か)、二、三百石から千石積みまでの廻船がおよそ20艘も長崎港に停泊しておりますので、御用立てください、と申し出た。
千石積み廻船は、当時の大型廻船のなかで最もポピュラーな和船であった。今の単位で約150トン。一艘の建造費は千両から千四百両、現在の価値にすれば六千万円から一億円に相当する。それほど高価な船を、宿老たちは惜しげもなく差し出そうというのだ。いま港内にあるすべての廻船を、である。
これらの廻船は、焼き打ちの際には藁や薪などの可燃物を満載し、火を付けて異国船に衝突させるために用いられる。20艘すべてが焼き打ちで失われることになる。だが宿老たちは躊躇なく「お使いください」と申し出た。その作業を、五箇所会所に集合した手附人足たちが担うことになる。
このときの長崎の町を、視聴草はこう伝える。旅人たちは先を争って逃げ出し、田舎から来ていた奉公人たちも次々と逃げ帰り、この一両日は町中で魚なども売れ行きが悪く、よく売れているのは蝋燭と草鞋だけ――と。奉行所でも、図書頭付の医師足立梅栄が、玄関を始め詰め役所に人がいないのはいずれも臆病という病か腰が抜けたと見える、梅栄が薬を与えようと叫び立てた、というほど役人たちが逃げまどい、図書頭は、日頃猪武者と呼ばれる者もこの時に臆している、いわんや猪武者でない者はなおさらである、と嘆いた。
その阿鼻叫喚のさなかにあって、宿老たちの気力胆力は武士に少しも引けを取らない。危難をもたらした異国船を焼き打ちするなら身を挺しましょう、という心構えなのだ。
この動きは宿老たちにとどまらない。
五箇所宿老らが廻船の提供を申し出たのと同じ頃、市内の朱座の者が参上し、「御用があれば何なりとお命じください」と申し出た。朱座とは、朱や朱墨の製造販売商人の組合である。文書の記録のほぼ全てが墨書であった当時、朱墨は記帳の訂正用に大きな需要があり、毎日大量の文書が作成される奉行所は大切な顧客であったろう。
だが、廻船問屋は焼き打ち用の船を出せても、朱墨の業者に差し出せるものが何かあったろうか。軍事の役に立つものなど、何ひとつ持たぬ。それでも彼らは、奉行所へ赴いた。奉行所の苦境と、長崎の町に覆いかぶさった暗雲を前に、じっとしていられなかったのである。
彼らもまた逃げ惑うことなく、その場に踏みとどまった。そして「何かお役に立ちたい」という意思を示したのである。
商いは違えど、その心意気は、宿老たちと少しも変わらなかった。
当時の人々の「公」への献身の別の例を、我々は既に15章「スチュワートの登場」で見ている。10億円相当もの銅をだまし取ったスチュワートの船は、長崎港を出帆するとき嵐に遭遇して木鉢浦に沈んだ。その船を総経費五百両を自費で負担して引き上げたのが、鰯漁長者の村井喜右衛門であった。老中からも褒詞を下されたこの義挙もまた、自分の富を惜しげもなく投げ出しての「公への献身」の現れである。
フェートン号事件は、図書頭や武士だけの物語ではない。逃げ惑う者が町に溢れたその同じ町で、宿老は人足と廻船を差し出し、朱座の者は奉行所の門をくぐった。長崎の町人たちもまた、それぞれの立場で危機に向き合っていたのである。

上部へスクロール