15 検使再び沖へ
ホウセマンは、どうして姿を現したのか。
それを語るには、少しだけ時を戻さねばならない。
図書頭は、まだ諦めていなかった。
捕らわれた二人のオランダ人を、何としても取り戻さねばならない。
二人の検使——菅谷保次郎と上川伝右衛門は、図書頭の前に立たされていた。
「オランダ人二人を取り戻すまで、生きて帰るな」
そう叱責され、ふたたび夜の海へ送り出されることになった。
だが、検使だけでは、敵の船と話すことすらできない。
言葉を通じる者——通詞が、要る。
異国船へ赴くことは、死地へ向かうに等しかった。
二人はまず、大通詞に声をかけた。
中山作三郎、名村多吉郎。
だが、いずれも所用があるといって、首を縦に振らない。
もう一人、石橋助左衛門に頼むと、「今は打ち合わせの最中、後から追いかけます」と言う。
検使は役所付の者を連れて、坂を下り、波止場へ向かった。
すると、石橋助左衛門が走ってきた。
だが、その口から出たのは、同行の言葉ではなかった。
「打ち合わせがまだ続いております。しばらくお待ちを」
そう言い捨てて、役所へ取って返してしまった。
これで、大通詞三人が、揃って同行できなくなった。
通詞のいない検使二人は、出島へ回った。
橋を渡り、蔵の並ぶ通りを抜け、奥の通詞会所を訪ねる。
オランダ通詞たちの詰め所である。
「ともに行ける者はおらぬか」
そこへ名村多吉郎が現れたので、これ幸いと同行を命じた。
ところが彼は、商館の長ドゥーフに呼ばれたといって、すぐに出ていってしまった。
露骨に拒む者は、一人もいない。
断り、待たせ、姿を消す。
それでいて、誰一人、あの船へ行こうとはしなかった。
そのとき、異国船から小舟が数艘、港内に侵入したとの報せが入った。
検使たちは、ふたたび大波止へ駆け戻る。
大波止には、石橋助左衛門と、もう一人——末永甚左衛門がいた。
小通詞並、末永甚左衛門。
位は、低い。
だが、誰もが現場から離れていくなかで、この男だけは、そこに残っていた。
二人に、乗船が命じられた。
船は、奉行所の堂々たる御用船、佳行丸である。
ところが石橋助左衛門は、異国船から小舟が出たと聞くと、こう言った。
「波止場へ行けとのお指図は受けておりませぬ。ひとまず戻って確かめ、すぐに追いかけます」
結局、彼は別の船に乗せられ、帰されていった。
こうして、佳行丸に残った通詞は、末永甚左衛門ただ一人となった。
役所付の溝口仙兵衛と林與次右衛門も乗り移り、一行は舳先を沖へ向けた。
夜の長崎港は、異様だった。
港から、船という船が、すべて消えていた。
空には、満月。
だが、対岸の灯りは、ひとつも見えない。
稲佐山が、黒々と聳えている。
漂う海は、黒い波を打ち返すばかりだった。
そして、はるか神崎の沖の闇——。
その奥に、巨大な異国船が、息をひそめて潜んでいる。
月明かりの下を、たった一艘、佳行丸が進んでいく。
沖へ出ると、闇のなかから、一艘の船が近づいてきた。
野母の遠見番所から出ていた、沖遠見番・嘉悦忠兵衛の船である。
恐怖と戦いながら、異国船を見つめ続けていた、見張りの船だった。
「変わりはないか」
「特に、変わりはござりませぬ」
佳行丸は、さらに沖へ、異国船へと近づいていった。
逃げ出したい夜だった。
誰ひとり、進みたいと思う海ではなかった。
漕ぐ者たちも、無言だった。
それでも、舳先は止まらない。
恐怖を抱えたまま、検使と末永を乗せた佳行丸は、闇の奥へ進んでいく。
やがて、闇の底に、それは現れた。
フェートン号。
和船から見上げる船縁は、信じがたいほど高かった。
黒い舷側が、夜空を断ち切るように、頭上へ伸びている。
その横腹には、二段に並んだ砲門が、ずらりと口を開けていた。
いくつもの砲口が、闇のなかから、ぬっと突き出ている。
小さな佳行丸は、その巨体の船腹へと近づいていった。
フェートン号は、敵地のただなかにあった。
見張りは、小舟の接近をとうに見つけていた。
甲板にも人影が動く。
武器を持たぬ船だと知ると、誰かが船縁へ歩み出た。末永甚左衛門が、声を張り上げた。
捕らわれたオランダ人と、話がしたい——と。
船上から返ってきたのは、末永の耳に馴染まぬ異国の言葉だった。
だが、そのオランダ語に、相手はすぐに反応した。
船縁で、人影が動いた。
そして——。
ホウセマンが、姿を現した。
長崎中が探し求めていた男が、ついに、そこにいた。