兵は、外から呼ぶよりほかにない。
図書頭がそう腹を決めたのは、当然の帰結であった。手元にあるのは百五十。正保4年には五万が集まったこの長崎で、いま自らの手で動かしうるのが、その数である。自前で何とかする道は、はじめから存在しなかった。
長崎には、西国の諸藩がそれぞれ聞役という役人を置いている。長崎で起きたことを見聞きし、逐一国許へ報せることを務めとする者たちで、長崎奉行が諸藩に何かを求めるときは、必ずこの聞役を通した。逆にいえば、聞役が動かぬかぎり、藩の兵は一人として動かない。奉行の命令がどれほど厳しかろうと、それが国許へ届き、藩が兵を仕立て、長崎まで下ってくるには日数がかかる。この夜の図書頭にできたのは、その日数を少しでも縮めることだけであった。
書院に、その十四人が呼び集められた。鎧姿の図書頭が上座に現れる。国許へ急使を立てよ。まずはそれだけを、短く告げた。そのうえで佐賀、福岡、大村の三藩には名指しで軍勢を繰り出せと迫り、諌早にも人数を出させよと重ねる。つい数刻前、第一報の折には「唐津様には長崎御廻りに及ばず」としていた指図である。それを自ら、この場で覆した。半日のうちに何が起きたのかを、その一事が語っていた。
一同が退出したあと、佐賀の聞役、関傳之允だけが対面所に残された。
図書頭がこの男に求めたのは、焼き討ちの支度である。オランダ人二人を取り戻したうえは、かつて南蛮船を焼き沈めた先例に倣い、あの船を打ち砕いて焼き沈める。ついては焼草と火船を手配し、その手続きを書面にして差し出せ。敵に悟られぬよう、国許への増援要請も早々に運べ。港内を漕ぎ回る三艘については、すでに給人の吉仲勇蔵を佐賀藩の蔵屋敷へ走らせ、即刻召し捕らえよと伝えさせている。
傳之允の返答は、このときも要領を得なかった。承知いたしましたとも言わなければ、できませぬとも言わない。朝からずっとこの調子である。図書頭は苛立ったであろうが、なぜこの男が煮え切らぬのかというところまでは、まだ考えが及んでいない。両御番所が空だという報せは、この時点ではまだ届いていなかったのである。傳之允のほうは、当然それを知っていた。知っていて、言えずにいた。この対面所の二人のあいだには、そういう断層があった。
そこへ、検使の二人が戻ったという知らせが入る。
菅谷保次郎と上川伝右衛門は、書院の奥、奉行の居間へ通された。人払いのできる、奉行所の最も奥まった部屋である。わざわざそこを選んだのは、この二人が奉行所の幹部だからであろう。重大な失態とはいえ、地役人や町方の居並ぶ前で罵倒するわけにはいかない。図書頭は、そういう配慮のできる男であった。
だが、そこで聞かされた弁明は、その配慮に値しなかった。
菅谷は大きく息を吐き、歯の根も合わぬまま、こう述べた。相手は猛虎のごとき働きにて、近づく隙もないように見受けられました。跡を追って刃傷に及ぶべきところではございますが、それでは鎮台の御心配も増し、かえって取り乱すことにもなろうかと存じ、ひとまず戻って申し上げるべしと判断いたしました。
追わなかったのは、奉行の迷惑を慮ったからだ、というのである。図書頭の倫理観が許容しうる限度を、この言い訳は明らかに超えていた。
その方ども、よく聞け。小禄とはいえ、公禄を食む身であろう。西国の諸藩がこの体たらくを見て、これほどの恥があるか。今朝も申し聞かせたはずだ、紅毛はお預かりしている大切な人々である、不用意に先へ出すなと。それを、刃傷に及べば面倒になるかもしれぬなどとは、恥知らずな言い訳である。刃傷の結果と、無事に紅毛を取り戻すことと、いずれが大事か分からぬのか。即刻立ち戻り、取り返してまいれ。
オランダ人を取り戻すまでは、生きて帰るな。
二人は畳に額をすりつけたまま、身じろぎもしなかった。恥辱に声も出なかったのであろう。もっとも、命懸けで取り戻して来いと言われたところで、この二人に練達の武芸の嗜みがあったとも思えない。ただ茫然としていた、というのが実際のところではなかろうか。酷な言い方になるが、腰抜けであることは、この時すでに露呈し切っていた。
ところが、その二人は、すぐには出立できなかった。通詞を伴わぬかぎり、異国船と言葉を交わすことすらできないからである。菅谷と上川が大通詞の中山作三郎と名村多吉郎に同行を求めると、所用があるといって断られた。もう一人の石橋助左衛門は、あとから追いかけますと言い置いたきり、役所へ引き返してしまう。三人の大通詞が、そろって動かなかった。
無理もない、とも言える。石橋助左衛門51歳、中山作三郎57歳、名村多吉郎も同年配である。長崎で大通詞といえば町年寄なみの重鎮であって、幕府から来たたかが与力の検使に従い、夜の海で四十門の砲と向き合う役目を、進んで引き受ける年齢でも立場でもなかった。
ただし、そのうちの一人は、断っただけではなかった。
中山作三郎は、奉行所の廊下で、上條徳右衛門の袴の裾を掴んでいた。
作三郎は、この年の年番大通詞である。年番ともなれば、その年のオランダ関係のいっさいを統べ、奉行所との交渉を一手に引き受ける立場にあった。げんにこの日、奉行所とオランダ商館のあいだを行き来する用向きは、ことごとく彼のもとを通っている。夕刻、検使が四郎ヶ島から送ってきた「紅毛船に間違いなし」という書状を図書頭のもとへ届けたのも、出島から逃れてきたオランダ人たちを西役所まで警護してきたのも、この男であった。つまり作三郎は、あの異国船について、この夜の奉行所で最も多くを知りうる位置にいた。その男が、奉行の筆頭用人の袴を掴んで放さなかったのである。
御検使をいま遣わすのは、卵をもって石を叩くようなものでございます。しばらくお待ちになり、警備の軍勢が揃ったうえで御検使が向かわれれば、その威に恐れをなして、功も成りましょう。今のままでは、功どころか、かえって笑いものになりまする。よくよくお考えくださいませ。
卵と石とは、単なる比喩ではない。相手は四十門以上の砲を舷側に並べた軍艦であり、こちらが差し向けうるのは丸腰の役船が一艘である。作三郎の言い分は、軍事的にまったく正しかった。
上條徳右衛門は、これをそのまま取り次いだ。図書頭は、いっそう色をなした。検使の出発はすでに遅れに遅れている。そのうえ、通詞ふぜいが軍勢の采配に口を出すことではない。取り合うな。そのひと言で、話は打ち切られた。
長崎で最も事情に通じた男の、最も正しい忠言が、こうして退けられたことになる。
だが、その夜のうちに、図書頭は上條徳右衛門を書院の脇、人のいない場所へ招き寄せている。そして膝を摺り寄せるようにして、こう語ったという。
いま通詞どもが言ったことは、不心得ではない。それは尤もである。だが、尤もだと聞き入れていては、この非常時の命令が、一つとして行き届かぬ。検使の両人にとって、石火矢に立ち向かう役目が大変なものであることは、私にも分かっている。だが非常の時だ。日頃、猪武者と呼ばれるような者でさえ、今この時に臆している。ましてや猪武者でない者は、なおさらであろう。その方にも怒りをぶつけたが、気にするな。この事態に良策があれば、遠慮なく申せ。
上條徳右衛門は答えた。私はまだ、異国船をこの目で見ておりませぬ。使者の応対にも、地役人の働きぶりにも当惑しておりまして、一寸の計策も持ち合わせてはおりません、と。
図書頭は、ただ、とにかくしっかり頼む、と言った。
この短いやりとりは、注目に値する。通詞の言い分が尤もであることを、図書頭はここで認めているのである。認めたうえで、尤もだと聞き入れていては非常時の命令が一つも行き届かぬ、と言う。つまりこの男は、自分が理を退けたことを承知していた。承知したうえで、なお退けるほかなかった。しかも、取り次いだだけの用人に苛立ちをぶつけてしまったことまで自覚しており、わざわざ人目のない場所へ呼んで詫びている。鎧をまとって罵声を上げていた奉行の、これが素顔であった。
その頃、検使の二人は、出島の通詞会所まで足を運んでいた。そこへ名村多吉郎が現れたので、これ幸いと同行を求めたのだが、カピタンに呼ばれておりますと言って、すぐに出ていってしまう。そうこうするうちに、異国船の小舟が港内へ侵入したという警報が飛び込み、二人は大波止へと駆け戻った。
大波止には、石橋助左衛門と末永甚左衛門がいた。検使は二人をその場で船に乗せ、奉行所の御用船佳行丸を出させる。ところが石橋は、バッテイラが出たと聞くなり、波止場へ行けとの指図は受けておりませぬゆえ一度戻って確かめてから追いかけます、と言い残して、他の船で帰っていった。あとに残ったのは、小通詞並の末永甚左衛門、40歳。これに御役所附の溝口仙兵衛と林與次右衛門が加わった。
三艘のバッテイラが本船へ戻ったと確認されたのは、10時ごろであった。佳行丸が大波止を離れたのは、それよりさらに後のことである。港内からは、すでにすべての船影が消えていた。満月は出ているものの、対岸の水之浦まで1キロ以上、灯火はただの一つも見えない。稲佐山が黒々と聳え立つばかりである。そこへ、丸腰の役船が一艘、漕ぎ出していった。作三郎が案じた通りの光景であった。
ほぼ同じ頃、図書頭もまた西役所を出ている。夜四つ半刻、23時ごろのことである。大波止から、五島町へ。将軍の御黒印を自ら守護し、行列を仕立てて、市中の警備場所を見回った。もっとも、これで何かが好転したわけではない。玄関番さえいなくなるほど浮足立った役人たちに、武将としての立ち居振る舞いを見せておきたかったのであろう。じっと座して報せを待つことに、もはや耐えられなかったとも言える。ほどなく西役所へ戻ったときにも、事態は何ひとつ動いてはいなかった。
やがて真夜中を過ぎた。沖の船が何者なのか、何を求めているのか、依然として誰も知らない。佐賀の兵は来ない。検使も戻らない。夕刻にオランダ人を奪われてから、すでに8時間が過ぎようとしていた。
夜八つ時、午前2時ごろのことである。
小通詞の末永甚左衛門が、奉行所へ駆け戻ってきた。末永は、奪われたオランダ人の一人、ホウセマンに会っていた。そして、その手から、一通の手紙を託されていたのである。
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