85 処断
文化五年八月十七日深更、長崎奉行松平図書頭康英が一身に責任を引き受けて自刃した。これが事件の幕を引いたのではない。図書頭の死で、事件は終わらなかった。
むしろここから、「誰がどう責任を負うのか」という、もう一つの裁きが始まる。
幕府はこの事件をどう総括したか。
その公式な答えは、文化五年十一月十日と、翌文化六年正月晦日、二月朔日の三度に分けて下されることになる。
十月二十二日、後任の長崎奉行・曲淵甲斐守景露が長崎に到着した。前日の二十一日には、出島の通詞たちが揃って矢上まで出迎えに上った。ドゥーフは商館日記に簡潔に記している。「奉行曲淵甲斐守様が長崎に到着したので、私は慣例に従い、閣下の到着に対し祝辞を述べさせた」。事件後の長崎は、ふたたび奉行を頂く統治機構として動き始めた。
その曲淵の着任後ほどなく、大通詞たちはドゥーフのもとを訪れて伝えている。八月十九日にドゥーフが内々で語っていた説明、すなわちフェートン号の正体と来航の経緯についての説明は、秘書官の判断で表に出すのを当面控えるよう求められた。理由は、「近い将来、ドゥーフが最近当地に来航したイギリス船について奉行所で尋問される予定」だからである。
事件は、長崎の現場処理から、江戸幕府による事後審査の段階へ移った。
最初の沙汰は、文化五年十一月十日に下された。場所は江戸、牧野備前守宅である。
この日、二通の書面が同時に発せられている。一通は大村上總介への奉札、もう一通は松平肥前守鍋島斉直への封廻状である。同じ日、同じ場所で、対極の二つの沙汰が下されたという事実は、それ自体が幕府の裁定の意味を語っている。
大村上總介への書面はこう記す。「當八月長崎え異國船渡來の節、爲替固早速從在所罷越候段、心掛宜敷と思召候、此段可相達旨、依上意如斯候」。八月の異国船渡来の節、警固として早々に在所から罷り越したことを、心掛けよしと上意により褒し置く、という趣旨である。連名は青山下野守、土井大炊頭、牧野備前守。事件処理に当たった老中たちは、自らの名を連ねた。
同じ日、松平肥前守には封廻状が達せられた。文面はこう続く。「當八月、長崎えヱゲレス船渡來いたし候節、湊内え端船乘入、御番所前往返いたし候處、其方家來共不心附罷在候段、油斷なる次第、一體當番人數手當も疎の樣子相聞、不束の儀不調法に思召候、依之逼塞被仰付之」。
幕府は二つのことを認定した。第一に、英船の端船が湊内に乗り入れ、御番所の前を往返したのに佐賀藩家来が気づかなかったこと。第二に、そもそも当番人数の手当てが疎(おろそ)かであった様子が相聞こえること。
前者は事件当夜の落ち度、後者は事件以前の体制の弛緩である。幕府は両方を一括して、「不束の儀、不調法」と裁いた。逼塞は閉門謹慎にあたる。これを大目付井上美濃守と御目付榊原隼之助が立ち会って申し渡した。
封廻状の文言には、感情的な激語はない。「油斷」「疎」「不束」「不調法」。いずれも行政語である。しかしその文言が指し示している事実は重い。長崎警備体制を二藩交代で担う佐賀藩が、その担当年に、警備の現実機能を欠いていた、と幕府が公式に認定したのである。
『通航一覧』はこの記事に割注を付している。「此頃、肥前守家老以下五六輩切腹せし旨、諸記に見えたり」。藩外の処断に呼応するように、藩内でも家老級五六人が切腹したと、諸記録が伝えている。割注に留まる伝聞ではあるが、佐賀藩内部でこの逼塞が重大事件として受け止められたことを示す傍証ではある。
警備の藩主への逼塞と、夜半に出兵して翌昼到着した藩主への褒詞。同じ日、同じ老中列座の場での二通の書面が、幕府の選別を最初に明示した。
二度目の沙汰は、文化六年正月晦日に下された。
御勘定奉行・柳生主膳正の宅で、御目付・水野藤九郎立ち会いのもと、三名に押込が申し渡された。支配勘定中村繼次郎、長崎奉行手附出役・菅谷保次郎、上川傳右衞門の三名である。
中村繼次郎への沙汰書はこうである。「去辰八月、長崎ヱゲレス船渡來の節、出役可致旨、松平圖書頭申遣候處、早速不罷越、臆し候致方不束の事に候、依て押込申付之」。
図書頭が出役を命じたのに、早速罷り越さなかった。臆した致し方が不束である。これが押込の理由である。中村は八月十五日夜、検使として異船に向かうことを求められた際、「衣服がない」などと言って動かなかった人物である。事件当夜、奉行は別の者を立てざるを得なかった。沙汰書はこの不作為を「臆し候致方」と表現している。
菅谷保次郎・上川傳右衞門への沙汰書はこう続く。「去辰八月、長崎ヱゲレス船渡來阿蘭陀人を奪取候段、不慮の事に候得共、檢使罷越候身分にて、度を失ひ罷歸り不埒の事に候、依之長崎奉行手附出役差免、押込申付之」。
ここで幕府が用いた語法は重要である。オランダ人が奪われたこと自体は「不慮の事」と認められている。不意の事件である、と。だが、検使として現場にいた身分でありながら、「度を失ひ罷歸り」、つまり節度を失って引き返したことは「不埒」である。
幕府は、結果としてオランダ人が奪われたことそのものを罰したのではなかった。検使として赴いた以上、現場で果たすべき節度がある。その節度を失ったことを罰したのである。役所へ戻ったこと自体が不埒なのではない。歯の根も合わぬまま、見たままを取り乱して伝えた、その有様が「度を失った」と裁かれたのであった。
二人は、蒼白になったまま役所へ駆け戻った。図書頭と対面した時も、なお歯の根の合わぬ有様であった。
ここに、図書頭が生前に取った態度との明らかな違いが現れる。図書頭は菅谷・上川が役所に戻ったとき、「そのままには成り難い、早々に罷り越し死力を尽くして取り戻すべし」と厳しく直対した。だが厳しく叱責はしながらも、二人を罰しはしなかった。図書頭の場で問われたのは「即時に立て直して動け」ということであった。彼らをすぐに沖へ送り返した。
幕府の裁定はそれとは別の基準で行われた。図書頭は現場の混乱を理解しながら指揮を立て直そうとし、幕府は結果として三名に押込を下した。これは図書頭の処置を否定するものではない。武士の職分として、検使はその身分にふさわしい節度を持って事に当たるべきであり、それを欠いた者は別途、行政的に処さねばならない、という統治機構の判断である。
中村への沙汰書には、もう一つ重要な特徴がある。「松平圖書頭申遣候處」という一句である。図書頭は不出役を命じた者として、つまり指揮系統の頂点として、ここに登場している。すでに命を絶っている奉行の名が、家臣の不忠勤を裁く沙汰書の中で、忠勤判定の基準として書き込まれている。
幕府は、図書頭を「失敗した奉行」として裁いてはいない。
すでに死んだ奉行の名を、なお沙汰書の中に書き込み、その指揮に応じたか否かで配下を裁いている。
ここに、幕府の見ていた図書頭像が現れている。
三度目の沙汰は、押込の翌日、文化六年二月朔日に下された。
御勘定所中の間で、柳生主膳正が申し渡した。「支配勘定 人見藤右衞門、御普請役 荒堀五兵衞 名代荻野久五郎 去辰八月、長崎表えヱゲレス船渡來の節、松平圖書頭差圖に應し、速に出役致し骨折候段、譽置可被申候」。
褒詞である。
人見藤右衞門と荒堀五兵衞は、八月十六日朝、図書頭の命を受けて両番所の人数揃え督促のため出向いた者たちである。番所での督促は結局空振りに終わったが、二人はそのまま沖の検使に合流し、菅谷・上川と共に異国船の動向を望遠鏡で監視した。図書頭の差図に応じて速やかに動き、骨折りをした。これが幕府の評価である。
押込の三名と褒詞の二名、合わせて五人の沙汰書を、まったく同じ文体で並べて読むと、幕府の裁定基準が一行で表れる。
「松平圖書頭申遣候處、早速不罷越」 ― 押込
「松平圖書頭差圖に應し、速に出役致し」 ― 褒詞
判定軸は明らかである。図書頭の指揮系統に対して、応じたか、応じ損なったか。これがすべてである。結果として事件を防げたかどうかは問われていない。指揮への忠実が問われている。そしてその指揮系統の頂点に置かれているのは、すでに自刃して命のない奉行である。
幕府の裁定の中で、図書頭は責められるべき失敗者として現れない。逆である。図書頭は、家臣の忠勤を判定するための基準点として、沙汰書の中に書き込まれている。
これは無意識の措辞ではない。沙汰書はすべて、御勘定奉行宅または御勘定所中の間で、御目付立ち会いのもと、上意により申し渡されている。すべての文言が公式の手続きを経ている。その公式文書の中で図書頭が指揮基準として書かれているとすれば、それは幕府の意志である。
奉行が一身に責任を引き受けて自刃した。その死を、幕府は奉行職への否定として扱わなかった。むしろ、その死をもって奉行職は最後まで成り立ったとし、その上で、奉行を支え切らなかった者と、奉行を支えた者とを、別個に裁いた。
褒賞はこれだけにとどまらない。
『通航一覧』に掲載された徳右衛門の用部屋日記の末尾近くに、こう記されている。「奉行病死後出精骨折相勤候に付、爲御褒美七十人扶持被下置候事、按ずるにこの月俸は松平圖書頭に賜りしなるべし」。
徳右衛門への七十人扶持の下賜である。
按ずるにこの月俸は松平図書頭に賜られたものなるべし、という編者注がついている。すなわち、奉行職としての給付の系統から外して、図書頭家中への特別な賜与として処理された、という見解である。下賜の理由は「奉行病死後出精骨折相勤候に付」 ― 奉行病死後、精を出して骨折って相勤めたことに対する、と公式に書かれている。
事件当時、奉行直属の家臣として用部屋を担っていたのは、家老用人格の高橋忠左衛門、木部幸八郎、そして上條徳右衛門の三人である。だが図書頭自刃後の引継書面において、忠左衛門は「一向に御用向を取り扱っておらないから除名されたい」と申し出、幸八郎は「番所詰で委細を存じないから除名されたい」と申し出た。結果、引継書面は徳右衛門の単独署名で曲淵甲斐守に渡されることになった。
七十人扶持は、徳右衛門に対してのみ下された。
ただし、この「除名されたい」という申し出は、単純な責任回避としてのみ読むべきではない。
図書頭は、すでに責任を引き受けて自裁している。
その主君の死後、直属家臣である家老・用人格が、何事もなかったように奉行所最後の引継の連署者として名を連ね続けることには、武家社会の感覚として強い抵抗があったと見るべきである。
「御用向を取り扱っていない」「委細を存じない」という理由は、単なる弁解ではない。
それは、自らは最後の奉行所運営を担った者ではない以上、その責任者として名を残すべきではない、という進退表明に近い。
現代人には保身にも見える行動である。
しかし、主君が切腹した後、自分だけが平然と役所の中心に残ることの方が、当時の武士にとってはむしろ不自然であった。
この対比は、二つの方向から読むことができる。一つは、徳右衛門が一人で引継書面を整え、奉行所機能を最後まで保ったことへの評価である。これは沙汰書の文言「奉行病死後出精骨折相勤候に付」がそのまま伝えている。
もう一つの方向は、明文化されていない。引継書面から自ら名を外した二人について、幕府が直接に処分を下した記録は、『通航一覧』には収録されていない。だが徳右衛門に七十人扶持が下された一方で、忠左衛門と幸八郎に何らかの褒賞が下されたという記録もまた、ない。
幕府の沙汰は、書かれた処分と書かれない処分との両方で語る。書かれたのは大村への褒詞、佐賀への逼塞、中村・菅谷・上川への押込、人見・荒堀への褒詞、徳右衛門への七十人扶持である。書かれなかったものの中に、忠左衛門と幸八郎の名がある。武士社会において、その日その場にいながら名前を呼ばれなかったということは、それ自体が一つの位置取りであった。
なお、用部屋日記には、奉行所内部の引継書面そのものから二人を外した経緯が記されている。徳右衛門の手記によれば、この一件は江戸の評定所にかかると噂されており、徳右衛門が一人で書き出した「下書きのまま」の日記が、甲斐守の跡調(あとしらべ)書面を添えて江戸に伺いとして上った。引継書面に名がないことは、評定所の取り調べでも当然了知される事実となる。
奉行所内部における除名の自己申告と、幕府からの褒賞の不在。この二つは別の事柄であるが、忠左衛門と幸八郎の位置を、二重に語っている。
さらに、奉行所外でも処分が行われている。
沙汰書には記されていないが、八月十五日夜、英船の端船三艘が御番所前を通過したのを阻止しなかった戸町番頭・蒲原次衛門と西泊番頭・鍋島七左衛門は、事件後の取り調べを受けた。彼らは佐賀藩家中の者であり、佐賀藩主への逼塞が下った時点で、藩内処分の対象に組み込まれた。割注に伝聞として記された「家老以下五六輩切腹」がもしあったとすれば、彼らもその中にあった可能性は否めない。
また、遠見番についても、当夜異船を「異船とも気づかず、見損じて通した」段の不調法は、本来であれば「いかようとも致し、異人共を取り押さえるべき処」とされた職分の不履行である。ただし「異船近く致船繋」、すなわち異船がすでに港深く侵入していたという状況も考慮され、いずれも押込で処理された。
幕府はここでも、不作為そのものは認定しつつ、その情状については考慮を加えている。職分は果たすべきであった。しかし置かれた状況は危険でもあった。両方を踏まえての押込である。
奉行所内部における事務的な粛清にも触れておかねばならない。
徳右衛門が引継書面を整える過程で、その記述からは、図書頭家中以外にも、奉行所として動いていた者たちの選別が行われたことが読み取れる。徳右衛門は事務処理を進める中で、実際に御用向に関わらなかった者の名は、引き継ぎ・報告系統から外していった。これは公式の処分ではない。だが、長崎奉行所という統治機構が、誰を実務担当者として認め、誰を認めないかを、内部で整理していった過程である。
外からは幕府の処断が進み、内では徳右衛門による選別が進んでいた。
だが、問われていたものは同じである。
「誰が実際に動いたのか」という一点であった。
その問いに対する答えが、十一月十日の二通、正月晦日の三通、二月朔日の二通、そして七十人扶持の下賜という形で、文書化された。
ここまでを並べると、幕府の事件総括の構図が見えてくる。
幕府は、図書頭一人にすべての責任を負わせて事件を終わらせたわけではなかった。
事件は、職務怠惰、警備弛緩、職分逃避、判断失態、輔弼欠如など、複数の層に分かれていた。幕府はその一つひとつを、別個の対象者に対して、別個の沙汰書として、別個の場で申し渡した。一括の処分ではない。それぞれの責任が、それぞれの担い手のところで処理された。
逆に、それぞれの場で命に応じて動いた者は、別個に褒詞を受けた。大村上総介、人見藤右衛門、荒堀五兵衛、上條徳右衛門。これも一括の表彰ではなく、それぞれの働きに対して、それぞれの場で書面が出された。
処分と褒賞は、対をなして並んでいた。
そしてそのすべての書面の中で、すでに自刃している図書頭の名は、責められるべき者としてではなく、忠勤を判定するための基準として登場した。
これが、幕府がこの事件をどう理解したかという問いへの、文書による回答であった。
長崎は曲淵甲斐守の在勤の下で、事件の事後処理の段階に入った。十月二十二日の曲淵着任を、出島の通詞全員が矢上で出迎え、ドゥーフは祝辞を伝えさせた。ドゥーフ自身は、近い将来、奉行所で尋問を受ける予定であった。事件の意味と経緯は、これから幕府によって、改めて整理されていく。
長崎の外、江戸では、十一月十日に大村上総介と松平肥前守、正月晦日に中村・菅谷・上川、二月朔日に人見・荒堀、そして奉行病死後の出精骨折として徳右衛門への七十人扶持。これらが、事件に対して幕府が下した公式の答えである。
すでに自刃した奉行を含めて、誰が忠勤を果たし、誰が果たさなかったか。幕府はその選別を、文書として残した。
「処断」とは、その選別そのものであった。
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