86 図書頭の魂
『通航一覧』四百四十二頁の末尾、図書頭の自害の様子を書き留めたあと、上條徳右衛門はその段をこう結んでいる。
「可憐此日いか成日そ、天此英維を惜まざる」
哀れむべし、この日はいかなる日ぞ。天は、この英邁な人物を惜しまざるものか。
徳右衛門はここで「英維」と書いた。英邁な人材、武と知に秀でた英傑、というほどの意である。彼が仕えた主人について最後に選んだ言葉が、これであった。長崎奉行という職に在った四十一歳の男を、最も近く見て、最後の姿を見届けた者の筆が、最後に選んだ語である。
この一語を、本章の出発点としたい。
なぜ徳右衛門は「英維」と書いたのか。なぜ「至而悠々しき御生害」と長崎詰めの聞役は伝えたのか。なぜ長崎の市中は、切腹の報が伝わるや「至而評判宜、惜まぬ者は無御座候」と一変したのか。
これらの問いに答えるには、図書頭という人物を、フェートン号事件の三日間だけで見るのではなく、彼が長崎奉行として一年余を過ごした日常の中に置き直さねばならない。徳右衛門の手記が四百三十六頁から四百四十二頁にかけて並べているのは、まさにそうした日常の断片である。輪読、酒席、俳諧、書画、辰砂紙、聯と蓮の取り違え、目安方の願筋、横家の交易計画――事件と直接の関わりを持たぬこれらの記事を徳右衛門は事件記録の中に挿入した。彼の意図は明らかである。図書頭という人物を、フェートン号事件の三日間で測ってはならない、と言いたかったのである。
その日常を読み解くことから、本章を始める。
『通航一覧』四百四十頁。
「夏日御用向に勞れなからも、人より遲く引て休息の間もなく忙しかりし夜毎に呼はれて、温公の通鑑を回讀せしか、蚊にさゝれて難儀なりし、其人人足立梅榮、渡邊平藏と、僕となり」
夏の日々、奉行所の公務に疲れた身でありながら、図書頭は人より遅く奉行所を引いてもなお休まず、夜ごとに足立梅榮・渡邊平蔵・上條徳右衛門の三人を呼んで、司馬光の『資治通鑑』を輪読していた。蚊に刺されて難儀であった、と徳右衛門は書く。蚊帳の中ではない、夏の夜の縁先か広間か、ともかく蚊の出る場所での輪読であった。
『資治通鑑』は、北宋の司馬光が編纂した編年体の通史である。戦国から五代までの千三百年余の中国史を、君臣の興廃と治世の得失を中心に編んだ。武家の教養書というよりも、為政者の参考書である。歴代の中国王朝が栄え、また衰えた、その因果を読み取るための書である。
長崎奉行の職務に追われた一日の終わりに、この書を選んだ。そして家臣三人を相手に輪読した。一人で読むのではない。輪読である。読み、議論する。徳右衛門は続けて書く。「梅榮、平藏毎度議論に長し喧しく、鎭臺被怒候事もありて、その夜は會讀止たりし」。梅榮と平蔵が毎度議論を長引かせて喧しいので、鎮台すなわち図書頭が怒り、その夜は会読を止めたこともあった、と。
ここに見えるのは、ただの読書家ではない。歴史書を、現に統治する者の問題意識で読む人物である。
長崎奉行という職の特異性を、ここで思い起こしておきたい。第三十章で見たように、図書頭が長崎奉行に任ぜられたのは文化四年正月晦日であった。その四年前、レザノフが長崎に来航し、半年間幽閉されたうえで国外に追放された。その報復として、ロシアは樺太・利尻島で日本側集落を襲撃した。蝦夷地はにわかに緊張し、幕府は北方への警戒を強めた。同じころヨーロッパではナポレオン戦争が続き、オランダ本国はフランスの支配下に入り、バタビアからの船便は途絶しがちであった。長崎の貿易は、すでに鎖国体制の安寧の中にはなかった。
その時期に、長崎奉行を命ぜられた。
家光以来言い伝えられた訓示が、長崎奉行任命の場で代々読み上げられた。「もし外道によって、いささかでも領土が掠められるようなことがあれば日本の恥辱であるぞ」。「さらば長崎奉行の職は大事なれば、よく心ゆるびなく、おごそかに慎むベし」(『大猷院殿御実紀付録』)。この訓示は、形式の言葉ではなかった。蝦夷地はすでに「掠められ」つつあり、長崎にもまた、いつ何が来るか分からぬ時代に入っていた。
その認識のもとで、図書頭は『資治通鑑』を選んだ。歴代の中国王朝が、外威に備え、内乱を制し、また誤ったか――その記録を、夜ごとに家臣と読んだ。これは単なる読書趣味ではない。長崎奉行の職務の延長としての読書である。
第三十章で詳述したように、図書頭の経歴は典型的な能吏の歩みである。安永六年に二千石の旗本松平舎人康疆の養子に入り、天明八年中奥御番、寛政元年御小納戸頭、寛政八年西丸御目附、寛政十二年御目附、享和二年御召御船手兼任。御目附は幕府監察の俊英中の俊英であり、また幕政全般に通ずる政策通でもあった。歴代の長崎奉行二十一名が御目附出身であった。図書頭はまさにこの「指定席」を歩んだ。
ただし、彼の経歴に武辺の記録はほとんどない。御船手の兼任があるが、これは儀礼的なものであった。剣術に秀でていた、馬上に長けていた、武芸を好んだ――そうした記録は見当たらない。徳右衛門の手記にも、武芸の話は出てこない。出てくるのは、輪読、書画、俳諧、酒席である。
すなわち図書頭は、文官型の幕府官僚であった。
しかしその文官は、書斎の中で完結する文人ではなかった。読書は、統治のためであった。輪読は、家臣と議論を共有するためであった。読み、議論し、誤りを叱った。徳右衛門が思い出して「皆遺恨の事ともなり」と書いたあの夜ごとの輪読は、家臣にとっては苦痛も伴ったろうが、図書頭にとっては奉行職を支えるための研鑽であった。
この文官の質を、別の方向から照らす一事がある。徳右衛門の手記、四百四十一頁。
「鎭臺行儀正しき人にて、終に夷蹲居せし事をみず、する度に書画など被見に、箆をもちて紙をはね、丁寧信謹如此人をみず」
鎮台は行儀正しい人で、ついにあぐらに崩れた姿を見たことがない、書画を見るときも箆を持って紙の端を撥ね上げ、丁寧で慎みのあること、これほどの人を他に見たことがない、と徳右衛門は書いた。
これは、近侍する家臣でなければ書けない記述である。徳右衛門は図書頭の在勤一年余を間近に見続けていた。その目に映った主人の日常の姿勢が「終に夷蹲居せし事をみず」――最後まで一度もあぐらをかいて寛ぐ姿を見せなかった、というのである。
書画を見るときに箆を用いる、というのは、紙の端を直接指で触らぬための作法である。書画は文人の嗜好品であるが、図書頭は嗜好の対象を扱うときにも作法を崩さなかった。趣味の領域においても、自己統御を解かなかった、ということである。
このような人物が、夜ごとに『資治通鑑』を輪読し、議論する家臣を叱り、書画を箆で撥ね、そして昼は奉行所で公務を処理していた。
その公務の精緻さもまた、徳右衛門の手記に残されている。
四百四十一頁に並べられた逸話には、奉行所の日常事務の細部が映っている。
或る時、図書頭は通詞に命じて、清の文人・程赤城が自分用に使っていた辰砂紙を取り寄せさせた。徳右衛門が「色合いの鮮紅、また並ぶものなし」と何気なく感想を述べたところ、図書頭はにわかに顔色を改めて怒った。「以来、館内へ用向あらば、自分へ申し聞き、その上で申しつけるように」。すなわち、出島へ何かを取り寄せるような用向きは、必ず奉行本人に通してから命ずべし、ということである。
この怒りの意味を、徳右衛門は「誰人か私する樣に讒せしと見ゆ」と推測している。誰かが「徳右衛門は私事のために通詞を使った」と讒言したのではないか、と。事実は徳右衛門が私用に取り寄せたわけではなかった。だが図書頭は「私の疑いを起こさせる行為そのもの」を許さなかった。
ここに見えるのは、指揮系統への極度の執着である。
奉行所から出島への命令は、奉行を経ねばならぬ。これは形式の問題ではない。奉行所が出島に対して持つ権限は、奉行の人格を通して行使される一本の指揮系統であって、誰かが奉行を素通りして通詞を動かせば、その瞬間に指揮系統が崩れる。崩れれば、対外関係を統べるただ一つの窓口としての奉行所の機能が損なわれる。
「以来、館内え用向於有之者、自分え申聞其上にて申付候樣に」。この一語は、長崎奉行という職の本質を、図書頭がどう理解していたかを端的に示している。
同じ性格は、次の蓮の実の逸話にも見える。図書頭が高橋忠左衛門に「聯」を取り寄せるよう命じたところ、忠左衛門は「蓮子」と聞き違え、唐館に蓮の実の問い合わせをさせた。両人困惑して報告に来、奉行に確かめ直したところ、聯の聞き違いとわかり、図書頭は「殊の外赤面」した、と徳右衛門は書く。
この逸話で注目すべきは、図書頭が「赤面」したことである。怒ったのではない。家臣の聞き違いを責めたのではない。自分の発音が紛らわしかったことを恥じて赤面した。指揮系統の頂点に立つ者として、命令の明瞭さに責任を負うべきは自分である、という意識である。
辰砂紙の場面の激怒と、聯と蓮の場面の赤面――この対比が、図書頭という人物の輪郭を描き出す。指揮系統が他者によって乱されることに対しては前後なき怒りを示し、その同じ指揮系統を自分が曖昧にしてしまったことに対しては赤面した。怒りも赤面も、同じ一つの原則の二つの現れである。
この指揮系統への執着が、フェートン号事件下の図書頭の行動を貫いていた。
第七十一章までで詳述してきた図書頭の指揮を、ここで一度振り返っておく。八月十五日の夕、オランダ人拉致の急報を受けた図書頭は「物の具持て」と命じて鎧を着け、対面所に床几をかけて諸方の手配を直接に命じた。情報は奉行のもとに集約され、命令は奉行から発した。沖取締遠見番の児島唯助・吉川次郎平、盗賊改方田口惣兵衛、隠密方吉岡十左衛門、いずれも報告は奉行に対して直接に上げられた。
夜半、関伝之允・花房久七が出陣命令への返答を引き延ばしたとき、図書頭は徳右衛門を通じて手紙を発し、否応の返事を取らせた。佐賀藩の不調法は、その瞬間に明確になった。
十六日の水船派遣、ホウセマンとシキンムルの送還、その都度の検使派遣――これらすべてが奉行の指揮のもとに動いた。十七日朝、出帆の報が伝わるや、図書頭は楼上で「飛上り飛上り殘念がり」歯を食いしばって涙を流したと『崎陽日録』四十一頁は伝える。それは指揮系統の頂点に立つ者の、責任の重みそのままの涙であった。
楼を下りて居間に戻った図書頭に、徳右衛門は諷諫した。「於御役所はかぴたん内意より諸事手當致し、在国在邑諸達し、夫より臺場備方、軍船手當、出帆浦触れ、外一つとして、御手抜きは無之候へ者」――奉行所はカピタンの内意から諸事の手当てを行い、藩への通達、台場の備え、軍船の手当、出帆の浦触れ、一つとして手抜きはなかった、と。図書頭はこれを聞いて「その方萬端骨折なり、歸府之上者、御持御先手への轉役と心得候なり」と答えた。
この応答に注目したい。徳右衛門は「奉行所は手抜きなく対応した」と諫めた。図書頭はそれに対して「お前は骨折った」と部下を労った。すなわち図書頭は、徳右衛門の諫めに同意したのではない。「奉行所として手抜きはなかった」という事実認識は受け入れたが、奉行自身の責任を免じてもらおうとは思わなかった。むしろ部下の働きを認め、栄転を約束した。組織としての対応の不備は他にあったが、その不備を含めて指揮した者の責は別である、という認識である。
辰砂紙の逸話で見た「指揮系統への執着」は、この瞬間に最も峻烈な形で現れた。指揮系統の頂点に立った者は、その系統下で起きたことすべての責を、最終的には引き受ける。これは長崎奉行所のような対外窓口の、まさに本質的な原則であった。
この原則を理解するための、もう一つの重要な手がかりがある。徳右衛門の手記、四百四十一頁。
「在勤中折々別段之賜あり、袖の内より賜し、有此功にと戯れ変りに賜ひける、その品々、右の品々は別段恩賜と心得候なり」
在勤中、図書頭は時折、別段の賜物を家臣に与えた。それを「袖の内」から賜った、と徳右衛門は書く。「有此功にと戯れ変りに」、つまり「これは功があるぞ」と冗談めかして渡した、と。「その品々、右の品々は別段恩賜と心得候なり」。徳右衛門にとって、これらの品は特別の恩賜として心得るべきものであった、と。
「袖の内より」の一語が重い。
長崎奉行は、幕府の遠隔の出先機関として広大な裁量を持つ職であった。奉行所は豊かな役所であった。御用金、御褒美金、御祝儀金、各種の名目で動く銀は莫大であった。歴代の奉行のなかには、これらを私するに近い形で扱った者がいたことは、「御老中でも手が出せないのは大奥・長崎・金銀座」という言葉に皮肉として残っている。
その奉行所の頂点にいて、図書頭は「袖の内」から家臣に賜物を与えた。すなわち自分の懐から、私財として、与えたのである。
これが何を意味するか。
公金を私する者の対極にある作法である。公の財はあくまで公のもの、私の財はあくまで私のもの、その区別を逆方向に厳しく守った、ということである。家臣を労うのに公の褒賞を用いてもよかった。だがそれは公の判断であり、公の手続きを経るべきものである。日常の場面で家臣にちょっとした品を与える、その種の労いには公の財を用いなかった。「袖の内」から、私財として、戯れ言葉とともに渡した。
この峻別が、何気ない逸話のように徳右衛門の手記に挿入されている。だが、これほど図書頭という人物の根幹を語る逸話は他にない。
この峻別こそが、辰砂紙の逸話で見た「指揮系統への執着」の精神的根拠である。指揮系統を厳格に守るには、その頂点に立つ者自身が、公私の区別において厳格でなければならない。公の権限を私の都合で動かす者は、指揮系統を保てない。私の感情を公の決定に持ち込む者も、指揮系統を保てない。図書頭はその区別を、私財から家臣を労うという日常の所作にまで貫いていた。
そして、この同じ峻別が、最後の自害の論理にも貫かれている。
フェートン号事件で責められるべき者は、図書頭一人ではなかった。佐賀藩松平鍋島肥前守の警備手薄。深堀飛脚の不行届。福岡藩黒田家の非番ゆえの未到着。大村藩大村上総介の到着遅延。検使中村繼次郎・菅谷保次郎・上川傳右衛門のオランダ人引き渡し時の判断失態。図書頭が望めば、その責任を分散させ得る事項はいくつもあった。
だが彼はそれをしなかった。第八十五章「処断」で論じたように、五ヶ条書付には「奉行たる自分の不行届」のみが書かれ、他者の責任は一切書き込まれなかった。
これは、辰砂紙の場面と同じ原則である。指揮系統の頂点に立った者は、その系統下で起きたことすべての責を、最終的には引き受ける。家臣の不手際を理由に責任を分散させれば、その瞬間に奉行職という制度そのものが瓦解する。
公私の峻別が、ここでは責任の峻別となって現れている。公の責任は公として引き受ける。誰の責任を誰に分散させるか、という私の計算は持ち込まない。徳右衛門が「袖の内より賜し」の逸話に込めたものは、この最後の責任引受の論理を、日常の所作の中に予示していたのである。
ここで、第八十二章「静謐」の末尾、検使両人を居間に呼んで労った場面を再び取り上げたい。
十五日の夕、図書頭は菅谷保次郎と上川伝右衛門を激しく罵倒した。「公禄を賜う身でこのていたらく、西国諸藩の前にこれほどの恥があろうか」「なんと言う恥知らずな言い訳か」――卵を岩に投げるような任務を命じかけたほどの怒りであった。それを、中山作三郎の必死の諫言と、徳右衛門の介在で図書頭は撤回した。
そして十七日の夕方、図書頭は二人を居間に呼び出して、こう告げた。
「一旦奪い取られた事は不意の出来事であり、越度とも申し難い。あれほど厳重なる備えのある異国船へ、少人数で再三差し向かい、無難に紅毛人を取り返して来た儀、つぶさに江戸へ言上に及ぶつもりであるから、必ず心得違いなどいたすまじき」(『視聴草』四百三十七頁)
この言葉は、二日前の罵倒の撤回ではない。罵倒は罵倒として残しつつ、その後の二人の働き――水食糧の取引、ホウセマンとシキンムルの送還、出帆申し渡しの検使役――これらを別個の功として正当に評価し、江戸への報告にもそのように記すと約束した。「越度とも申し難い」という一語は、公的な評価の表明であった。
これは、酒席で家臣に戯れの言葉とともに「袖の内」から品を渡したのと、同じ精神の系列にある。日常の場面では私財から家臣を労い、公的な場面では奉行の権限において部下の名誉を回復させる。公私の峻別とは、公を私で侵さぬというだけでなく、私を公で侵さぬ、両方向の厳格である。
そしてこの労いの言葉が、二人にとっては図書頭からの永の別れの言葉となった。
図書頭の腹は、すでに決まっていた。
第八十三章「昇天」で見たように、その夜半、図書頭は居間の先、鎮守の社の手前、生垣の際に毛氈を敷き、臍下を一文字に薄く引き、自身の脇差を喉に当て、鍔元まで突き通した。趺座の姿勢を崩さず、生きているように見えたまま、命を絶った。
ここで、本章の核心的な問いに立ち戻る必要がある。
なぜ彼は、最後まで自己統御を崩さなかったのか。
この問いは、武士論の常套句で片付けてはならない。「武士だから当然である」「武家の作法に従ったまで」――そう言ってしまえば、何も言ったことにならない。
人間は、死の直前に、迷う。崩れる。恐怖する。躊躇する。切腹は観念ではない。激痛と本能的恐怖を伴う現実行為である。腹を切るというのは、皮膚と腹膜を裂き、内臓を露出させる行為である。そのうえで喉を貫く。介錯人を立てない場合は、自分の手で頸動脈を絶って絶命を確実にする。これを、迷いも崩れもなく完遂することは、武士の家に生まれたというだけで自動的にできることではない。
そしてすでに見たように、図書頭には武芸鍛錬の記録がほとんどない。第三十章で確認したように、彼は文官型の幕府官僚であり、御目附から長崎奉行への典型的な経歴を歩んだ人物である。武辺の人ではなかった。
それにもかかわらず、彼は「遖れの御生害」「至而悠々しき御生害」「趺座して生るか如し」と複数の史料に書かれる最期を遂げた。
なぜそれができたか。
ここで、これまで見てきた図書頭像が、一つに繋がる。
第一に、輪読である。
『資治通鑑』を夜ごと家臣と輪読し、議論し、誤りを叱った。歴史書を、現に統治する者の問題意識で読む――その読み方が、彼の精神の骨格を作っていた。歴代の王朝がどのように興り、どのように衰えたか。その因果の中心には、為政者の判断と引責があった。彼は、為政者がどう判断し、どう引責すべきかを、毎晩、千三百年分の事例から学んでいた。
第二に、行儀である。
「終に夷蹲居せし事をみず」――最後まで一度もあぐらに崩れた姿を見せなかった。これは、自己統御を日常の所作の中に維持していたことを意味する。書画を見るに箆を用いる、という細部にまで及ぶ自己統御である。崩れぬということは、訓練の結果ではなく、訓練の必要が日常に貫かれていたことを意味する。
第三に、指揮系統への執着である。
辰砂紙の場面で見た前後なき怒り、聯と蓮の場面で見た赤面、いずれも指揮系統という一つの原則に発していた。指揮系統の頂点に立った者は、命令の明瞭さと結果の引受とを、両方とも引き受ける。これを彼は、奉行職に就くずっと以前から、御目附時代に、おそらくは安永六年に十六歳で家督を継いだ時から、徐々に身につけてきたのである。
第四に、公私の峻別である。
「袖の内より賜し」の一語に集約される、公財を私せず、私財を公財として扱わぬ、両方向の厳格である。
これら四つは、別々の事柄ではない。一つの精神構造の四つの現れである。
そしてこの精神構造は、最後の十二時間に、最も明瞭に作動した。
第七十九章から第八十二章までで見たように、十七日朝、楼上で出帆を望見して涙を流した図書頭は、その同じ日のうちに、次のことを処理した。江戸への報告書の執筆。これは「松平図書頭殿御事、当月十八日の朝までに異国船出帆の御用向の御取調相済み、総体の始末を言上、ならびに帆影見隠の注進、その他御届書までもお仕舞いになり、大早の宿次を差し立てられたる」(『通航一覧』四百四十三頁、長崎出宿次書状)と要約される一切である。大村上総介との対面。検使両人への労い。御用状の整理と取調掛り手附熊谷與十郎への指示。徳右衛門との「不思議の縁で」の落涙。書付の自筆認め。
そして、夜半の自害。
この十二時間に処理された事項の量と質を見るとき、これらが「死を覚悟した人間の最後の片付け」という抽象では捉えきれぬことが分かる。これは、奉行という役目を最後の瞬間まで遂行した人物の、行政処理そのものである。報告書は江戸への必須の届け書、検使労いは部下の名誉回復、御黒印の引継準備は同役奉行への滞りない権限移譲、書付の披封無用と二通の壹封は幕閣への公的な引責表明――すべてが、奉行職の論理の内部で完結している。
その延長線上に、自害があった。
すなわち図書頭の自害は、これらの行政処理と別個の「武士的決断」ではない。報告書執筆と検使労いと御黒印引継ぎの最後に位置する、奉行職の責任処理の終着であった。
「行政官としての切腹」というほかない。
ここに、本章の冒頭で提示した「英維」の意味が、ようやく明らかになる。徳右衛門が「英維」と書いたのは、武勇を讃えたのではない。文と武を兼ねた英傑、という抽象を讃えたのでもない。彼が見た主人は、長崎奉行職という制度の論理を、最後の一瞬まで完璧に体現した人物であった。その完璧さが、武家社会の言葉では「英維」としか表現しようがなかったのである。
ここで、ようやく胆力の謎が解ける。
武芸鍛錬の記録に乏しい文官型奉行が、なぜ最後まで自己統御を崩さず、「遖れの御生害」「趺座して生るか如し」に至れたか。
答えは、彼の胆力が武芸由来のものではなく、行政官として自らに課した秩序意識の延長であったから、である。
毎日、書画を見るに箆を用いる人物が、夜ごとに『資治通鑑』を読み議論を叱る人物が、私財から家臣を労い公財を厳格に区別する人物が、辰砂紙の些細にまで指揮系統への執着を示す人物が――その人物が、最後の十二時間に、報告書を整え、検使を労い、御黒印の引継準備をし、書付に披封無用と記し、宿次差立に乗せ、夕餉を済ませ、酒宴を「いつもの如く」遂行し、近習を退け、一人になって庭に下り、毛氈を敷き、東に向かって礼拝し、襦袢の袖を切って刀に巻き、諸肌を脱ぎ、腹を一文字に引き廻し、脇差で喉を貫いた。
これらの所作は、すべて同じ一つの精神から発している。
崩れなかったのは、崩れるとは何か、を彼が知らなかったからではない。崩れることは彼にとって、長崎奉行という職にも、松平図書頭という人格にも、許されぬ事柄であったからである。「終に夷蹲居せし事をみず」と徳右衛門が書いた日常の所作の延長に、最後の趺座があった。
恐怖がなかったわけではない。激痛が和らいだわけではない。だが、それらを表に出すことは、彼の自己統御の中では端的に「ありえない」事柄であった。日常の所作の中で「夷蹲居」がありえなかったように、最後の所作の中で崩れることもありえなかった。
これは「精神力で克服した」のではない。恐怖は当然あったはずである。だが、それを表へ出すことを、自らに許さなかった。
文官の完成度こそが、彼を切腹へ導いた。
ここに、図書頭という武士の特異さがある。
図書頭は、文官でありながら武士的死を遂げたのではない。優れた文官であったからこそ、責任処理の帰結として壮絶な死に到達したのである。
武辺の人であったなら、これほどの死には至らなかったかもしれない。武勇は怒りや決断と結びつきやすく、引責の最終段階で武人は逆に他者への糾弾に走ることもある。「自分は戦った、戦果が出ないのは他者のせいだ」――そう言うことができる。
しかし図書頭は戦った人ではなかった。彼は指揮した人であった。指揮系統の頂点に立って、情報を集約し、命令を発し、結果を引き受ける――その一連の論理を、輪読と書画と辰砂紙と聯と袖の内の品々を通して、日常に貫いてきた人であった。
その人物が、フェートン号事件の最後の局面で、指揮系統の論理の最終段階に到達した。指揮した者は、結果を引き受ける。引き受け方は、五ヶ条書付の自筆と、自身の腹と喉とであった。
楼上で「飛上り飛上り殘念がり」歯を食いしばって涙を流した人物と、その夜半、毛氈の上で「至而悠々しき御生害」を遂げた人物は、矛盾なく同一人物である。
楼上の涙は、指揮系統の頂点に立った者が、自分の指揮下で結果を出せなかったことに対する、最も誠実な反応であった。そして同じ日の夜半の自裁は、その指揮系統の頂点に立った者が、結果の引受を最終段階まで遂行した、これも最も誠実な反応であった。両者は、同じ一つの原則の、別の時刻における別の現れである。
『崎陽日録』四十三頁は、図書頭の人柄をこう要約している。
「可憐此頭長温和にして殊に文章を好よく人の心持を察し下を憐て物毎によく心思付て至直にして決断す内剛にして外柔也」
哀れむべし、この奉行は温和な人で、特に文章を好み、よく人の心持ちを察し、下を憐れみ、物事によく心を配り、至って正直に決断した、内は剛にして外は柔であった、と。
「内剛にして外柔」――これが、丹治擧直の見た図書頭であった。徳右衛門が「英維」と書いたのも、長崎詰めの聞役が「悠々しき」と書いたのも、長崎の市中が「惜まぬ者は無御座候」と一変したのも、すべてこの「内剛外柔」を別の角度から言い当てた言葉である。
「外柔」のほうは、輪読の場での笑い、俳諧の「古句よ古句よ」の戯言、検使労いの言葉、家臣への「袖の内」からの品、これらに現れていた。
「内剛」のほうは、辰砂紙の前後なき怒り、十五日の検使罵倒、五ヶ条書付の自筆、そして最後の趺座に現れた。
外柔は内剛を隠していたのではない。外柔と内剛は、同じ一つの自己統御の表裏であった。家臣を笑わせる時の柔らかさと、指揮系統の乱れを許さぬ時の厳しさと、その両方を同じ精神の節度のもとで使い分けることができた人物――これが図書頭である。
そして、節度を最後まで保ったまま、命を絶った。
『通航一覧』四百四十三頁。長崎の聞役の風説書はこう書く。
「右御切腹有之候処、以前之不評判と引替、至而評判宜、惜まぬ者は無御座候」
切腹の事実が伝わるや、市中の評価は一変した。以前は、フェートン号事件の対応の手際を批判する声があった。だが、切腹の報を聞くや、市中は人物への深い哀惜に転じた。「惜まぬ者は無御座候」――惜しまぬ者は一人もおりません、と。
長崎の市民は、図書頭の在勤一年余を間近に見ていた。輪読の主人を直接に見たわけではない。だが、行儀の正しさ、決断の的確さ、対外関係の処理の精緻さ、そして事件の最中の懸命の指揮――これらは町の人々にも何らかの形で伝わっていた。事件勃発当初の対応への批判は、人物そのものへの批判ではなく、結果への失望であった。
切腹の報とともに、市民は理解した。この奉行は、結果に対して責任を取った。しかもその責任の取り方が、武家社会の最も峻烈な作法に則っていた。長崎の市民にとって、その作法は、武家社会の外側から見上げる対象であった。それでも――あるいはそれだからこそ、彼らは「惜しんだ」。
文化五年八月十七日の夜から十八日未明にかけて、長崎奉行松平図書頭康英は、四十一歳の生涯を閉じた。表向きは病死とされ、八月二十七日に葬送が行われた。
その十日間、奉行所はかろうじて機能し続けた。御黒印は曲淵甲斐守に渡され、報告書は江戸に届き、検使たちへの処分の準備が始まり、家中はひとまず守られた。
これらの十日間の機能を支えたのは、十七日の夜半までに図書頭自身が整えていた段取りであった。彼が倒れたあとも、彼の指揮系統は最後の一日まで、奉行所を機能させ続けた。
これが、文官として最後まで自己統御を維持した一人の奉行が、長崎に残した最後の業績であった。
「天此英維を惜まざる」。
徳右衛門の嘆きは、武家社会の内側からの嘆きであった。同時に、それは長崎の町の人々の哀惜とも響き合った。
英邁な人物が一人、行政官として完成された人物が一人、毛氈の上で趺座のまま命を絶った。生きているように見えた、と書かれた姿勢のまま、最後まで指揮系統の頂点を譲らずに、彼は奉行職を終えた。