81  逸機

検使団の鯨船が沖へ漕ぎ出したころ、西役所の物見楼上では図書頭と上條徳右衛門がなお遠眼鏡を港口へ向けていた。
フェートン号はすでに錨を上げ、前夜からの北風を受けて帆を広げ、高鉾島の沖へ向かっていた。
このときの図書頭の姿を最も生々しく伝えるのは「通航一覧」所収の書状である。「同月廿七日、長崎出或書状」と題されたその文書は、八月十七日の情景をこう記している。
「御役所之火之見脇高き物見より、圖書頭殿異國船帆をかけ候を遙に被致見分、飛上り飛上り殘念かり、小身にて箇樣なる重き御役職御請申上候段、今更後悔被申、齒を咀しはり落涙にて、殘念かられ候よし」(通航一覧、438p)
これは、これまでの章で見てきた図書頭のどの姿とも異なっている。律儀であり、部下に細やかな心遣いを示し、酒席でも乱れぬ人物として描かれてきた図書頭が、ここでは何度も飛び上がって悔しがり、歯を食いしばって涙を流している。そのさまを見た上條徳右衛門から人づてに伝わったのだろう。
注意を引くのは、その嘆きの中身である。「小身にてかやうなる重き御役職お請け申し上げ候段、今更後悔申され」、
つまり二千石の旗本という自らの「小身」をもって長崎奉行というこの「重き御役職」を引き受けたこと自体への後悔である。
目の前で異国船が出帆していくその瞬間に、図書頭は自分がこの重職を引き受けたことを悔やんだ。楼上の激情は、ただその場の失意から湧いたものではない。この三日間、ついに何もできなかった無力感が、走り去る帆影とともに一気にこみ上げてきたのであろう。彼は手を拱(こまね)いていたわけではない。異国船を攻撃すべき大村藩の軍勢はまさに長崎の北15Kmの時津に着岸したのである。
だが、その軍勢の長崎への到着を待たず、船は出て行った。出航を引き止めるべく仕組まれた中村継次郎らの検使団の鯨船は全力で櫓を漕いではいるが、もはや追いつける距離にはなかった。
深堀藩に用意させた焼打ち手順も届かぬうちに、もはや何の手も打てないことになったのだ。
上條徳右衛門が記録させた用部屋日記(『通航一覧』436頁)はこう記す。
「右出帆の様子、楼上より奉行の跡に付き望見せしに、船は速に走り出で、奉行は遺恨面色に顕れ、即刻楼を下られ候故、跡に付き居間へ参り」
ここで重要なのは、「即刻楼を下られ候」という一点である。図書頭は出帆を視認したその瞬間に楼を降りている。共にその一部始終を見ていた上條徳右衛門は、その後を追って居間まで従っている。
「右出帆の様子、楼上より奉行の跡に付き望見せしに、船は速に走り出で、奉行は遺恨面色に顕れ、即刻楼を下られ候故、跡に付き居間へ参り」(『通航一覧』436頁)
異国船の出帆は、この時点で阻止し得ない。だがそれは図書頭の職務の終わりを意味しない。再び戻る可能性がある以上、長崎全域の浦々への警報発令が必要だった。図書頭は直ちに浦触・大浦触を発し、沿岸警備の全域に非常体制を命じた。その触書は『通航一覧』に明確に見える。
「異国船出帆被申渡候間、浦々念入見張可申付候、若又浦々にて狼藉等致候ハヽ、何方にても石火矢を以て相砕可申候」(同 438頁)
ここで命じられているのは単なる警戒ではない。
各浦に対して「念入見張」を命じると同時に、「石火矢を以て相砕くべし」として、現場判断による即時攻撃を許可している。これは明確な非常措置であった。
さらに民間統制についても、
「婦人遊山舟并漁師等たり共女子之分は海上へ不出様、乙名并代官手代共へ急度申付候事」(同 438頁)
とあり、婦女の海上活動を全面的に禁止している。
また、
「御見送り等之儀は、是迄異国船出帆之節之通相心得可申候」(同 438頁)
とされ、警備船による見送りなどは従来の慣例に従うことが指示された。
この浦触を受け、諸藩および沿岸各地は即応する。
佐賀藩は、
「浦々へ念入見張申付、諫早豊前始人数引払可申付候」(同 441頁)
として領内警戒を強化するとともに兵の整理を行い、さらに
「伊王嶋辺御番船航路相守罷在候段申上候」(同 441頁)
と、伊王島付近で航路警戒を継続している状況を報告している。
出帆後のフェートン号の動きについては、『通航一覧』がさらに具体的に伝えている。
小瀬戸の遠見番所では遠眼鏡による監視が続けられており、出帆して間もなく、異国船はすでに「十里余」も隔たったと報告された。さらにその後、船影は見る間に遠ざかり、「十四、五里」も隔たったとの注進が届いている。
また同書は、フェートン号の帆の掛け方についても記している。野母までの七里ほどの間は帆を三枚、野母から五島までは帆を五枚、五島浦からは帆を十枚掛け、順風を得て急速に外海へ走り去ったのである。
そして申の中刻、すなわち午後四時ごろ、小瀬戸遠見番所から、申の方角へ帆影が見えなくなったとの報告が奉行所へ届いた。
この時点で、フェートン号は長崎奉行所の視界から完全に消えた。
福岡藩も、
「浦々念入見張可申付旨書付相渡候」(同 444頁)
との命令を受け、警戒体制に入ったが、やがて
「最早帆影不相見候間、人数差出候儀不及候段」(同 444頁)
として増援派遣を中止した。
大村藩については、
「大村勢着之節は、既に異船出帆之後ニ付、波止警備申付置候」(『崎陽日録』39頁)
とあり、到着時にはすでに出帆後であったため、波止警備に転じている。(これは後述する)
島原藩もまた、
「帰帆相成候ニ付、人数差出候儀無之旨届出候」(『通航一覧』444頁 幕閣への報告)
と報じ、出兵不要と判断した。
さらに、
「茂木より早船差出、御用人方へ注進申上候」(同 444頁)
とあり、翌十八日には沿岸からの速報も届いている。ここでいう御用人方とは、「御用人方」とは、長崎奉行(松平図書頭)の側近として実務を取り仕切る御用人たちを指す。奉行の命を受けて書付を作成し、与力・同心・浦方・船方など諸役へ指示を伝達する役割を担い、現場の動員や差配はこの者たちを通じて実行された。すなわち御用人方は、奉行の判断を具体の命令として各所に行き渡らせる中枢である。
そして最終的な確認は遠見番所によってなされた。
「申ノ中刻、小瀬戸遠見番所より申方へ帆影見え不申旨申来候」(同 444頁)
これにより、異国船の完全離脱が確認される。
奉行所はこれを受けて、
「諸藩聞役召寄、警固相止候段申渡候」(同 444頁)
として非常警戒の解除を命じ、さらに
「地役人帯刀之儀も、明日より平常之通可致旨申渡候」(同 444頁)
とし、臨時措置も解除された。三日にわたる異常な警戒体制は、ここに至って終息した。
しかしこのとき、図書頭のもとでは、なお静かな動きが続いていた。
その居間において上條徳右衛門は諷諫を試みる(436p)。諷諫とは相手の気持ちを傷つけないように言うことで、直言つまり直諫(じっかん)に比べて婉曲な表現となる。
「さて無滞出帆も相済み申し候、さりながら、始め御用状にも、品により焼打ち致すべしとの儀にも候へば、無事の出帆無慙なれど、全く両家時節を計り人数引き取り、火船等も相調はず、是非なき次第、御役所にては、かびたん内意より諸事手当て致し、在国在邑へ諸達し、それより台場備方、軍船手当、出帆浦触、その外一つとして、御手抜きはこれなく候へば、焼打ち致さざるは是非なき次第なりと諷諫いたし候へば」
上條はこう言ったのである。
「焼打ちができなかったのは無念であるが、両家(佐賀と福岡)が時節を計って人数を引き揚げており、火船も整わなかった。御役所としてはカピタン(ドゥーフ)の内意を受けて諸般の手配をし、諸藩への伝令、台場の備え、軍船の手当、出帆浦触(異国船が出航するから注意警戒せよ、と布告したこと)、一つとして手抜かりはなかった。したがって焼打ちができなかったのは是非なき次第である」、と。
これは奉行を慰める言葉である。同時に、責任を図書頭一人に帰すべきでないとする諫めでもあった。そもそも、焼打ちができなかった最大の原因は、佐賀藩の警備兵が規定の千人どころか百人前後しか在番しておらず、福岡藩も非番で兵力皆無であったことにある。この責任の多くは両藩の怠慢に帰される筋のものであり、奉行一人に背負わせるべき失態ではない。
この諷諫はただの慰めではなく上條はこのとき、図書頭のうちに何かが変わりつつあることを感じ取っていたのかもしれない。
だが図書頭にとって、上條の周到な整理はもはや届く言葉ではなかったのではないか?
これに対する図書頭の返答を、同じ箇所が伝える(436p)。
「その方万端骨折りなり、帰府の上は、御持御先手への転役と心得候なりと、頻りに御詫状を認められし」
御持御先手への転役とは、将軍の直接警護をするもっとも名誉ある役職である。表面上は感謝と昇進の約束である。
万事にわたって骨を折ってくれたことへの労い。そして江戸に帰れば上條を御持御先手という役職へ推挙するという意向。御持御先手とは、将軍直属の先手組に連なる役で、幕府職制のなかでは将来ある武官の栄誉ある転任先とされていた。上條にとって、これは具体的な転役の話として受け取られたであろう。
だが、この一言の中には、もう一つの響きがある。「帰府の上は」と言いながら、そこに語られているのは上條のことだけである。図書頭自身の帰府は、その言葉の中に含まれていない。
上條がその瞬間にそれを察したかどうかは、史料の伝えるところではない。後の章で触れることになるが、上條はこの日の深夜、図書頭の自害を家僕の呼び声で初めて知り、現場で「ハッと御用にも立てず」と共に落涙することになる(441p下段)。少なくとも史料に残る限りでは、この時の図書頭の言葉を遺言として受け取った形跡はない。しかし後日振り返れば、これが上條にとって最後に交わした本格的な言葉であった。
その頃、長崎の北方でも動きがあった。大村藩軍勢が時津に上陸した、との急報が入る。
図書頭が待ち続けていた異国船を攻撃できる戦力の到着だが、それはなお長崎から隔たった北方にあった。この大村藩軍勢は時津で異国船は既に出航したとの知らせを受ける。恐らく図書頭もしくは上條徳右衛門が早馬で大村藩勢に伝えたものと思われる。
図書頭は続けて「頻りに御詫状を認められし」と記される(436p)。「頻りに」とは、しきりに、繰り返してという意である。単発の文書ではない。認め直し、書き直し、なおも手を入れ続けた形跡がここにはある。「五箇条の書付」(444p)──佐賀藩の警備空白を見抜けなかったこと、十五日夜の小艇三艘を見過ごしたこと、焼打ちを準備しながら兵数不足で実行できなかったこと、大村上総介の到着が間に合わなかったこと、そして「天下の恥辱を異国に見せてしまい申し訳なく」自害すると結ぶもの──この自刃の前に書かれた遺書的文書と、居間で「頻りに」認められたこの詫状とは、筆致のうえで連続している。楼上で吐き出された「今更後悔」は、居間ではすでに、書付として整えられ始めていた。
こうして西役所の奥で書状が認められているその間に、ようやく大村藩主大村上総介の軍勢が長崎に到着した。
「通航一覧」(439p下段)が引く或る書状にはこうある。「大村上総介、長崎到着は七つ過ぎ(15時)、奉行に挨拶の後(大村藩)お屋敷へ。先手の物頭の組は大波止で幕張して警備、頭役の者はすべて陣羽織野袴具足箱一つずつ、足軽や供廻りは半纏目印羽織野袴、上総介は上下、御供廻りは陣羽織野袴、御家老は馬上で陣羽織野袴、手廻り二十人余」
午後三時過ぎの到着。整った行軍はそのまま大波止に展開し、幕が張られ、警備の布陣が敷かれた。ただしこれは、異国船出帆の三時間後の光景である。
また大村藩主自身が江戸へ送った御届(440p上段)によれば、大村では「子の中刻(午前0時)」に図書頭からの出動命令を受け、「寅の刻(4時)」に時津へ向けて出船している。風波は強かったが押し渡り、午の刻(12時)に時津へ着船したところで、そこで「異国船焼打ちは中止のこと」を知らされた。
未の刻過ぎ(午後2時過ぎ)に長崎蔵屋敷へ到着し、そこで着服を改めて麻裃へ着替えたうえで御役所へ赴き、図書頭と対談した、と自ら記している。
この麻裃への着替えは、単なる服装の問題ではない。大村藩主は、長崎奉行を幕府の正式な代表者として、最大限の礼をもって対面に臨もうとしていたのである。大村藩の側から見れば、若い藩主の指揮下、動員から到着まで、あたう限りの速さで事は運んでいた。ただ長崎に着いたときにもはや異国船は出帆の後だった。となれば、平時の正装で長崎奉行との対面に臨んだのだ。。
この大村上総介と図書頭との対談の様子を、史料は簡潔に伝えるのみである。440p上段の大村藩自身の御届によれば、「それからお役所にて図書頭と対談、異国船出帆したので他に変わりはないと言われたので」御報告する、とある。
「他に変わりはない」──華麗な軍装と八千の兵を率いて駆けつけた藩主に対し、図書頭の応対はこの一言に要約される簡素なものであった。
この素っ気なさは、現代の感覚からすれば、むしろ異様にさえ映る。
この簡素さの中にあるものを、どう読むか。
敗北の諦めとも、単なる虚脱とも見えない。楼上で飛び上がって涙を流した同じ人物が、わずか数時間ののち、これほど静かな態度で到着したばかりの藩主に応対している。
この変化は、やがて一つの方向へ収斂していくように見える。
この決断が下された時点は、史料からは明確には特定できない。だが、楼上の激情から居間での「帰府の上は」という言葉までの間に、その決断が成されたと見るのが、この日の図書頭の振る舞い全体に最も整合する読み方である。
「逸機」とは、機を逸するの意である。この日、長崎奉行所は焼打ちの機を逸し、異国船を取り逃がした。
しかし同じ日の同じ時間の流れのなかで、図書頭はもう一つの機に向き合っていた。そして陽が傾き、西役所には夕餉の支度が始まる時刻となった。

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