検使団の鯨船が沖へ漕ぎ出したころ、西役所の物見楼上では図書頭と上條徳右衛門がなお遠眼鏡を港口へ向けていた。
フェートン号はすでに錨を上げ、前夜からの北風を受けて帆を広げ、高鉾島の沖へ向かっていた。
このときの図書頭の姿を最も生々しく伝えるのは「通航一覧」所収の書状である。「同月廿七日、長崎出或書状」と題されたその文書は、八月十七日の情景をこう記している。
477「御役所之火之見脇高き物見より、圖書頭殿異國船帆をかけ候を遙に被致見分、飛上り飛上り殘念かり、小身にて箇樣なる重き御役職御請申上候段、今更後悔被申、齒を咀しはり落涙にて、殘念かられ候よし」(通航一覧、438p)
これは、これまでの章で見てきた図書頭のどの姿とも異なっている。律儀であり、部下に細やかな心遣いを示し、酒席でも乱れぬ人物として描かれてきた図書頭が、ここでは何度も飛び上がって悔しがり、歯を食いしばって涙を流している。そのさまを見た上條徳右衛門から人づてに伝わったのだろう。
注意を引くのは、その嘆きの中身である。「小身にてかやうなる重き御役職お請け申し上げ候段、今更後悔申され」、つまり二千石の旗本という自らの「小身」をもって、長崎奉行というこの「重き御役職」を引き受けたこと自体への後悔である。
目の前で異国船が出帆していくその瞬間に、図書頭は自分がこの重職を引き受けたことを悔やんだ。楼上の激情は、ただその場の失意から湧いたものではない。この三日間、ついに何もできなかった無力感が、走り去る帆影とともに一気にこみ上げてきたのであろう。彼は手を拱(こまね)いていたわけではない。異国船を攻撃すべき大村藩の軍勢は既に大村湾の海上にあった。
だが、その到着を待たず、船は出て行った。出航を引き止めるべく仕組まれた中村継次郎らの検使団の鯨船は、全力で櫓を漕いでも、もはや追いつける距離にはなかった。
同じ書状の、もう一節を引く(436p)。
「右出帆の様子、楼上より奉行の跡に付き望見せしに、船は速に走り出で、奉行は遺恨面色に顕れ、即刻楼を下られ候故、跡に付き居間へ参り」
上條徳右衛門は図書頭の背後から、その一部始終を見ていた。船は「速に走り出で」、図書頭は「即刻」楼を降りた。上條はその後を追って居間まで従っている。その短い時間に、図書頭の中で何かが変わっていた。
居間へ入った図書頭に、上條徳右衛門は諷諫を試みた(436p)。諷諫とは相手の気持ちを傷つけないように言うことで、直言つまり直諫(じっかん)に比べて婉曲な表現となる。
「さて無滞出帆も相済み申し候、さりながら、始め御用状にも、品により焼打ち致すべしとの儀にも候へば、無事の出帆無慙なれど、全く両家時節を計り人数引き取り、火船等も相調はず、是非なき次第、御役所にては、かびたん内意より諸事手当て致し、在国在邑へ諸達し、それより台場備方、軍船手当、出帆浦触、その外一つとして、御手抜きはこれなく候へば、焼打ち致さざるは是非なき次第なりと諷諫いたし候へば」
上條はこう言ったのである。
「焼打ちができなかったのは無念であるが、両家(佐賀と福岡)が時節を計って人数を引き揚げており、火船も整わなかった。御役所としてはカピタン(ドゥーフ)の内意を受けて諸般の手配をし、諸藩への伝令、台場の備え、軍船の手当、出帆浦触(異国船が出航するから注意警戒せよ、と布告したこと)、一つとして手抜かりはなかった。したがって焼打ちができなかったのは是非なき次第である」、と。
これは奉行を慰める言葉である。と同時に、責任を図書頭一人に帰すべきでないとする諫めでもあった。そもそも、焼打ちができなかった最大の原因は、佐賀藩の警備兵が規定の千人どころか百人前後しか在番しておらず、福岡藩も非番で兵力皆無であったことにある。この責任の多くは両藩の怠慢に帰される筋のものであり、奉行一人に背負わせるべき失態ではない。
しかし、上條はこのとき、図書頭のうちに何かが変わりつつあることを感じ取っていたはずである。
だが、このときの図書頭にとって、上條の周到な整理はもはや届く言葉ではなかった。
これに対する図書頭の返答を、同じ箇所が伝える(436p)。
「その方万端骨折りなり、帰府の上は、御持御先手への転役と心得候なりと、頻りに御詫状を認められし」
御持御先手への転役とは、将軍の直接警護をするもっとも名誉ある役職である。表面上は感謝と昇進の約束である。
万事にわたって骨を折ってくれたことへの労い。そして江戸に帰れば上條を御持御先手という役職へ推挙するという意向。御持御先手とは、将軍直属の先手組に連なる役で、幕府職制のなかでは将来ある武官の栄誉ある転任先とされていた。上條にとって、これは具体的な転役の話として受け取られたであろう。だが、その口調は、つい先ほどまで楼上で見せていたあの姿とは、すでに別のものであった。
だが、この一言の中には、もう一つの響きがある。「帰府の上は」と言いながら、そこに語られているのは上條のことだけである。図書頭自身の帰府は、その言葉の中に含まれていない。
上條がその瞬間にそれを察したかどうかは、史料の伝えるところではない。後の章で触れることになるが、上條はこの日の深夜、図書頭の自害を家僕の呼び声で初めて知り、現場で「ハッと御用にも立てず」と共に落涙することになる(441p下段)。少なくとも史料に残る限りでは、この時の図書頭の言葉を遺言として受け取った形跡はない。しかし後日振り返れば、これが上條にとって最後に交わした本格的な言葉であった。
図書頭は続けて「頻りに御詫状を認められし」と記される(436p)。「頻りに」とは、しきりに、繰り返してという意である。単発の文書ではない。認め直し、書き直し、なおも手を入れ続けた形跡がここにはある。
これが何の詫状であったのか、史料は明言しない。だが文脈から見れば、江戸への注進状の一連のやりとりの中で、自らの失態を謝する性格の文書であったと見てよい。後に書かれることになる「五箇条の書付」(444p)──佐賀藩の警備空白を見抜けなかったこと、十五日夜の小艇三艘を見過ごしたこと、焼打ちを準備しながら兵数不足で実行できなかったこと、大村上総介の到着が間に合わなかったこと、そして「天下の恥辱を異国に見せてしまい申し訳なく」自害すると結ぶもの──この自刃の前に書かれた遺書的文書と、居間で「頻りに」認められたこの詫状とは、筆致のうえで連続している。楼上で吐き出された「今更後悔」は、居間ではすでに、書付として整えられ始めていた。
こうして西役所の奥で書状が認められているその間に、ようやく大村藩主大村上総介の軍勢が長崎に到着した。
「通航一覧」(439p下段)が引く或る書状にはこうある。「大村上総介、長崎到着は七つ過ぎ(15時)、奉行に挨拶の後(大村藩)お屋敷へ。先手の物頭の組は大波止で幕張して警備、頭役の者はすべて陣羽織野袴具足箱一つずつ、足軽や供廻りは半纏目印羽織野袴、上総介は上下、御供廻りは陣羽織野袴、御家老は馬上で陣羽織野袴、手廻り二十人余」
午後三時過ぎの到着。整った行軍はそのまま大波止に展開し、幕が張られ、警備の布陣が敷かれた。ただしこれは、異国船出帆の三時間後の光景である。
また大村藩主自身が江戸へ送った御届(440p上段)によれば、大村では「子の中刻(午前0時)」に図書頭からの出動命令を受け、「寅の刻(4時)」に時津へ向けて出船している。風波は強かったが押し渡り、午の刻(12時)に時津へ着船したところで、そこで「異国船焼打ちは中止のこと」を知らされた。着服を改めて未の刻過ぎ(午後2時過ぎ)に長崎蔵屋敷に到着し、それから御役所に図書頭と対談した、と自ら記している。すなわち大村藩の側から見れば、動員から到着まで、あたう限りの速さで事は運んでいた。ただ相手の方が速かった、というそれだけのことである。
この大村上総介と図書頭との対談の様子を、史料は簡潔に伝えるのみである。440p上段の大村藩自身の御届によれば、「それからお役所にて図書頭と対談、異国船出帆したので他に変わりはないと言われたので」御報告する、とある。
「他に変わりはない」──華麗な軍装と八千の兵を率いて駆けつけた藩主に対し、図書頭の応対はこの一言に要約される簡素なものであった。
この簡素さの中にあるものを、どう読むか。敗北の諦めとも、単なる虚脱とも見えない。楼上で飛び上がって涙を流した同じ人物が、わずか数時間のうちに、ここまで静かな態度で到着したばかりの藩主に応対している。この落差をどう読むか。敗北の諦めとも、単なる虚脱とも見えない。楼上であれほどの激情を見せた人物が、数刻ののちにこれほど静かな応対に移っている。この変化をどう理解するかは、もはや一つの方向を指しているように見える。
この決断が下された時点は、史料からは明確には特定できない。だが楼上の激情から居間での「帰府の上は」という言葉までの間に、その決断が成されたと見るのが、この日の図書頭の振る舞い全体に最も整合する読み方である。上條への推挙を口にし、居間に戻って頻りに詫状を認める。そのすべてが後の振る舞いと照らせば一つの方向に揃って見えてくる。
「逸機」とは、機を逸するの意である。この日、長崎奉行所は焼打ちの機を逸し、異国船を取り逃がした。しかし同じ日の同じ時間の流れのなかで、図書頭はもう一つの機を、静かに掴みつつあった。武士として責任を全うする、その機である。
楼上の激情から居間での静謐へと移っていくこの一日の流れは、外から見れば挫折と諦念の道行きに見える。だが史料を重ねて読めば、そこには人知れず、一つの決断が内側で進んでいた。
出航ののち、図書頭以下ははじめて鎧を解いたであろう。三日にわたる異常な緊張の張りがほどけ、日常の所作へと戻っていく。その静けさの中で、人知れず、それはもう内側で定まっていた。
そして陽が傾き、西役所には夕餉の支度が始まる時刻となった。