82 静謐

八月十七日(陽暦十月六日)の日没は午後六時である。その少し前、夕陽が稲佐山にかかる頃、長崎の港は異様な静かさから少しずつ平常に戻りつつあった。
小瀬戸の遠見番所が帆影は水平線から消えたと報告したのが申の中刻(午後四時)ごろである。警戒を続ける番船は港外の伊王島へ出向き、佐賀藩は「伊王嶋辺御番船航路相守罷在候段申上候」(通航一覧441頁)「伊王島あたりにおいて、御番船が航路を守って在る旨、申し上げます」と報告している。長崎の海上に、もはやフェートン号の影はない。
ここで一つ、史料が語らない場面を補っておかねばならない。
図書頭が具足を着けたのは、八月十五日であった。オランダ人二人が異国船に拉致されたとの急報を受け、商館長ドゥーフが奉行所に避難してきた時、図書頭はすでに甲冑で身を固めていた。ドゥーフはその姿を商館日記に「奉行は甲冑で身を固めており」と書き留めている(『長崎オランダ商館日記四』197頁)。以来、十五日の夕、十六日の昼夜、十七日の明け方の焼打ち準備、楼上からの出帆望見、楼を下って居間で受けた上條徳右衛門の諷諫――図書頭はこの二日二夜を、ずっと具足のまま通したと見るのが自然である。
だがその軍装を、いつ解いたのか。湯を使い、月代を剃り、髭をあたったのがいつのことであったか。史料は何も語らない。用部屋日記にも崎陽日録にもその記述はなく、誰一人それを書き留めなかった。
ただ、一つ手がかりがある。大村藩主大村上総介との対面である。前章で見たように、上総介は長崎蔵屋敷で着服を改め、麻裃へ着替えたうえで西役所に進んだ。藩主自身がそう江戸へ届け出ている。若い藩主は、異国船出帆の後と知って、長崎奉行を幕府の正式な代表者として迎えるための装束に改めたのである。
この上総介の麻裃と、図書頭の側の装束との間には、どうしても整合がなければならない。藩主が平時の正装で挨拶に来るのに、奉行が二日二夜身につけたままの具足でこれを迎えるということは、まず考えにくい。上條徳右衛門が「丁寧信謹かくの如き人を見ず」(『用部屋日記』、『通航一覧』巻259、441頁下段所収)と評した、ことに儀礼に厳しいこの人物であってみれば、なおさらである。とすれば、上総介到着の午後三時過ぎより前のどこかで、図書頭は軍装を解いていたと見るほかない。
その間のどこかに、湯殿があったであろう。鎧下を脱ぎ、二日二夜の汗を流し、月代を剃り、髭をあたる――奉行としての形を整え直す、ごく短い時間が、この日の午後のどこかにあったはずである。具足はおそらく小姓たちの手で居間の隣の小部屋に運ばれ、紐は解かれ、籠手と臑当は外され、胴は綿密に拭われ、櫃に納められたであろう。鎧櫃の蓋が閉まる音は誰も書き留めていないが、確かにこの日の午後の長崎奉行所のどこかで、その音はしたはずである。
大村上総介が麻裃で奉行所に進み、書院で挨拶を述べたとき、上座の図書頭はおそらく既に平服に戻っていた。それは、戦時から平時への、奉行その人における切り替えであった。
だが、この日の長崎の町の様子を伝える史料は、驚くほど少ない。
史料というものの性質を、ここで一度立ち止まって考えておきたい。通航一覧、崎陽日録、用部屋日記、いずれも事件が起こったこと、何かが動き出した発端は丹念に書き留める。誰が誰に何を命じ、どの船がどう動き、どの聞役がどの書付を差し出したか――そういう「事件の発端」については、これらの史料は驚くほどの精度で記録している。だが、その後の結果については、ほとんど語らない。どの命令がどう実行されたか、どの動員がどこまで結着したか、そして何より、騒動の後の町に人々がどう戻り、どう日常を取り戻していったか――そういう「日常へ還る出来事」は、史料の関心の外にある。記録は、非常時の鼓動を刻むためにある。鼓動が止んだあとの静けさを刻むためのものではない。
それでも、わずかな手がかりは残されている。
崎陽日録(39頁)は、その時刻の様子を簡潔に伝える。小瀬戸の遠見番所から帆影についての注進が届いたあと、奉行所は諸家一同を呼び出し、異国船帰帆の旨をそれぞれの持ち場へ達するよう命じた。
「帆影見え隠れ候付、此度貸刀差遣し候もの共、明日より雛形の通り可相心得旨申渡され、人々安堵の思ひをなし、諸向け帰宅引揚之旨注進申来る」(崎陽日録39頁)
この一文には三つの事実が含まれている。異国船警戒のために奉行所が貸し出していた刀は、明日より平常の扱いに戻すと通達された。その通達を受けて「人々安堵の思ひをなし」とある。そして各持ち場に詰めていた者たちが帰宅・引き揚げを始め、その旨の注進が次々と奉行所へ届いた。
それ以前の二日間、長崎の市中がどれほどの混乱にあったかは、視聴草(通航一覧巻258所収、426頁)が伝えている。
「長崎中は、右之混雜にて、只今にも異國人致上陸候儀と申觸候に付、旅人は我先と逃行、田舍よりの奉公人も追々逃歸り、此一兩日は市中肴類も賣行不申、能賣捌候者、蝋燭并草鞋にて御座候」
十五日夜以来、長崎市中には「異国人がただちに上陸する」との風聞が広がり、旅人や奉公人が逃げ出した。魚の売買も止まり、この二日間によく売れたものは灯のための蝋燭と逃げるための草鞋だけであった。賑わいで知られた長崎の町が、たった二日のあいだに何を奪われたかを、これ以上に端的に伝える一文は他にない。
一方、奉行所の小部屋に避難していたドゥーフもまた、この日の午前を西役所で過ごしていた。商館日記十月六日条(218頁)は、その視点から出帆の瞬間を伝える。「十時頃になおもう一度、検使たちの委員団が、イギリス船長に、彼が速やかに沖に出て、再び戻って来ることのないようにと言うため、船に向かって出発した。しかしこの委員団が乗船する前に、例の船は錨を上げ、そして出帆するのを私は目撃した」。
ドゥーフは続けてこう記している。「このことは私にとっては特に喜ばしいことであった」。船の出帆によって流血が回避され、もしも攻撃が行われていればオランダ人がその責めを負わされていたであろう、と省みて、「全能の神にこの事件が幸運な結果に終ったことに感謝した」と書いた。図書頭が楼上で「飛上り飛上り殘念がり」、歯を食いしばって涙を流していたまさにその時刻、同じ奉行所の別室で、ドゥーフは静かに胸を撫で下ろしていた。互いの立場の違いを残酷なほどに照らし出すこのコントラストは、しかしまだ、二人とも知らずにいた。この日の終わりに何が起こるかを。
ドゥーフが奉行所を出て出島へ戻ったのは、午後二時のことであった(商館日記219頁)。出島の見張りに当たっていた上席町年寄高島四郎兵衛にも改めて謝意を伝え、「当地出島では、失なわれたものは皆無であった」と述べている。

この一言は、見過ごしやすいが、注目に値する。異国船が港内に居座り、奉行所が戦時体制を敷き、市中では草鞋と蝋燭だけが売れた二日間、出島のオランダ商館は日本人の管理下に置かれたままであった。その間、商館の財物から帳簿の一枚に至るまで、何一つ失われなかった。ドゥーフはそれを確かめずにはいられなかったが「皆無であった」。
ヨーロッパ人の目には、それは驚くべき日本人のモラルの高さであり、現代の日本社会にも通底するものである。
同日の夕刻、「水門の内側に据えられていた二門の小型加農砲が取り去られ、そして町年寄高島四郎兵衛様も自分の側近く従えていた武装した下検使たちとともに出島から退去した」。前夜まで出島の水門際で異国船の襲来に備えていた火砲が、車に乗せられて引き取られていく。長崎の町から、戦時の輪郭が一つずつ片付けられていった夕暮れであった。
通航一覧はこう伝える(443p上段)

「文化五年八月、或風説書或家之長崎詰聞役より之書状なるへし、

一八月十七日御奉行所には、早速江戸御屆之宿次被差立、諸首尾相濟檢使兩人を被呼出、 其方共儀、此節紅毛人取返し來候儀は、誠に勇々敷事に相見候、一旦被奪取候事は不意之儀に而、越度とも難被申、右樣嚴重之備有之異國船え、少人數に而再往差向ひ、無難に紅毛人取返し來候儀、具に及言上候間、必心得違等致間敷候段被申渡候由、」。

江戸への急報の宿次が差し立てられ、諸方面への引取の沙汰がひととおり済んだ頃合いを見計らって、図書頭は検使両人を居間に呼び出させた。菅谷保次郎と上川伝右衛門である。
宿次(しゅくつぎ、宿継とも書く)とは、宿場ごとに人馬を継ぎ替えながら幕府の急報を昼夜兼行で送り継ぐ制度であり、長崎を発した異国船到来の急報もまた、この飛脚によって江戸へ向けて疾走していた。
二人は、十五日の夕、オランダ人を奪われた失態を奉行所最奥のこの居間で激しく罵倒された当人たちであった。
「卵を岩に投げるに等しき」中山作三郎の必死の諫言が上條徳右衛門を介して図書頭に届き、図書頭は二人を異国船へ再度差し向ける危険な命令を撤回した。とはいえ二人にしてみれば、奉行の声高な罵倒の言葉、「即刻立ち戻り取り返すべし」「潔ぎよく打ち向かい死力を尽くして取り戻すべし」という命令はそのまま胸に突き刺さったままであったろう。十六日には水船野菜を異国船へ届ける検使役を再び勤め、ホウセマンとシキンムルを取り戻すべく奔走し、十七日には出帆を申し渡す検使として中村次次郎とともに本船まで赴いた。役目は全て遂げたが、二人の胸中にはあの夜の罵倒が消えなかったに違いない。
居間に進み出た二人に、図書頭は静かに口を開いた。
「その方ども、よく聞け。この度、紅毛人を取り返して来た儀は、誠に勇々しき事に相見える。一旦奪い取られた事は不意の出来事であり、越度とも申し難い。あれほど厳重なる備えのある異国船へ、少人数で再三差し向かい、無難に紅毛人を取り返して来た儀、つぶさに江戸へ言上に及ぶつもりであるから、必ず心得違いなどいたすまじき」(「視聴草」437p)
これは罵倒の落とし前であった。十五日の夕、奉行は二人を「公禄を賜う身でこのていたらく、西国諸藩の前にこれほどの恥があろうか」「なんと言う恥知らずな言い訳か」と面罵した。あの言葉は確かに激しすぎた。だが図書頭にしてみれば、地役人を率い武人として戦わねばならぬあの瀬戸際で、検使二人の弁明の情けなさが許容を超えたのである。罵倒は心の底からのものであった。
しかし今、出帆が成り、諸首尾が相済んだこの時、図書頭は罵倒の言葉を撤回したのではない。罵倒は罵倒として残しつつ、その後の二人の働き――異国船との水食糧の取引、ホウセマン・シキンムル取り戻しの折衝、出帆申し渡しという危険な検使役――これらを別個の功として正当に評価し、江戸への報告にもそのように記すと約束したのである。「越度とも申し難い」という言葉は重い。それは公的な評価の表明であり、二人の名誉を奉行の権限において回復させる宣言であった。
二人は深く頭を下げて居間を退出したであろう。あの夜の罵倒の傷を、奉行はこの一言で塞いでくれた。だが二人はこの時、まさかこの労いの言葉が図書頭からの永の別れの言葉になろうとは知る由もなかった。図書頭の腹はすでに決まっていたのである。
検使両人が退出すると、図書頭は「少し物静かに相成った」(「視聴草」437p)と記されている。罵倒の落とし前をつけ終えたことで、奉行の中で何かが片付いたのであろう。
その同じ夕刻、奉行所の御用の間では、別種の作業がただ一人、進められていた。
幕府への報告書である。
長崎奉行というのは幕府の遠隔の出先に過ぎない。長崎で起こったことのすべては、江戸の老中へ言上され、判断はそこで下される。異国船渡来の初日に、図書頭は江戸への第一報を発している。だが、それは事件の発端を伝える急報に過ぎなかった。今、図書頭が認めねばならないのは、事件の総体の始末――異国船はなぜ侵入したのか、オランダ人はどう拉致されどう奪還されたのか、なぜ焼打ちは実行できなかったのか、そして異国船はいかにして出帆したのか――その一切を、幕閣に対して明らかにする報告書であった。
後に長崎発の宿次書状はこう伝えている。「松平図書頭殿御事、当月十八日の朝までに異国船出帆の御用向の御取調相済み、総体の始末を言上、ならびに帆影見隠の注進、その他御届書までもお仕舞いになり、大早の宿次を差し立てられたる」(通航一覧、八月二十七日長崎出宿次書状)。十八日朝までに一切の調書が整い、最速の宿次飛脚で江戸へ発送された、という。逆算すれば、十七日の夕刻から夜半にかけて、図書頭は報告書の執筆に没頭していたことになる。

報告書の執筆は、ひとり図書頭の手だけで進められたわけではない。明日江戸へ差し立てる御用状の取調掛として、手附の熊谷興十郎が呈書の間で書面を認めていた。同じ時刻、図書頭の居間では上條徳右衛門が旧記を見合わせていた。その作業のさなか、突然のことであった。

「異船出帆も相濟明日差立候御用状、取調掛り手附熊谷興十郎、於呈書之間相認め、於居間者徳右衛門舊記見合罷在候處、奉行忽ち筆を置、徳右衛門の前に来り、膝を押へ不思議の縁でと計にて平伏落涙、徳右衛門儀も、はつと計り、御用にも立不申と言も畢らす胸塞かり、共に落涙數行、異船打洩したる残念徹骨髄、一身焼かこさし」(『通航一覧』巻259・440頁下段所収『用部屋日記』)

図書頭は突然筆を置いた。立ち上がり、旧記を見合わせている徳右衛門の前に進み出て、その膝を押さえた。そして「不思議の縁で」とだけ言って、平伏して泣いた。徳右衛門は「はっ」とのみ答え、「御用にもお立て申せず」――その一言も終わらぬうちに胸が塞がり、ともに涙を流した。異船を打ち洩らした無念は骨髄に徹し、わが身が焼かれるが如しであった。

「不思議の縁で」、何の縁を、この時の図書頭は思っていたのであろうか。徳右衛門は図書頭の家来ではない。長崎奉行に赴任する図書頭の右腕として、幕府が随伴させた人物である。二人の結びつきは私的な主従によるものではなく、幕命がたまたまこの二人を長崎で引き合わせた、その巡り合わせを指して「不思議の縁」と図書頭は言ったのである。
徳右衛門もまた泣いた。「御用にもお立て申せず」。
この言葉が示すものは何か。
彼は十五日の夜、図書頭が検使二人を異国船に再度差し向けようとしたとき、中山作三郎の必死の諫言を取り次ぎ、また十七日の早朝、楼を下る奉行の跡について居間まで進み、焼打ちが叶わぬ次第を諷諫した者である。
御用には十分立っていた。それでもなお「お立て申せず」と彼が言ったのは、結局のところ異船を打ち洩らしたことの責が、奉行ひとりに帰せられてしまうこの事態への無力感ゆえであろう。

ふたりはこの時、互いに何を察していたのか。徳右衛門の側に、奉行の腹がすでに決まっていることへの察知があったかどうかは、史料は語らない。ただ「一身焼かこさし」、身が焼かれるが如し、と書き留めた徳右衛門の筆は、後日この一日を回想して書いたものである。そこに、何かを書き残さずにはおれぬ思いが滲んでいることは、字面の重みとして読み取れる。
風説書もまた、同日の奉行所の様子をこう書き留めている。「八月十七日、御奉行所には、早速江戸への御届の宿次を差し立てられ、諸首尾相済み」(通航一覧、ある風説書)。「諸首尾相済み」――その一語に、奉行所内のあらゆる処理が、図書頭の手で締めくくられていったこの夕刻の気配が籠もっている。
なぜ図書頭は、これほどの速さで報告書を仕上げねばならなかったのか。
通常、これほどの大事件であれば、報告書の作成には数日を要したであろう。関係者から事情を聴取し、各部署からの報告を突き合わせ、文章を練り上げる。だがこの夕刻、図書頭はそのすべてを一日で済ませようとしている。書院で大村上総介に向き合った「他に変わりはない」の素っ気なさは、もしかすると、彼の意識がすでにこの報告書執筆へと収斂し始めていたことを示していたのかもしれない。長崎で起こったことの一切を、自らの手で江戸へ送り届けてから、然るのちに――その手順が、彼の中で動かしがたいものとして固まりつつあった。
夕餉の支度の音が、台所のほうから聞こえ始める。町の方からは、もう半鐘の音はしない。出島の水門の加農砲は、すでに引き取られた。地役人の帯刀解除は伝えられ、家々の灯が、ぽつりぽつりと町に戻り始めている。

フェートン号は、すでに長崎の南西海上を帆走していた。
航海日誌によれば、この日の正午には港外へ出ており、東北東の風を受けながらマカオへ向けて南下を続けている。
英艦では真夜中に日付が改まる。その頃には、艦はすでに長崎から二百キロ近く離れていたはずである。長崎で積み込んだ清水と新鮮な肉の支給も、始まっていたであろう。

上部へスクロール