83 昇天
文化五年八月十七日、申の刻過ぎ。長崎奉行所西役所では、大村上総介との対面が終わり、上総介はお屋敷へと引き取っていた。図書頭は居間に戻り、なお筆を執っていた。「頻りに御詫状を認められし」と『崎陽日録』が記すその書付は、まだ整っていなかった。
しかし夕餉の支度が始まる時刻になると、図書頭はいったん筆を置いた。
「通航一覧」はこう記す(441p)。
「十七日之夜者、毎之如く夜食濟て、四ツ時過まても酒宴あり、醫師側向之者共へも肴なと賜り、例より一段機嫌も宜しく、四ツ時過る頃皆暇給りぬ」
「毎の如く」――いつものように、である。夜食を済ませ、四ツ時過ぎ、すなわち午後十時過ぎまで酒宴があった。医師や近習の者たちへも肴を与え、いつもよりやや機嫌が宜しく、四ツ時過ぎる頃、皆お暇を賜って退出した。
この記録の書き手は上條徳右衛門である。図書頭の傍に最も近く仕え、この夜も同じ卓に侍っていた人物の証言である。徳右衛門がここに書き留めたのは、ごく普通の一夜であった。「例より一段機嫌も宜しく」――この一語が後から振り返ったときに重く響くのは事実だが、その夜の徳右衛門にはこれは平穏な夜の終わりにしか見えなかった。
ここに「いつも通り」を演じる作為があったとは読めない。これまでの章で見てきた通り、図書頭は酒を好み、夜ごとに近習を呼んで温公の『資治通鑑』を輪読し、議論が長引けば叱り、笑い、手附給人にも酒食を賜る人であった。八月十七日の夜の酒宴は、長崎在勤中の図書頭にとって何ら異例のものではなかった。異例であったのは、その夜が彼の最後の夜であったということだけである。
宴のかたわら、図書頭はもう一つの務めを果たしていた。
風説書はこう記す(259-260巻第41段)。
「八月十七日御奉行所には、早速江戸御届之宿次被差立、諸首尾相済、検使両人を被呼出、其方共儀、此節紅毛人取返し來候儀は、誠に勇々敷事に相見候、一旦被奪取候事は不意之儀に而、越度とも難被申、右様嚴重之備有之異国船え、少人数に而再往差向ひ、無難に紅毛人取返し來候儀、具に及言上候間、必心得違等致間敷候段被申渡候由」
江戸への宿次は、すでに差し立てられていた。事の首尾は処理が済んだ。図書頭はこの宴の前後どこかで、検使両人ホーゼマンとスヒムメルの奪還にあたった菅谷保次郎と上川傳右衛門)を呼び出し、こう申し渡している。
このたび紅毛人を取り返してきたのは、まことに勇々しいことに見える。一旦奪い取られたのは不意の出来事であって、落ち度とは申されにくい。あれほど厳重に備えのある異国船へ、少人数で再三差し向かい、無事に紅毛人を取り返してきたことは、つぶさに幕府へ言上するつもりであるから、決して心得違いなどしてはならぬ。
検使たちは事件の当初、英船に対峙したた際、二人の紅毛人を奪われたまま帰役した者たちである。その不手際は、五ヶ条の遺書の第一条が「日本之恥辱」と書く、まさにその対象であった。ところがその彼らに対して、図書頭はいま「越度とも難被申」、落ち度とは言えぬ、と申し渡している。そして、奪還の働きを幕府へ報告するから、心得違いをしてはならぬと念を押している。
「心得違い」とは、自分たちが処分の対象になると思い込むことを指す。図書頭は、検使たちが自身を罪に問わぬよう、そして取調べの場で動揺せぬよう、自ら一言釘を刺したのである。
事件の責任は、自分一身で引き取る。検使たちには罪を及ぼさせない。江戸への注進にはその旨をすでに書き込んだ。この一連の処置を済ませたうえで、図書頭は彼らを下がらせた。
風説書は続けて、「其後者少し物静に相成候に付、舊臣一両人呼寄、今宵者餘り月も晴やかに候間、密に月見之酒宴可相催とて、暫物語なと有之、最早及深更候哉、可致休息旨被申付、引取候末四ツ半時頃」とある。
検使を下がらせたあと、図書頭はやや物静かになり、旧臣一両人を呼び寄せた。
この「旧臣一両人」が誰であったか、史料は明記していない。しかし、図書頭の最終局面に同席し得る立場、さらに後日の処断との関係を考えるならば、髙橋忠左衛門・木部幸八郎の両名を思わせる。
後に幕府はこの二人を単なる側近としてではなく、「図書頭を輔弼すべき立場にありながら、それを果たせなかった者」と見ていた。その意味で、この夜の「旧臣一両人」の中に両名を重ねて見ることは、決して不自然ではない。
「今宵は月もあまりに晴れやかであるから、密かに月見の酒宴を催そう」――そう言って、しばらく話などをした。やがて深更に及んだので、休息するように申しつけ、彼らを下がらせた。
文化五年八月十七日は、陽暦に直せば十月七日、月齢十六。前夜が満月で、その翌晩である。長崎港の上空、九月の名月のなお冴える月光が西役所の庭を満たしていたであろう。月見の宴という言葉に演出を読み込む必要はない。前夜の十五夜は、まさにフェートン号が港内に押し入った夜であり、月を愛でる余裕などはなかった。一夜遅れて、本来の十六夜の月を、限られた者だけで静かに眺めたのであった。
ただし「密に」という一語は注意を引く。
公の宴ではない。先ほどの夜食を兼ねた酒宴とも別である。検使たちを下がらせ、医師も近習もすでに退出したあと、残った旧臣一両人だけを呼んでの、ごく内輪の盃である。
長崎着任から、まだ一年余であった。
この「密に」のなかには、図書頭が一年余の長崎在勤の最後に、ごく親しい者と過ごす時間を自ら整えていた気配がある。
しかし、そこにも仰々しさはない。「暫物語など有之」――しばらく語り合った、と書かれているだけである。何を語ったかは記録されていない。やがて深更に及ぶ。図書頭は彼らに、もう休むようにと申しつけた。
ここまでが酒席である。
旧臣たちが退いたあと、図書頭はようやく一人になった。
「通航一覧」(443p)はこう記す。下段
「御用之間え被入、御隠密之御用直筆に被認候と申事に而改服有之、暫何歟認物被致候故、近習小姓も例之詰所に相控候處、餘り長き認物故」
御用之間に入り、御隠密の御用を直筆で認められるとのことで、着替えがあった。しばらく何やら認め物をしておられたので、近習・小姓も例の詰所に控えていたところ、あまりに長い認め物であるため・・・。
この一連の動作には、乱れがない。
御用之間に入る、というのは、正式な御用を執るための場所への移動である。直筆で書く、というのは、自分の手で書くということだが、ここでは奉行所の公的な書記の手を借りない、ということを意味する。すなわち、これは奉行が私的にではなく、奉行という公の立場で、しかし他の誰の手も介さずに書く文書である。
着替えがあった、という一句も重要である。「改服有之」、何の服に改めたかは記されていないが、御用之間で公式の書付を認めるための装束に整え直したのである。普段の在宅着のままで御用を執ることはしない。
近習・小姓を例の詰所に控えさせる、というのも、御隠密の御用を執る際の通常の形である。御用之間のすぐ脇に侍わせるのではなく、別の控所に退かせ、呼べばすぐに動ける距離を保ったまま待機させる。書付を見られぬよう、また認め物の最中に立ち入られぬよう、一定の距離を置かせるのである。この距離は、図書頭の側からの指示であった。
「あまりに長い認め物であるため」、近習たちはそう感じた。御隠密の御用が長くかかること自体は異例ではない。が、それでも長すぎる、と感じるほどに長かったのである。
一方、「通航一覧」441pの用部屋日記と思われる記事には、別に作成されていた公式の御用状について、次のように記されている。
「異船出帆も相済、明日差立候御用状、取調掛り手附熊谷與十郎、於呈書之間相認め」
これは、フェートン号出帆後の経緯を江戸へ報告するための、公的な処理文書である。取調掛り手附の熊谷與十郎が、呈書之間において作成していた。
したがって、御用之間で図書頭自身が直筆で認めていたものは、これとは別である。
図書頭がそこで整えていたのは、自らの責任を述べる五ヶ条の書付と、さらに自刃の意を江戸へ告げる注進状であった。
通航一覧440pはこの夜の出来事を、一行に要約する。
「此夜、奉行松平図書頭、江戸注進状及び五ヶ條の書付を書し、遂に自盡す、こは異船所置の無状たるを謝し奉るなり」
「異船所置の無状」――異国船への処置が無様であったこと、それを将軍に謝するために自盡した、と編者は記している。
五ヶ条の書付は、通航一覧259-260巻の第44段から第48段にその全文が伝わる。それぞれの条を一つずつ見てゆけば、図書頭がこの夜、何を書こうとしていたかが見える。
「第一条 旗合(はたあわせ)の節、紅毛人両人を奪い取られたのをそのまま渡し置き、検使が一旦御役所へ引き取った事は、甚だ柔弱な取扱いをいたしたことで、日本の恥辱と相成る。畢竟、家来が臆病と申すうち、主人が常々申しつけ様不行届、今更公儀の御威光を穢し、申し訳なく恐れ入り奉る趣、一ヶ条。」
検使たちの不手際は、家来が臆病であったことに帰着するが、その家来の不行届は、主人すなわち自分の日頃の指導が至らなかったゆえである、と書いている。さきほど検使両人に「越度とも難被申」と申し渡したのと、この記述とは矛盾しない。検使個人の罪は問わぬ。その不手際の責任は、自分が日頃彼らをしかるべく指導しなかったことに集約される、そう書くことで、図書頭は責任を自分一身に引き取っている。
「第二条 十五日の夜、端船にて異国人が港内へ乗り入れた儀は思いがけぬことで、もっぱら陸手の備えにのみ深く着目し、沖から理不尽にこのような仕業があろうとは心づかず、肥前両御番所において、「万一そのようなことがあれば防ぎ留めるように」との別段の指示もそのままに差し置いた段、油断の至り、と申す一ヶ条。」
ここでも、両御番所――佐賀藩の戸町・西泊番所――の備えが不十分であったことを佐賀藩の落ち度として責めるのではなく、奉行として「防ぎ留めるように」との指示を別段に下さなかった自分の油断、と書いている。
「第三条 十五日は月の晴れた夜で、異国人の端船三艘が両御番所前を通過した儀、実は佐賀の番衆が見分していたが、結局、詰めの人数が少なく、遮って留めることができずに見流したという。今年は紅毛船も参らぬと心得て内々佐賀へ引き取り、両御番所の人数はわずか四、五十人ほどしか詰めていなかった。所詮三艘を防ぎ留めることは無理と見逃した、というありさまが既に明らかになった。御番所の定法の人数もあるところ、佐賀が不埒であると申すうち、奉行としては内々の見聞役も付け置き、内糺を致すべきところ、両番所が空虚に及んだ儀、佐賀の不調法とは申しながら、奉行より内改めもなく、肝要のところを外し、今更不念の至り、と申す一ヶ条。」
これが五ヶ条のなかでも最も重い条である。佐賀藩の番所無人は、長崎警備の根本にかかわる重大事であった。にもかかわらず、図書頭はその責任を佐賀藩に押し付けない。佐賀の不調法であることは認める。しかし同時に、奉行として内偵を行い、両御番所の実態を把握しておくべきところを怠った、それは自分の不念である、と書いている。
「第四条 異国人より法外な横文字を差し出し、不届至極であるので、焼き討ちの手当てを佐賀・福岡へ申し渡したところ、人数の到着がなく、是非に及ばず、紅毛人より穏便な取り計らいを願うままに、やむなく薪水・米・野菜などを与え、紅毛人からも牛二疋ならびに豚などを差し送らせて、彼方より焼き討ちなどせぬよう取り鎮めた儀、畢竟、人数不足のゆえ、和平に取り扱いいたした段、不調法、申し披きなき次第、と申す一ヶ条。」
焼き討ちを断念して薪水を与えたこと。これは、ドゥーフに諭され、また現実の戦力差から見てもやむを得ない選択であった。しかし図書頭はそれを「和平に取り扱いいたした段、不調法」と書く。「申し披き(ひらき)無き」、言い訳のしようもない、と書く。
「第五条 大村上総介がいま二時(4時間)ばかりも早く到着していたならば、申し談じて、御役所の人数ならびに地下役人ども、または諫早播磨の人数を取り合わせたならば、ともかく焼き討ちが仕れるところ、佐賀の人数が間に合わず、上総介の到着が遅参であったわけではないが、時間が延びて異国船が出帆した儀、残念至極に存じ奉る。これにより、今後、長崎奉行の儀は、できる限り大身を選びにて仰せつけられたく、と申す一ヶ条。」
大村上総介の到着については、「遅参であったわけではない」と明記している。大村は責任を負うべきではない、と書いている。しかし時間が延びて異国船を取り逃したことは事実であり、これは残念至極であった、と。そしてこの結語、「向後、長崎奉行の儀は、折角大身御選み被仰付度」、すなわち今後、長崎奉行はできる限り大身の旗本から選んでいただきたい、という建議で五ヶ条は結ばれる。
これは、長崎警備の根本問題への提言である。
長崎奉行は、配下に直接動員できる武力を持たない。警備は佐賀・福岡など外様の大名に依存している。その大名たちは、奉行の指示に対して常に十全に応じるとは限らない。佐賀の番所無人がまさにその構造的弱点を露呈した。だからこそ、奉行職そのものを大身に格上げして、警備諸藩への発言力を強化していただきたい。
図書頭はこの夜、自身の死を以て、この提言を江戸に届けようとしていた。
五ヶ条のすべてを通じて、図書頭は他者の責任を最終的に自分一身に引き取る論理で書いている。
検使も、佐賀も、大村も、最後はすべて、「奉行としては……べきところ」「奉行より……もなく」「主人(=自分)が常々申しつけ様不行届」という形で、、他者の落ち度を図書頭一身の責として引き受ける文面になっている。
冒頭の楼上の落涙、「小身にて箇様なる重き御役職御請申上候段、今更後悔被申」、この嘆きを書付の文体に翻訳すれば、第五条の「向後、長崎奉行の儀は、折角大身御選み被仰付度」となる。落涙の中身は、いまや幕閣への建議として整えられていた。
そのなかには、自刃の意を江戸へ告げる内容も含まれていたと思われるが、文面そのものは残されていない。
だが通航一覧第26段の「異船所置の無状たるを謝し奉るなり」が、その趣旨を要約している。
「あまりに長い認め物であるため」、近習たちはついに様子を伺った。しかし、御用之間には、すでに図書頭の姿はなかった。
「通航一覧」(443p)は、襖を開けた瞬間の情景をこう伝える。
「襖を明け伺之處、被打倒候を引起し候得者」
襖を開けて伺ったところ、打ち倒れたのを引き起こすと、
ここから先は、上條徳右衛門が同夜のうちに駆けつけ、その目で見届けた光景である。
「通航一覧」(442p)が、その場面を書き残している。
「居間の先、鎮守の手前、生垣の際に毛氈を敷、臍下一文字に薄く引、鍔元迄喉をさし通し、遖れ(あっぱれ)の御生害」
居間の先、鎮守の社の手前、生垣の際に毛氈を敷き、臍下を一文字に薄く引き、鍔元まで喉を刺し通した、見事な御生害であった。
この一段は、徳右衛門の手による証言として、当時の武士社会において切腹の作法を見届け得る者の筆によって書かれている。一つ一つを読み解けば、図書頭がこの最後の段取りをも自分の手で整えていたことが見える。
毛氈を敷いた場所は、居間の先の鎮守の社の手前、生垣の際である。屋内ではない。家士たちに穢れを残さぬための場所選びである。鎮守の手前というのは、奉行所の鎮守の社を背に、それを拝するような向きであろう生垣の際、すなわち目立たぬ位置を選んでいる。人目の中心からは外しながらも、近習たちが見回れば必ず気づく場所であった。
毛氈は、血が下にしみ通らぬよう敷かれている。畳や地に血を残さぬための、武士の作法であった。
「臍下一文字に薄く引」、臍の下を一文字に、しかも薄く引いた。深く切らず、表層を浅く一文字に切るのは、痛苦に動揺せず作法に従う者の引き方である。
「鍔元迄喉をさし通し」、そののち、自身の脇差を喉に当て、鍔元まで突き通している。これは介錯人を立てぬ場合の作法であった。腹を切ったのち自ら頸動脈を絶って絶命を確実にする。介錯を頼らぬ覚悟と、絶命の作法を自身で完結させる意志とが、ここに示されている。
「遖れの御生害」。「遖れ」は「あっぱれ」である。徳右衛門は、これを見て「あっぱれ」と書いた。武士の作法を熟知した者が、目の前の最期を「あっぱれ」と書く重みは、現代の読者が思うよりはるかに大きい。
「通航一覧」は続けてこう記す。
「最早魂氣も絶ぬれは、忠左衞門、幸八郎一同立合、御劔をは渡邊平藏拔取といへとも、固く握りて御指一本つゝ放して漸く拔く」
もはや魂気も絶えていたので、高橋忠左衛門・木部幸八郎一同が立ち会い、御剣を渡邊平蔵が抜き取ろうとしたが、固く握っていたので指を一本ずつ放してようやく抜いた。
立ち会ったのは、高橋忠左衛門と木部幸八郎、松平家の家老と筆頭用人と渡邊平蔵である。
剣は固く握られていた。指を一本ずつ放してようやく抜き取れた、という記述は、絶命の瞬間まで剣を保持していたことを示す。最後まで剣を手放さなかった、という事実そのものが、この最期の質を物語っている。
「血は流て下衣を染め、氈上に滿つ、趺座して生るか如し」
血は流れて下衣を染め、毛氈の上に満ちた。趺座のまま、生きているように見えた。
趺座は、あぐらに似た正座の姿勢である。武士が切腹の際にとる定型の座り方であり、その姿勢を絶命の後も保っていたということは、最後まで姿勢が崩れなかったことを意味する。前のめりに倒れていない。横にも倒れていない。座したまま、生きているように見えた。
徳右衛門の「生るか如し」生きているように見えた、の一語に、見届けた者の畏れに似た感慨が込められている。
これらの記録の一つ一つは、徳右衛門の側からの誇張ではない徳右衛門は、武家社会の人間として、切腹というものの意味を知る立場にあった。その彼が、この最期を「あっぱれ」と書き、「生るか如し」と書いたのである。
ある藩の長崎詰め聞役の書状にも、これとよく似た印象が記されている。
「四ツ半時頃、御奉行松平図書頭殿被遂切腹候よし、至而悠々しき御生害にて被在候由之内沙汰に御座候、歳四十一歳之由に御座候」(通航一覧443p)。
四ツ半時頃、すなわち午後十一時頃、御奉行松平図書頭殿が切腹を遂げられたとのこと、きわめて悠々とした御生害であったとの内沙汰である、と。
「悠々」とは、慌てず、騒がず、落ち着き払った様子をいう。
徳右衛門が「あっぱれ」「生るか如し」と記し、別系統の書状がまた「悠々」と伝えている。互いに直接結びつかぬ史料でありながら、図書頭の最期について、共通した印象を残しているのである。
「通航一覧」(442p)は、徳右衛門自身がこの急報を聞いた瞬間を書き残している。
「同夜者、館内市中もひつそりして始て寐たり、予も始て下宿し、食事畢りやく暖氣を覺え、机により臥ともなく其まゝ寐たり、家僕等其上へ蚊帳をかけたるも、我はしらすに思ふ内、夜半頃か田邊兎毛玄關よりかけ込、殿樣御生害と泣きさけひ、御存しなきやと後ろより呼立ぬ、たゝ忙然と夢さめて、不辨東西、うつゝにはせて行てみれは、居間の先、鎭守の手前、生垣の際に毛氈を敷、臍下一文字に薄く引、鍔元迄喉をさし通し、遖れの御生害、最早魂氣も絶ぬれは、忠左衞門、幸八郎一同立合、御劔をは渡邊平藏拔取といへとも、固く握りて御指一本つゝ放して漸く拔く、血は流て下衣を染め、氈上に滿つ、趺座して生るか如し、可憐此日いか成日そ、天此英維を惜まざる」
同夜は館内・市中もひっそりと寝静まり、徳右衛門も初めて下宿し、食事を終えてやや暖気を覚え、机に寄りかかってそのまま寝てしまっていた。家僕がその上に蚊帳をかけたのも知らずにいたところ、夜半頃か、田邊兎毛が玄関から駆け込んできて、「殿様御生害」と泣き叫び、「御存じないか」と後ろから呼び立てた。
ただ茫然と夢から覚めて、東西もわからず、現に走っていって見れば・・・
この一段の徳右衛門の混乱は、彼自身がまったく予期していなかったことを示している。「いつも通り」の夜の終わりに、徳右衛門もまた、いつも通りに眠ろうとしていたのである。
「可憐此日いか成日そ、天此英維を惜まざる」
哀れむべし、この日はいかなる日ぞ。天は、なぜこの英邁な人物を奪ったのか――徳右衛門はそう書いて、この段を結んでいる。
しかし、図書頭が倒れたあとも、長崎奉行所の御用は直ちに次へ引き継がれねばならなかった。
御黒印・御下知書(長崎奉行が公的に保持する将軍からの正規の任命状)は、高橋忠左衛門・木部幸八郎・上條徳右衛門の三人によって、居間において、もう一人の長崎奉行である曲淵甲斐守へ引き渡された。
長崎奉行は二人制で、一人が長崎に在勤し、もう一人が江戸に在府する体制であった。曲淵は、その図書頭と交替で長崎勤務に入る奉行である。
甲斐守は、図書頭自刃ののち、ようやく長崎へ参着したばかりであった。曲淵自身も、旅中に急報を受けて、赴任の旅を急いだのである。
この引継ぎもまた、図書頭が整えていた段取りに従ったものであったろう。御黒印は、奉行が一身で預かる公儀権限の象徴である。それを家人の手から同役へ滞りなく渡すために、図書頭は最期の場所を居間の先に選び、家臣たちに必要な動きを残していた。
最後の処置までが、奉行としての務めであった。
「通航一覧」443pの「長崎出宿次書状」(某藩の長崎聞役と思われる)は、事件後の長崎奉行所の対応をこう要約する。
「表向病気の筋にて段々手数有之、夫々え達事等相済候上披露有之、今廿七日葬送有之候、尤切腹にて御断被申上候儀、大意の趣意伝承候」。
表向きは病気の筋でしかるべき手続きが進められ、それぞれへの通達などが済んだうえで切腹の事実が公にされた、八月二十七日に葬送があった、切腹で身罷ったと幕府に届け出た趣旨は伝え聞いた、と。
長崎の町中の反応について、他の聞役の風説書はこう書いている(同じく通航一覧443p)
「右御切腹有之候処、以前之不評判と引替、至而評判宜、惜まぬ者は無御座候」
「以前の不評判」とは、事件勃発の当初、長崎奉行所の対応が後手に回り、紅毛人を取り返せなかったことへの市中の批判である。その「以前の不評判」と引き替え、切腹の事実が伝わるや、市中の評価は一変した。「至って評判宜しく、惜しまぬ者はおりません」、惜しまぬ者は一人もいなかった、と書かれている。
これは過大な表現ではないだろう。長崎の市民は、図書頭の長崎在勤中の謹厳な人柄と、事件のなかでの懸命の対応とを、間近に見ていた。事件当初の批判は、対応の手際への批判であって、人物そのものへの批判ではなかった。切腹の知らせとともに、市民は人物への深い哀惜に転じた。
「通航一覧」(442p)が伝える図書頭の人柄、行儀正しく、書画を見るときも紙の端を撥ね上げる箆(へら)を使うほど丁寧で、在勤中は折に触れて部下に袖の内から品を与え、「これは功あり」と戯れに言って渡した、と伝える。その人像が、四十一歳でこの世を去った。
文化五年八月十七日の夜から十八日未明にかけて、長崎奉行松平図書頭康英は、奉行としての務めを最後まで果たし、武士としての作法を一切崩さずに、その生涯を閉じた。江戸への注進は差し立てられ、責任は自分一身に集約された五ヶ条として整えられ、検使たちは庇護され、御黒印は同役の手に滞りなく渡された。月見の宴では旧臣たちと月を愛で、そのあと一人になって書付を仕上げ、然るべき場所に毛氈を敷き、礼法に則って腹を切り、自身の手で頸を絶って絶命を完結させた。
事件の当初から最期の瞬間まで、図書頭は判断を誤ることはあっても、責任を回避することは一度もなかった。
楼上で飛び上がって涙を流した同じ人物が、その同じ日の夜、悠々として腹を切った。
この間にあったのは、一人の行政官が、御用状を整え、御黒印の引継ぎを残し、最後の処置まで自ら段取りしていく姿であった。
そして、整え終わったとき、図書頭は迷わなかった。