84 被封無用

文化五年八月十七日の夕方、図書頭は大村上総介との対面を終えていた。
その日の昼過ぎに長崎へ参着した大村上総介との接見は、奉行の居間で行われた。攻撃断念の経緯、両藩の不調法、出帆の経過――それぞれ言葉が交わされたのであろう。事は済み、上総介は退出した。
そののち、図書頭は自筆で書付を認めた。『崎陽日録』四十四頁にこうある。「夕方大村家入来付対面有之事済て、自書を認められ、近習の人を避けんとて、右の自書を呈書の間へ持せやりて」――対面が済んで自書を認められ、近習の人を避けようとして、その自書を呈書の間に持って行かせた、と。
近習を避けた、という記述に注意したい。図書頭は自書を仕上げたのち、その書付を居間から呈書の間へ持って行かせている。これは表向きには、書付を月番の手元に届けるための通常の手続きである。だが「近習の人を避けんとて」という一語が添えられている。書付を遠ざける、というよりも、近習を遠ざける、という意味合いが含まれている。
書付が呈書の間に渡った後、図書頭は一人になった。
「其隙に庭に下り立れ、稲荷の籬の際に座し給ひ、東に向ひて礼拝して其座を不立」――その隙に庭に下り立ち、稲荷の籬の際に座し、東に向かって礼拝して、その座を立たず、と。
奉行所西役所の庭に、稲荷の社があった。その社を囲む籬――低い竹垣――の際に、図書頭は座を据えた。東に向かって礼拝した。江戸の方角である。
「差添抜て、襦袢の袖切落して刀を巻、諸肌脱て、腹一文字に引廻し、其刀を以て咽喉をつらぬき、鍔元まで突通し、うつ伏になつてそあられける」――差添(脇差)を抜き、襦袢の袖を切り落として刀に巻き、諸肌を脱ぎ、腹を一文字に引き廻し、その刀で咽喉を貫き、鍔元まで突き通し、うつ伏せに倒れた、と。
ここまでが、図書頭が一人で行った所作である。
書付は呈書の間に届いていた。庭の稲荷の籬の際で、何が起きたかを、家臣たちはまだ知らない。
そして、ひとつの音が屋内に届いた。
「其時少しおめく声のしたれは、次の間に扣し近習のもの是を聞付てあやし、声のしたるはとて燭を携て出てみるに」――その時、少しおめく声がしたので、次の間に控えていた近習がこれを聞き付け、不審に思い、声のしたほうへ、と燭を携えて出てみると、と。
「籬の際に白きもののほのかにみゆれは、近寄て見るに人のやうなれは、大に驚きて引立見るに、主人なれは、あはたゝしく家老用人え知らせて、醫師なと呼んで、居間に抱上て見るにはや事きれ給ひぬ」――籬の際に白きものがほのかに見えたので、近寄って見ると人のかたちで、大いに驚いて引き立てて見ると主人であったので、慌ただしく家老用人へ知らせ、医師などを呼んで、居間に抱き上げて見ると、もう事切れていた、と。
医師を呼ぶ間はあった。だが間に合わなかった。
「つらぬき玉ふ所の刀を脱取て、いとなみの外すへきやうもなし」――突き通された刀を抜き取って、御身を整える以外には、なすべきこともなかった、と。
これが、文化五年八月十七日夜半過ぎ、長崎奉行所西役所において、奉行松平図書頭康英の自害が発見された瞬間の光景である。
『崎陽日録』のこの一段は、長崎代官高木作右衛門――丹治擧直、すなわち『崎陽日録』の著者が、月番として奉行所中枢にあって書き留めた記録である。書付を呈書の間で受け取った人物、そして自害の発見後の処理に当たった人物が、彼であった。
奉行所内部に、事態が知れ渡るまでには、いくつかの段階があった。
最初に異変を悟ったのは、次の間に控えていた近習である。次に家老・用人が呼ばれた。家士たちが主人を居間に抱き上げた。医師は呼ばれたが、間に合わなかった。
その頃、上條徳右衛門は奉行所構内の下宿にいた。十五日からの三日間ほとんど不眠で動き続けた徳右衛門は、その夜ようやく下宿に戻り、机に寄ったまま寝入っていた。家僕がその上に蚊帳をかけたのも知らずにいたところ、田邊兎毛が玄関から駆け込んで「殿様御生害」と泣き叫び、「御存じなきや」と呼び立てた――この場面は徳右衛門自身が『用部屋日記』に書き残しており、『通航一覧』四百四十二頁に収録されている。
徳右衛門が現場に駆け付けたのは、自害発見からしばらく経った時刻である。
ここに、ひとつの問いが立ち上がる。
この時点で、家臣たちは、図書頭が何をなしたのかを正しく理解できていたであろうか。
物理的な事実としては明らかであった。腹は一文字に引き廻され、刀は咽喉まで突き通されていた。これが切腹であることは、武士の家士であれば一目でわかる。「東に向ひて礼拝して其座を不立」――東に向かって礼拝して、その座を立たず。「襦袢の袖切落して刀を巻」――袖を切り落として刀を握り、と。これらの所作は、武士の切腹の作法に則ったものである。家臣たちはその意味を理解した。
だが、なぜ図書頭がここまでせねばならなかったのか――その意味を理解していたかどうかは、別の事柄である。
作右衛門は、自害発見後の家臣たちの様子をこう書いている。「行所に家老用人給人等並居て、図書頭成行給ふ事をかたる」――家老詰所に家老・用人・給人らが並び居て、図書頭の成り行きを語り合っていた、と。
「成り行きを語る」とは、何があったのか、何が起きたのか、どういう順序でこうなったのか、を語り合うことである。事の意味を理解した者が語る言葉ではない。事態を呑み込めぬ者が、互いに口々に事情を確かめ合う光景である。
そして作右衛門は、続けてこう書く。
「家来の面々も、何故の生害有しや、其子細を知らされは、件の自書には旨趣委くあらん事を思ふて、しきりに披封せん事をいふ」
家来の面々も――「何故の生害」、なぜの自害であったか、その子細を知らされていないので、件の自筆書には趣旨が委しく書いてあるであろうと思って、しきりに披封せよ、と言う。
この一文は、本章の核である。
家来の面々――家老・用人・給人ら――は、図書頭がなぜ自害したかを知らなかった。事前に共有されていなかった。「子細を知らされは」、すなわち子細を知らされていないので、と書かれている。
そして、彼らは「件の自書」、すなわち図書頭が自筆で長く認めていた書付の中に、自害の趣旨が詳しく書かれているはずだと思い、その披封を強く求めた。「しきりに」と書かれている。一度ではない。何度も求めたのである。
ここに、ひとつの事実が浮かび上がる。
家臣たちは、自害の理由を主人本人から事前に告げられていなかった。図書頭は、自分の決意を、たとえ最側近の家老・用人にも、共有していなかった。事前の打ち明けはなかった。話し合いもなかった。家臣の同意も求めていない。
だからこそ、自害の事実が知れた瞬間、家臣たちはまず「何故の生害」と問わざるを得なかった。
これは単なる悲嘆ではない。理解不能感である。なぜここまで――なぜ自害までせねばならなかったのか、なぜそこまで負わねばならなかったのか。家臣の論理では、これは説明のつかぬ事態であった。だから「自書」の披封を求めた。書付を開ければ、答えが書いてあるはずだ、と。
書付の中身が公の文書として「壹封」されていたことを、彼らは知っている。
書付は、長崎掛り御勘定奉行・柳生主膳正と、同役・曲淵甲斐守との二宛て、それぞれに別封として認められていた。『崎陽日録』四十四頁にある。「圖書頭自筆被認、長崎懸り御勘定奉行柳生主膳正え壹封、同役曲淵甲斐守へ壹封認めて」――図書頭自筆で認められ、柳生主膳正へ壹封、曲淵甲斐守へ壹封、と認められて。
壹封、すなわち一通の封書である。図書頭は同じ内容のものを、勘定奉行と同役奉行のそれぞれに、それぞれ独立した一通の封書として整えた。江戸への注進は宿駅継飛脚、すなわち宿次の手続きによって運ばれる性質のものであった。図書頭は、自害直前まで、奉行としての行政処理の中でこの書付を整えていた。
「予其時月番なれは、近謝(習)之者に托せ趣される」――作右衛門は、自分がその時月番であったので、近習の者に托して下らされた、と書いている。書付を奉行から受け取ったのは月番の長崎代官であり、彼はそれを近習に托した。すなわちこの時点では、書付は通常の御用書として、通常の手続きの中で扱われていた。
ところが、上包を解いて中の書面を取り出そうとした時、不思議な記載が目に入った。
「上包の内の折に、披封無用と認めらる」――上包みの内側の折り目に「披封無用」と記されていた、と。
披封無用――封を開けてはならぬ。これは、書付の宛先である幕府の御勘定奉行までは、誰の手にも開かれぬよう、という指示である。
「予もふしきに思へとも、言上の調最中なれは、先其儘に論駁霞て、刻附の宿次差立の事故、けはしく取調て居るうち」――作右衛門は不思議に思ったが、言上の取り調べの最中であったので、ひとまずそのままにして、刻附の宿次差立の手続きであったので、慌ただしく取り調べているうち、と。
作右衛門は不審を覚えたものの、宿次差立の刻限に追われていた。即時の判断保留である。書付は宿次差立の流れに乗せ、刻限を守るほうが先であった。
ここまでの記述から、ひとつの段取りが見える。
図書頭は、自害の直前まで、奉行としての公的な行政処理を続けていた。書付を自筆で認め、封をし、宿次差立の流れに乗せた。書付の上包の内側に「披封無用」と書き加え、その封の内側は宛先の御勘定奉行まで開かぬよう指示した。これらは、奉行が日常行ってきた公的な手続きの延長であった。
家臣たちは、その手続きの異常さに気づく余裕がなかった。書付が呈書の間へ運ばれた段階で、まだ図書頭は生きていた。書付の長さに違和を覚える間もなく、近習の耳に「少しおめく声」が届いた。
ここに、ひとつの構造が見えてくる。
図書頭は、自分の決意を家臣には告げず、しかし公的な手続きの形では江戸まで届くよう、段取りを整えていた。家臣たちが自害を悟ったとき、書付は既に封がなされ、披封無用の付記がなされ、宿次差立の流れに乗せられていた。家臣たちが「子細を知り得る」唯一の経路は、その書付の披封以外になかった。
そして書付は、披封無用と指示されていた。
家来たちが「しきりに披封せん事をいふ」のは、当然の反応である。主人の自害の理由を知るには、書付を開けるほかない。だが書付は、開けてはならぬと記されていた。
家臣たちの困惑は、ここに二重のかたちで現れている。第一に、なぜ主人は自害したのか、その意味が分からぬ。第二に、その意味を知るための唯一の手がかりが、開封を禁じられている。
「件の自書には旨趣委しくあらん事を思ふて」――書付の中には、自害に至った趣旨が詳しく書かれているであろう、と家臣たちは推測した。
これは、自害の意味が書付に書かれていなければならない、という前提に立った推測である。だがその前提自体が、家臣たちの希望的な推測であった可能性がある。書付には、五ヶ条の不調法が並べられていた。各条は事件の経過の中の判断の不備を挙げ、結語で「一身之恥辱者差置、此塲に到り候而者、天下之御恥辱異國は顯れ、無申譯仕合に御座候間、爲御斷切腹仕候段、御披露給度」と結ばれていた。すなわち、これは奉行としての引責切腹の届け書であり、家臣に向けた遺言ではなかった。
書付は、幕閣に向けたものであった。
そして、奉行という職にあるかぎり、引責切腹に至る論理は、家臣の手元の論理とは別の次元にあった。
ここで、上條徳右衛門が登場する。
田邊兎毛の急報で駆け付けた徳右衛門は、まず現場で主人の最期の姿を見届けた。この場面は、徳右衛門自身が『用部屋日記』に書き残し、『通航一覧』四百四十二頁に収録されている。
「不辨東西、うつゝにはせて行てみれは、居間の先、鎮守の手前、生垣の際に毛氈を敷、臍下一文字に薄く引、鍔元迄喉をさし通し、遖れの御生害」――東西も分からず、夢中で駆けて行って見ると、居間の先、鎮守の手前、生垣の際に毛氈が敷かれ、臍下一文字に薄く引き、鍔元まで喉を刺し通した、あっぱれの御生害であった、と。
ここで、作右衛門の記録と徳右衛門の記録の差異に目を留めねばならない。
作右衛門は「稲荷の籬の際に座し給ひ」と書いた。図書頭が一人で庭に下り立ち、稲荷社の籬の際に座を据えた、と。発見の場面では「籬の際に白きもののほのかにみゆれ」とも書いている。そして発見直後の姿は「うつ伏になつてそあられける」――うつ伏せに倒れていた。
徳右衛門は「鎮守の手前、生垣の際に毛氈を敷」と書いた。鎮守の社(同じく稲荷社を指すものと読める)の手前、生垣の際に毛氈が敷かれていた、と。そして自分が駆け付けて見たときの姿は「趺座して生るか如し」――趺座、すなわちあぐらの姿勢で、生きているように見えた。
二つの記録の差異は重要である。作右衛門が記したのは、近習が呻きを聞いて駆け付け、白きものを発見し、引き立てて主人と分かり、慌ただしく家老用人へ知らせて医師を呼んだ、その発見直後の光景である。図書頭は腹を引き廻し咽喉を貫いた直後、刀の重みで前のめりに倒れ、うつ伏せになっていた。家臣たちは主人を居間に抱き上げ、突き通された刀を抜き取り、御身を整えた。
徳右衛門が駆け付けたのは、そのあとである。家士たちが現場の処置を一通り終え、毛氈を敷き直し、主人の姿を整え終えた段階であった可能性が高い。「氈上に滿つ」――毛氈の上に血が満ちていた、と徳右衛門が書いたその毛氈は、最初から敷かれていたのではなく、家士たちが現場を整える中で敷かれたものとも読める。「趺座して生るか如し」――あぐら座のままで、生きているように見えた、という光景は、家士たちが御身を起こし、整えた結果であろう。
二つの記録は矛盾しない。両者が記しているのは、同じ夜の同じ自害の、異なる時点の光景である。作右衛門は発見の瞬間を、徳右衛門は整え終えた後の光景を、それぞれの目で見て書き留めた。
徳右衛門の手記は続く。「最早魂氣も絶ぬれは、忠左衞門、幸八郎一同立合、御劔をは渡邊平藏拔取といへとも、固く握りて御指一本つゝ放して漸く拔く」――もはや魂気も絶えていたので、忠左衛門・幸八郎一同が立ち会い、御剣を渡邊平蔵が抜き取ろうとしたが、固く握っていたので、指を一本ずつ放してようやく抜いた、と。
そして徳右衛門は最後にこう書いた。「血は流て下衣を染め、氈上に滿つ、趺座して生るか如し、可憐此日いか成日そ、天此英維を惜まざる」――血は流れて下衣を染め、毛氈の上に満ちた。趺座のまま、生きているように見えた。哀れむべし、この日はいかなる日ぞ。天はこの英邁な人材を惜しまざるものか。
「可憐此日いか成日そ、天此英維を惜まざる」――この嘆きは、徳右衛門が主君の死を見届けた直後の、率直な感慨である。
そののち徳右衛門は、書付の処理に動いた。
作右衛門はこう書く。「呈書の間に有合、人々怪みをなす所に、用人徳右衛門來りて、図書頭自筆を可差返旨申」――呈書の間に人々が居合わせ、不思議に思っていたところに、用人徳右衛門が来て、図書頭自筆の書付を差し返すべき旨を申し出た、と。
徳右衛門は、書付を「差し返せ」と求めた。
ここで作右衛門は応えている。「予其義は不相成、子細は此包を見候へ、とて、脇番頭より差越れし件の包紙をみする」――それは相成らぬ、子細はこの包紙を見られよ、と言って、脇番頭から差し越された包紙を見せた、と。
作右衛門は、披封無用の付記がなされた包紙そのものを、徳右衛門に示したのである。
これは、書付の処理を巡る、作右衛門と徳右衛門との間の最初の確認である。徳右衛門が「自筆を差し返せ」と求めたとき、作右衛門はそれを拒んだ。書付は披封無用と封じられている。差し返すこと自体ができぬ、と言ったのか、あるいは差し返したところで開封できぬ、と言ったのか。前後の文脈からは、書付の処理は宿次差立の流れに既に乗せられており、後戻りできぬ性質のものであったと読める。
そして作右衛門は、自筆で番付がなされた包紙を徳右衛門に見せた。「自筆にて番付有之故、予に家老詰所へ参ろへし、といふによて、行所に家老用人給人等並居て」――自筆で番付がなされていたので、徳右衛門は作右衛門に「家老詰所へ参られよ」と促し、行ってみると家老・用人・給人らが並び居ていた、と。
家老詰所に集まっていた家臣たちは、書付の披封を強く求めていた。徳右衛門もその場に加わり、書付を差し返させて中身を確認しようとした。彼らの希望は一致していた。書付を開いて、主人の自害の理由を知りたい。
ここで作右衛門は、決定的な対応をする。
「予是を党(許)さす」――予はこれを許さず、と。
作右衛門は、家臣たちの披封要求を許さなかった。
これは重い判断であった。家老・用人・給人らが並び居て、しきりに披封を求める中で、それを拒んだ。徳右衛門も家老詰所に同道し、その場の議論に加わっていたとすれば、徳右衛門もまた披封の側に立っていた可能性がある。だが作右衛門は、披封無用の付記を堅持した。
なぜ作右衛門がここまで強く披封拒否を貫いたのか――その理由は明示されていない。ただ、上包の内側に「披封無用」と書かれていた事実、そして書付が宿次差立の流れに既に乗せられていた事実、この二つから作右衛門は判断した。これは主人の最後の指示であり、公的な手続きとして既に動き始めている、と。
家臣たちの希望と、書付に書かれた指示が、ここで衝突した。作右衛門は指示の側に立った。
そして作右衛門は、続いてもうひとつの決断をする。
「愛に於て、先表向病気と披露して、其夜より大病の旨、向々え相達す」――そこで、まず表向きは病気と披露して、その夜より大病の旨を、方々へ相達した、と。
奉行の自害が長崎の市中に直ちに伝われば、混乱は計り知れぬ。佐賀・福岡・大村の諸藩、地役人、町方、出島のオランダ商館、そして警備に当たる諸番所――いずれにとっても、奉行の死は重大な情報である。それが事実のままに伝われば、長崎統治機構そのものが揺らぐ。八月十五日のフェートン号入港から既に三日、市中は度重なる急報に疲弊している。そこへ「奉行自害」の報が直ちに伝われば、奉行所そのものへの信認が揺らぎかねない。
ゆえに、表向きは病気と披露された。「その夜より大病の旨」を方々へ達した、と書かれている。すなわち、自害発見の夜のうちに、奉行は重病である、という報が出されたのである。これは情報統制であった。
この情報統制は、図書頭の意図に沿うものでもあった。書付は披封無用と封じられ、自害の趣旨は江戸の幕閣にのみ届くよう整えられていた。長崎の市中に対しては、奉行は病死した、という形での扱いが、図書頭自身の段取りの中にも組み込まれていたと読み得る。
『通航一覧』巻二五九にも、これに対応する記述がある。「然とも、表向病氣之筋に而段々手數有之、夫々え達事等相濟候上披露有之、今廿七日葬送有之候、尤切腹にて御斷被申上候儀、大意之趣意傳承候」――しかしながら、表向きは病気の筋にてしかるべき手続きが進められ、それぞれへの通達などが済んだうえで切腹の事実が公にされた、八月二十七日に葬送があった、切腹で身罷ったと幕府に届け出た趣旨は伝え聞いた、と。
幕府への届けは切腹として行われ、市中・諸藩への披露は病死として行われた。この二重の処理は、図書頭の自筆書付の構造と一致している。書付は幕閣にのみ届くよう封じられ、市中には病死の形で伝えられる。情報の宛先が、それぞれ別の論理によって整理されていた。
そして、その二重の処理の結節点に、上條徳右衛門と、高木作右衛門とが立った。
ここで、改めて家来たちの「何故の生害有しや」という反応に立ち返らねばならぬ。
この問いは、家臣の論理が、図書頭の責任論を完全には共有していなかったことを示している。
奉行所中枢にいた家老用人――高橋忠左衛門、木部幸八郎、そして上條徳右衛門――は、十五日からの三日間、図書頭と行動を共にしていた。十六日深夜の出陣決意の場面では、高橋は涙を流して諫言した。十七日朝の出帆後、徳右衛門は楼上から望見する図書頭のあとを追って居間に入り、諷諫を尽くした。彼らは事件の経過のすべてを近くで見ていた。そして、焼き討ち不実行は是非なき次第であった、というのが彼らの結論であった。
「其方萬端骨折なり、歸府之上者、御持御先手への轉役と心得候なり」と図書頭が徳右衛門に答えたのは、十七日午後、出帆を望見したのちのことであった。徳右衛門はこの言葉を、奉行が自分の働きを認めた上での慰労と受け取った。江戸に帰った上は、御持御先手への転役と心得よ――これは、図書頭が事件後も奉行職を続け、徳右衛門もまた奉行付の用人として職を続ける、という前提に立った言葉である。
つまり、徳右衛門の理解の中では、事件は既に終わっていた。焼き討ちはできなかった、紅毛人は取り戻した、異国船は去った、後始末は終わった。あとは江戸への注進であり、おそらくは奉行への何らかの叱責はあろうが、事件そのものは収束した。
家臣たちの誰一人として、奉行が自害するなどとは考えていなかった。
そこへ、自害があった。
「何故の生害有しや」――家臣たちのこの問いは、彼らがその瞬間まで、奉行が自害に至るほどの責任を負っていたことを理解していなかった、という事実を示している。
ここに、図書頭一人の責任認識と、家臣団の責任認識との間に、明確な断絶があった。
図書頭は、書付の中で「一身之恥辱者差置、此塲に到り候而者、天下之御恥辱異國は顯れ、無申譯仕合に御座候」と書いた。一身の恥辱は措くとして、この場に至っては天下の御恥辱が異国に対して顕れた、申し訳のしようもない、と。
この「天下之御恥辱」という観念は、奉行という職に就いた者のみが負える観念であった。長崎奉行は将軍家光以来「長崎の地、外道によって少しも掠められれば日本の恥辱」と申し含められた職であり、その「日本の恥辱」を一身で受け止める位置にあった。家臣は、主人がそのような位置にあることを観念としては理解していたかもしれぬ。だが、それを我が事として引き受ける位置にはいなかった。
家臣の責任は、主人を支えることである。主人の手当てが不調法でなかったか、配下の差配が間に合ったかどうか、戦闘指揮の段取りに不備はなかったか――これらは家臣の責任の範囲である。徳右衛門は十七日朝の諷諫において、まさにこの範囲の整理を行った。両藩の不調法は明らかであった、焼き討ち不実行は是非なき次第であった、と。これは家臣の論理においては正しい結論であった。
しかし図書頭は、その家臣の論理の外側に立っていた。
「天下之御恥辱」を引き受ける位置とは、家臣の手当ての適否を超えて、奉行職そのものとしての責任を引き受ける位置である。両藩の不調法があったかどうか、家臣の差配が間に合ったかどうかは、その位置からは見ない。見るのは、結果として異国船が長崎港に侵入し、紅毛人を奪い、薪水を強要し、立ち去った――その事実だけである。その事実が、すなわち「天下之御恥辱」であり、その恥辱を引き受けるのが奉行の務めであった。
ここで、家臣たちの「何故の生害有しや」という問いに、もう一度立ち返らねばならぬ。
彼らは、図書頭の最期を目の当たりにし、その所作の意味を理解していた。
「遖れの御生害」と徳右衛門が書き残したように、その切腹が武士の作法に則ったものであることも理解していた。
だが、それでもなお、「何故」が残った。
なぜここまで負わねばならなかったのか。
なぜ主人一人が死なねばならなかったのか。
家臣たちは、その理由を、自分たちの論理の延長では捉え切れなかった。
その夜、家老詰所では、「件の自書には旨趣委しくあらん事を思ふて、しきりに披封せん事をいふ」と、『崎陽日録』は記している。
家臣たちは、主人の自筆書の中にこそ答えがあると思い、繰り返し披封を求めた。
しかし、図書頭は、その答えを家臣たちには残さなかった。
書付は「披封無用」と封じられ、その趣旨は江戸の幕閣にのみ向けられていた。
図書頭が最後に引き受けた責は、家臣団と共有される性質のものではなく、長崎奉行という役目そのものに属する責であった。
主人だけが、別の次元の責任を負って死んだ。
家臣はその死を見届け、その死後の事務を担う。
だが、主人と同じ位置に立つことはできなかった。
その断絶は、翌年の幕府の裁定にも現れる。
徳右衛門には七十人扶持が下され、検使たちには押込が命じられ、地役人には褒詞が与えられた。
一方、図書頭家中の家老用人二人がどのように扱われたかは、史料には明示されていない。
しかし、その裁定へと繋がる断絶は、すでに八月十七日の夜、家老詰所に現れていた。

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