8月17日朝、西役所の物見の塔でフェートン号を監視している者から異変の急報が入った。
「崎陽日録」は次のように記す(39p)。
「巳の刻ごろ(10時)イギリス船が帆支度をしている様子を近習の者が遠眼鏡にて見てそのことを図書頭へお知らせしたのですぐに2階へ上がられ遠眼鏡でご覧になったところ帆支度をしている様子であった」
フェートン号が停泊している高鉾島までは約5kmの距離である。
この距離で帆支度という乗組員の動きを伴う作業が視認されていることは二十倍あるいはそれ以上の倍率が必要である。
ここで言う帆支度とは、まず前部のジブ(三角帆)を展開して船首を風下へ振り、その後、上部の帆を順次張り出して帆走に移る一連の操作を指す。前夜からの強い北風を受けて、この動きは速やかに進んだはずである。
十八世紀後半には、ヨーロッパで十五倍から三十倍程度の望遠鏡が実用化されており、それらはオランダ商館を通じて長崎にももたらされていた。沿岸の遠見番所には高性能の遠眼鏡が配備され、水平線上に現れるマストの先端のような微細な変化を捉えることができた。
ここで用いられた望遠鏡も、同様に二十倍あるいはそれ以上の性能であったろう。百両以上もする代物であったはずである。このような遠眼鏡の性能があってこそ、帆支度という出航の兆候は見逃されなかったのである。
フェートン号が長崎出現前に160kmの距離を保って遊弋していたのは、遠見番所の視認距離がどう言うものであったかの説明にもなる。
崎陽日録に戻る。
「図書頭は詰めている者皆を呼び観察させたところまごうことなく帆の支度の様子なので中村継次郎菅谷保次郎を検使として行くように命じられる。
(検使一行は)出がけに御番所へ立ち寄り、異国船が出帆するが万一乱暴をするようなら直ぐに打ち払う準備をするよう命じて、イギリス船へ乗り付けて横文字で申し渡すようにと言われた。
横文字の和訳 薪水を船積みが済んだらすぐに出帆し再びこの地へこないこと右の通り長崎御奉行所よりイギリス船主へ申し渡す 文化五年辰八月十七日
この横文字は通詞が持参、傳之進才右衛門甚左衛門が一船に乗り組み、検使中村継次郎菅谷保次郎は大型の鯨船で一同乗り出す。戸町御番所へ行き番頭に面談を申し込んだところ、西泊へ評議のため行っているとのことなので西泊へ行き番頭鍋島七左衛門物頭大野吉兵衛と面談し図書頭が申し渡したことを伝え御番所を出て乗船したところ、異国船は碇を上げ出帆の様子なので急いで漕ぎ出したが順風で午の刻頃(12時)」(現代語訳句読点筆者)
ここに見えるのは、検使団と通詞団、両者が同時に乗り込み命令を伝えようとした実際の動きである。
これに対し「商館日記」は次のように記す。
「十時頃になおもう一度、検使たちの委員団が、イギリス船長に、彼が速やかに沖に出て、再び戻って来ることのないようにと言うため、船に向かって出発した。しかしこの委員団が乗船する前に、例の船は錨を上げ、そして出帆するのを私は目撃した。このようなわけで委員団は無為に戻って来た。このことは私にとっては特に喜ばしいことであった。と言うのはちょうどその時、大村と諫早の兵士、総数約800人が到着したとの報告が入ったのであり、そしてこの軍勢で奉行は間違いなく何かを企てたことであろうが、しかし船の出帆によって今は何事も起こりえないし、そしてそれによって多くの人々の生命が救われたからであり、万一人々がこの船を征服したとしても、それはおそるべき流血なしには行なわれなかっただろうし、そのためオランダ人たちは、彼ら自身のためにきわめて多くの人々が命を失うにいたったとの罪を負わされたに違いないからである。そしてそれ故、私は全能の神にこの事件が幸運な結果に終ったことに感謝した。十二時頃、今朝食料品を持って船に行った稽古通詞が戻って来て、私に船長からのきわめて不明瞭な英語で書かれた短い手紙を手渡したが、私はこの手紙から次のようにしか理解することができなかった」
ここではこれを検使の委員団として把握している。
しかし、後年の「回想記」においては次のように述べる。
「その間、私は奉行に、前夜から吹いている東風が、それが有利な英国人を誘惑して出航させる可能性があると警告した。しかし奉行は、翌日約束した新鮮な水を待つだろうと信じていた。奉行はまた、船を引き留める別の方法を考えた。夜明けに、主要な通詞の委員会が船に乗り込み、今年はオランダ船が到着しておらず、戦争中は再びこのようなことが起こる可能性があるため、英国船の派遣について交渉したいと船長に内密に伝えるというものだった。通訳の一人が私に、これは日本人の正直な性質にそぐわない欺瞞だと言ったが、長崎奉行は、ペリュー船長のような欺瞞者は欺かれて当然だと理解していた。委員会が夜明けにかろうじて出発したとき、大村藩主が軍隊を率いて長崎に到着した。彼はすぐに奉行に、3人の漕ぎ手が乗り、乾燥したアシや藁で満たされた300隻の小型船でフェートン号に火をつけることを提案した」
ここではあたかも通詞の委員会が単独で出発し、しかもそれが欺瞞として評価されている。
しかし実際には検使と通詞は同時に動いており、どちらか一方だけが派遣されたわけではない。
回想記が「通詞団」とだけ書いたことで、後世の読者はあたかも通詞だけが別に派遣されたかのように受け取り、ここで理解を誤ることになるのである。
冒頭の崎陽日録の引用に戻る。
「御役所附陽右衛門藤四郎三十郎町野丈八それぞれが鉄砲を用意して乗り込み」とは、御役所附は少なくとも四名が参加し、いずれも鉄砲を携行していたことを意味する。物々しいとは言えるが、わずか四挺の火縄銃で、十八ポンド砲をはじめ四十門以上の砲を備えたフェートン号に対しては、ほとんど痛痒を与えることもできなかったであろう。しかしそれでもなお、これが図書頭の動員し得た精一杯の措置であった。
ここで気になるのは、検使役が中村継次郎と菅谷保次郎であることだ。
中村継次郎は、八月十五日から十六日にかけての混乱の中、図書頭から検使としての出動を命じられながら、「役目を果たす覚悟がない」「装束が整っていない」と渋り、さらには脇差を持たぬことや仮養子願いを理由に危険を避けようとするなど、終始逃げ口上を重ねた。このため周囲の失笑と非難を招き、その態度はすでに大きく信用を失っていたのである。
その中村継次郎を、重武装の異国船に出帆を促す検使に選んだ図書頭の意図は何だろうか?
ふたつの動機が考えられる。
ひとつは公儀(幕府)の正式使者としての格の問題である。中村継次郎は長崎奉行所を監察する岩原目付屋敷の支配勘定であり、幕府序列では長崎では長崎奉行に次ぐランクとなる。異国船に出帆を申し渡す使者としての格を備えた人材であった。
もうひとつは、武士としての面目の回復の場を与える意図もあったと考えられる。
一度命じられた役目に怯んだ人物に、「武士ならここで名誉を回復せよ」という図書頭らしい叱咤が込められていた可能性が高い。
すなわちこの人選は、単なる適材配置ではなく、統治者としての判断と武士統制の意図とが重なり合ったものであった。図書頭は、役目に怯んだ者を排除するのではなく、あえて最前線に立たせることで、その者の責任と覚悟を引き出そうとしたのである。
それは同時に、奉行所全体に対する無言の示威でもあった。すなわち、「武士である以上、いかなる状況にあっても役目から逃れることは許されない」という原則を、具体の人事によって示したのである。
しかし、そのいずれも決定的な根拠を示す史料は存在しない。むしろ当時の状況を見れば、他に適任と呼べる人材がすでに持ち場に出払っており、結果として中村継次郎が選ばれたと見るほかない。
この人選が示しているのは、検使団の任務そのものが、それほどまでに切迫したものであったということである。こうして中村継次郎は、検使として重武装の異国船へと向かうことになった。その任務は、きわめて危険なものであった。実はこの検使団の任務には、表向きの名目と図書頭の真の意図との二面がある。名目上は異国船に出帆を促すための使者である。だが図書頭の本意は、むしろ諸藩の軍勢が到着するまでの時間を稼ぐことにあった。このことを示しているのが、ドゥーフの『回想記』である。ドゥーフは検使団と通詞団の行動を記憶の中で混同しているが、その混同の中にこそ、日本側対応の本質があらわれている。回想記は次のように記している。
「奉行はまた、船を引き留める別の方法を考えた。
夜明けに、主要な通詞の委員会が船に乗り込み、今年はオランダ船が到着しておらず、戦争中は再びこのようなことが起こる可能性があるため、英国船の派遣について交渉したいと船長に内密に伝えるというものだった。
通訳の一人が私に、これは日本人の正直な性質にそぐわない欺瞞だと言ったが、長崎奉行は、ペリュー船長のような欺瞞者は欺かれて当然だと理解していた。」(回想記103p)
これに続けて彼は、「委員会が夜明けにかろうじて出発したとき、大村藩主が軍隊を率いて長崎に到着した」と記している。しかし、大村藩の到着はフェートン号出帆後であり、この部分の記憶には明確な錯誤が認められる。
すなわちドゥーフは、日本側の申し入れ(回想記では通詞団の行動として記されている)を「虚偽」であり、「日本人の性格に合わない」と受け取った。これは単なる誤解ではない。検使団の派遣が、表向きには退去を促しながら、実際には出港を引き延ばそうとする二重の意図を帯びていたため、その印象が通詞団の行動として記憶されたのである。
言い換えれば、この混同は単なる記憶違いではなく、検使団の真の役割をかえって浮かび上がらせるものである。出帆を命じるための使者でありながら、その実、相手を一刻でも長く長崎に釘づけにしておくこと、それがこの派遣の現実の目的であった。
こうして検使団の派遣は、単なる命令伝達ではなく、時間を稼ぐための最後の手段として実行されたのである。こうして派遣された検使団は、名目上は異国船に退去を命じる使者でありながら、その実、出帆を一刻でも遅らせることを意図したものであった。すなわち、命じているのは退去でありながら、行おうとしているのはその退去の遅延であるという、明確な二重性を帯びていたのである。
この矛盾は偶然に生じたものではない。
それは、異国船を攻撃し得る軍勢の到着まで、なんとか時間を稼ごうとした図書頭の苦闘の表れであった。
すなわちここに見えるのは、戦力を欠いたまま異国船と対峙した図書頭が、残されたわずかな手段をもって事態を押しとどめようとした最後の試みである。
しかしその試みもまた、順風を得たフェートン号の出帆の前には、ついに実を結ぶことはなかった。
検使団が沖へ向かって漕ぎ出したとき、すでに事態は彼らの手の及ばぬところにあったのである。