現代語訳256巻

諳厄利亞国部五
○狼藉始末 肥前国長崎

このたびの不法行為に及んだ根本の原因を考えてみると、それはオランダ人(蘭人)に対する遺恨によるものであって、日本に向けて行ったことではない。詳しくは、以下の各条によって知ることができる。

文化五年戊辰年八月十五日の朝、白帆の船が一艘見えるとの報告が、各所の遠見番から届いた。そこで長崎奉行の手附二人と通詞、それにオランダ人が船で出て旗合わせをしたところ、相手は偽ってオランダの旗を掲げ、小舟(端船)で走り寄ってきて、オランダ人二人を捕らえ、本船へ連れ帰った。検使以下がこのことを報告すると、奉行の松平図書頭はただちに港の警備などを指示した。そして松平鍋島肥前守(前の国主で、今年の常番にあたる)と筑前の松平黒田官兵衛の人数には、異国船を繋ぎ留めて焼き払う用意や、増援の人数のことなどを、聞役を通じて伝えた。

文化五年戊辰年八月十五日

今朝、六つ半時(午前七時)ごろ、白帆が見えたとの報告が佐賀の遠見番から届いた。ちょうど諸方の沖出方が引き揚げる時期だったので、すぐに隠密方を呼び出して出動を命じ、用意の銀と証文(横文字一通)を渡した。そのうえで、万一これが異国船であればただちにその旨を報告すること、もし例年のオランダ船であれば手続きをいつも通り取り計らうことを、吉岡重左衛門に申し付けた。

これに伴い、波戸場役(按ずるに、この記録に出てくる地名はすべて長崎なので、煩雑になるためいちいち注記しない。人名も、長崎奉行の手附や家来、大通詞・小通詞、町年寄などであるから、同じく注記しない)の諸熊作太夫と薪煎夫に、船の用意を申し付けた。

同じく、年番のオランダ大通詞中山作三郎を呼び出し、白帆の報告があったので、その旨をカピタンに伝えるよう申し付けた。あわせて、前例の通り旗合わせの検使を出すので、それを見届けるオランダ人を用意しておくようにとも命じた。

同じく、遠見番を呼び出し、白帆の報告がなかったのはどういうわけかと尋ねた。すると、当時は沖出方が引き揚げていたため小瀬戸からの報告がなく、そのために遅れたのであり、すぐに飛船を出して様子を確かめて報告する、との返答であった。そこで児島唯助と吉川次郎平に出動を命じ、証文・用意の銀・カピタンの書翰を渡した。

同じく、盗賊改方の田口惣兵衛に出動を命じた。この遠見番と盗賊方はともに沖へ出るため、波戸場役の諸熊作太夫に船の用意を申し付けた。

年番の町年寄には、白帆の報告があったので、諸事これまで通り心得るよう、書面で伝えた。

野母の遠見番所の当番原嘉平から、今朝卯の中刻(午前六時ごろ)、未申の方角に当たる二十四、五里沖にオランダ船を一艘見つけた、との報告があった。

佐賀の聞役関伝之允から、次のような書付が出された。「先ほど報告した白帆の船一艘は、香焼沖の午未の間、距離およそ二十里余りのところに見えたと、深堀の役人たちから次々に知らせがありました。この件をお届けいたします。松平肥前守内 関伝之允、辰八月十五日」。

白帆の報告があったことについて、宿老の森又左衛門、会所目付の河野伴左衛門、そのほか内用方の者たちが次々と用部屋まで出てきて、船の到着は正徳年間の延着の例などと話し、めでたいことだと言った。

小瀬戸の遠見番当番古川徳四郎が出てきて、今日の午の刻(正午ごろ)、未申の方角に当たる十七、八里沖にオランダ船の白帆が見えた、と告げた。

中山作三郎が出てきて、こう告げた。「白帆の報告について、お達しの趣をただちにカピタンに伝えたところ、館内一同たいへん喜んでおります」。これに続けて、出島に滞留する財勘院甲必丹のウドフが内密に申し上げたいことがあると言っているので、人払いをしてほしいと頼んできた。そこで別室に移って聞いたところ、カピタンはこう述べた。「恐れながら申し上げます。このたび館内一同が待ちわびている本国船が入港したとのことで、上下ともに大喜びし、町中でも同様でしょう。ただ、いささか不審な点がございます。本国船はバタヴィアを出帆し、出帆の時期がこれほど遅れることはないはずです。出帆の事情はいつも通りで、今ごろ入港するというのであれば、航海の途中で難船し、マスト(檣)の一、二本を吹き折ったのでしょうか。もしそうであれば、風向きの都合で進み方も不便なはずですが、あの船は喫水の浅い軽快な船で、風に向かってたいへん速く進み、マストなどにも異常は見えません。万一、他国の船ということもありえます。いずれにしても、相応の備えをしておくほうがよいと存じます。気づいたことを申し上げないのは不忠の至りですので、内々に御役人の方々までお聞き入れいただきたい」。このように申し出たというので、内密に奉行へも報告しておいた。

福岡(按ずるに、筑前の国主松平官兵衛の城地である)の聞役花房久七が、かねて申し立てておいた通り、白帆の報告があったことを手紙で伝えた。

旗合わせのための検使として、手附の菅谷保次郎と上川伝右衛門の二人が出向いた。ただし、オランダ船の入港時期が遅れていたため、出る刻限を例年より早めて出発し、本船には近寄らずに旗合わせをすること、沖出方の迎え船として出ている者たちから様子をよく尋ね、もし疑わしいことがあればただちに両番所へ報告し、湊内へは立ち入らせないこと、もしオランダ船であれば検使の後について進ませ、先へは出させないこと——これらを書院で、徳右衛門が出席して直接言い渡した。なお、オランダ人が内密に報告した事情もあったので、その手続きなどは徳右衛門から細かく申し伝えた。

この旗合わせの検使を出すにあたり、先ほど大通詞中山作三郎に申し付けておいた通り、カピタンへ伝えて、例の通り旗合わせのオランダ人を出させた。書記のオランダ人ホウセマンとシキンムルのうち、一人を出した。

波戸場役の諸熊作太夫と白木理十郎を呼び出し、検使船・オランダ船・警固船などの船々を出すこと、あわせて引船の手配もするよう申し付けた。旗合わせのオランダ船には鯨船を出すよう検使二人が申し立てたので、その通り命じた。

夕暮れ(黄昏)ごろ、横文字の書面を持参して沖へ出ていた吉岡重左衛門が、急いで玄関に出てきて、直接木部幸八郎に申し上げたいと言う。すぐに聞いたところ、こう述べた。「入港したのは異国船で、夕方七つ時(午後四時)前ごろに高鉾の前に碇を入れました。検使も到着し、旗合わせなども済んだ様子でしたが、書記のオランダ人が本船に近寄ったところ、向こうからも十四、五人が小船に乗り移ってきました。こちらから行った二人のオランダ人を乗り移らせようとし、一人は乗るまいと拒む様子に見えましたが、たちまち剣を抜いて立ち向かい、二人とも捕らえ押さえて本船へ引き入れました。どこの船とも見分けがつきません」。なお重左衛門は、沖でカピタンの返書を受け取り、すぐに役所へ届ける手はずだったため、たびたび本船へ催促したが、何かと遅れて不審に思いながらも、本船に繋いで湊口まで来た。しかしどうにも心もとなくなり、繋ぎを解いて湊口から走り入って様子を見届けたところ、右のような次第だったという。これが第一報だったので、奉行が直接尋問することになった。

ただし、オランダ人二人が検使船から進み出たところ、本船の船首のほうから、長さ四、五間・幅二、三間ほどの青皮船(バッテイラ)を、碇で巻き下ろして繰り出してきた。天幕を張り、左右の舵取り二人ほどが杓子のような橈(オール)で船を速め、オランダ船に近寄ると同時に船板を跳ね上げた。その下から十五人が、それぞれ短筒(ピストル)を持ち、火縄を振り、剣を帯びて踊り出て、白刃を取って立ち向かい、大声を上げてオランダ人二人を取り押さえ、ただちにあの革船(バッテイラ)へ駆け込んだ。そのため、検使船の船頭をはじめ船子たちは水中へ飛び込み、近くの漁師や商いの船までもが一斉に大騒ぎして呼び立て、船を出して逃げる者もあれば、船から転がり落ちて泳ぎ去る者もいた。検使・通詞そのほかの役人も、思いもよらない不意のことに大いに狼狽しているうちに、異人たちは引き揚げ、碇で本船へ引き寄せた。すると天幕が風を受けて舞うように引き付けられ、船首のほうから鉤に掛けて、くるくると本船へ引き入れた。それから三十六間の船に武器を構え、もっぱら石火矢(大砲)を防ぐ船楯などを用意する様子であった。この船楯というのは、六尺余りの帆木綿を一抱えもあるほどに巻き立て、それをチャン綱(タールを塗った縄)や鉄鎖で編み上げたものだという。銃弾は釘を丸めて玉にし、足屯を打った玉だという。そのほか鉄玉、銅張りの玉など、さまざまなものがあると、ホウセマンが帰館の際に語った。

旗合わせ検使の菅谷保次郎・上川伝右衛門から役所へ、「オランダ商船に相違なく、旗合わせも済んだ」との届け書が出された。ただし、この箇条は二人が後に不覚を悔やんだので、ここでは省く。

この異国船の入港について、山田吉左衛門と花井常蔵の二人が、役所付の両組二十人、玉込めの鉄砲二十挺、いずれも選りすぐりの者を引き連れ、戸町・西泊の南番所へ人数を配置し、船の備え・石火矢(大砲)・台場ごとに配り付け、そのほか備え方の指図などを見届けるために遣わされた。

同じく異国船の渡来について、湊内の備えのことは、かねての手配の通り、代官高木作左衛門へ直接伝達があり、弟の道之助ともども稲佐郷へただちに出張するよう命じられた。

岩原役所の勘定方の面々には、早く出勤するよう連名の切り紙を遣わしたところ、すぐに参上し、居間で直接対応した。いったん引き取り、まもなく具足を用意して出てきた。

ただし、このとき具足を着けて出てきた者もいた。徳右衛門の具足は、家来の毛利健助という者の心得で用部屋へ持参し、四半(小型の盾あるいは武具の一種)そのほか引合(照合・調整)などを整えておいた。高橋忠左衛門は自分の詰所で具足を着けており、奉行も小具足を固めていた。そのほか誰もが用心している様子であった。

年番の佐賀守、その聞役関伝之允を呼び出した。異国船が入港してオランダの書記二人を捕らえるという、この上ない狼藉・不法の次第なので、オランダ人二人を取り戻したうえは、正徳年間に南蛮船を焼き沈めた例(按ずるに、南蛮船焼討の件は、慶長十四年に船を打ち砕き焼き沈めたことを指す)にならうべきである。そこで焼き草・火船(放火用の舟)そのほか備えの手配をし、その手続きを記した書面を提出すること、また敵船を取り逃がさないよう国元へも増援を早く申し送ること——これらを対面所で、徳右衛門の案内によって直接伝えた。

砲術家で町年寄の薬師寺久左衛門に申し付けた。近年、蝦夷地の騒動以来、かねて奉行所から幕府(江戸表)へ申し立ててある湊内十四か所の砲台配置に従い、それぞれ両組を引き連れ、かねて定めてある通り、町年寄見習も人数の頭取(指揮官)として、異国船が近寄ったら石火矢(大砲)を撃ち払うよう命じた。本久四郎兵衛へ渡した書付は、一人ごとの警備場所・人数割りを記したものである。

これに伴い、武器蔵預かりの三浦藤次郎・永尾亀三郎、そのほか見習ら五人を呼び出した。薬師寺久左衛門に石火矢(大砲)・大筒を渡すこと、その運搬用の地車(荷車)や人足は五か所の宿老会所へ必要に応じて申し入れること、あわせて旗・幕・具足・鎖帷子・旗竿などを取りそろえて陣屋へ出し整えておくことを、徳右衛門が申し付けた。

これに伴い、又左衛門から塩硝(火薬)を渡すよう申し出があったので、塩硝蔵預かりの徳見元助に申し付け、それぞれの担当は久左衛門の合図によって渡すよう命じた。すると、まもなく配合済みの火薬(合塩硝)を渡し切ったあとはどうすればよいかと尋ねてきたので、久左衛門へ適切に取り計らうよう命じた。夜中、石火矢(大砲)を運ぶ地車の音や車力の声が山や谷に響き、雷のようであった。

書記役の手附斧生源一郎に申し付け、奉行に付き添い、申し出されるほどのことはすべて書き留めておくよう命じた。しかし、楼上の座敷向きの仕事に走り回って疲れ、行き届かないと断ってきたので、これは取りやめた。なお、この細かな箇条は、表向きの引渡し日記には省略する。

役所付の触頭たちには、対面所で、湊内の警備場所について中村継次郎と木部幸八郎が言い渡した。

人見藤左衛門と松平左七が、湊内を見回るために出向いた。

長崎付十四家の聞役一同を呼び出し、書院でこう達した。「このたび異国船が渡来し非常の事態となったので、その旨をそれぞれ国元へ早使で申し送り、後続の船などが見えたら、状況しだいで人数を出すように」。

ただし、右の十四家は次の通りである。
薩摩聞役 上野善兵衛
肥後同 長尾平太夫
久留米同 坪池八右衛門
対馬同 橋辺作右衛門
長門同 山県伊八郎
肥前同 関伝之允
(判読困難。原文「笠前」)同 立花善太夫
小倉 明石与次兵衛
柳川 由布七右衛門
島原同 鵜殿七郎右衛門
平戸 宗像平次右衛門
唐津同 小林大登
大村同 松浦鉄十郎
(判読困難)在役 渡辺藤一
七島聞役 大浜典膳
以上一同へ直接伝達した。

福岡・佐賀の両家へは、前段の趣に従って増援のことを早く国元へ申し送るよう伝えた。あわせて、水野和泉守の領地に関わることなので、状況しだいで人数を繰り出せるよう間違いなく心得ておくことを、小林大登へ直接伝え、徳右衛門が取り扱った。それぞれ伺いなどもあり、海陸の持ち場のほか、大人数が集まる場所などの指図もあった。

後藤惣太郎が広間に詰めた。

散使・町使・両組の唐人番一同を呼び出し、広間でこう直接伝えた。「このたびの非常の事態に、いずれも精を出し、それぞれ手柄を立てるように」。一同は平伏し、後藤惣太郎が承諾を申し上げ、年行司も出てきた。

両家の聞役を呼び出し、対面所でこう言い渡した。「このたび異国船が及んだ狼藉によってオランダ人二人が捕らわれ、そのまま出帆させるわけにはいかないので、引き留める手段を講じること。もしその手段が整わないうちに出帆したなら、やむをえず撃ち沈めること。備え方は両家で申し合わせ、定めてある規則の通り、守衛の人数を配り、石火矢(大砲)の台場で二の目・三の目の足並みをそろえ、適宜の焼き打ちができるようにすること。用意が整えばただちに出張すること。整いしだい報告すること。なお、先ほど伝えた焼き打ちの手続きの書面もまだ整わないのか。いずれも精を出すように」。

夜六つ半時(午後十一時)ごろ、保次郎と伝右衛門が帰ってきて、オランダ人二人を奪われた顛末を申し立てた。これに対し奉行は、「そのままにはしておけない。早く戻り、死力を尽くして取り戻せ」と厳しく直接命じた。ただし、この二人が帰って役所に出てきたので、二人ともただちに徳右衛門の案内で、居間において直接対面した。菅谷保次郎は大きく息をつき、歯の根も合わないほど震えながらこう述べた。「異国船のバッテイラに乗り移ったところ、思いもよらず、船底から十五人が短筒を持ち、白刃を振ってオランダ人の船へ飛び込み、二人をたちまち捕らえて、一瞬のうちに本船へ引き取りました。その者たちはまるで猛虎のように人をひっつかんで自在に働き、威風は近づきがたいほどに見えました。後を追って斬り合いにも及ぶべきところでしたが、それでは鎮台(奉行)のご心配も大きく、かえって混乱を招くと思い、ひとまずこの段を申し上げます」。これを聞いて奉行は顔色を変え、罵って言った。「お前たち、よく聞け。俸禄は少なくとも、各々が賜るのは公禄(幕府の俸禄)である。西国の諸藩が見ている前で、深く恥ずべきことだ。今朝も言い聞かせた通り、オランダ人は預かりの者として大切に心得、うかつに先へ出すべきではなかった。そのうえ、出帆する船にオランダの返書も尋ねず、なおざりの心得である。さらに、斬り合いに及べばかえって混乱するなどとは、何たる言い分か。承服しかねる。斬り合いに及ぶほどの事態と、無事に引き取ったという事態と、どちらが重いか。ただちに戻って取り戻せ。心配も労苦もこのときのためのもの、通常の分別では済まされぬ。潔く立ち向かい、死力を尽くして取り戻せ。万事の手当ては徳右衛門に申し付けるから、そう心得よ」。こう厳しく命じた。この二人は江戸へ帰還したのち、江戸で取り調べを受け、役儀を罷免され、押込め(謹慎)を命じられた。

奉行が徳右衛門に言い聞かせた。「まことに混乱しているので、気づいたことは言うまでもなく、それぞれ取り計らい、伺うことなども大方しかるべく、便宜的に処理せよ」。

両家の聞役へ、「このたびは多事で混乱しているので、当地の御用商人たちを陣屋に詰めさせ、急用を処理させるように」と伝えた。

町々の乙名、両通詞、宿老ともが帯刀を願い出たので、「刀を貸し与える」という心得で、このとき限り許可するから、いずれも手柄を立てるようにと伝え、その旨を詰めている惣太郎にも申し付けた。これに伴い、町年寄たちが召し使う者たちも帯刀を願い出たので、徳右衛門が聞き置いた。(長崎総記)

文化五年八月十六日 ある書上げ

昨十五日卯の上刻(午前五時ごろ)、深堀の遠見番所から白帆一艘を見つけたとの報告が奉行所へあり、続いて各所の遠見からも同様に報告があった。そこでオランダ船の入港と心得て、例の通り旗合わせを見届けるための検使として、御家人の菅谷保次郎・上川伝右衛門、通詞、そのほか出動した役人たちが、オランダ人二人を連れて午の下刻(午後二時ごろ)に波戸場を出船し、小瀬戸まで行った。すると、オランダ国の旗印に相違ない様子だったので、ただちにそこを出船し、神の島の沖あたりで本船に乗り付け、いままさに乗り移ろうと端船に取り付いたところ、本船から七、八人が飛び降りてきた。いずれも剣を抜き持ち、オランダ人二人をたやすく引き伏せて奪い取った。そこで通詞の猪股繁次郎・植村作七郎の二人が、奪い返そうと端船へ飛び込んだところ、船が離れて二人とも水中へ落ちた。

ただし、この通詞二人については、公式には本文の通り届け出たが、内実はその状況に恐れて水中へ逃げ込んだ、との風聞もある。あるいは、取り返そうと異国人に取りついたところを水中へ放り込まれた、との風聞もあって、どちらが正しいとも判じがたい。ただ、水中へ落ちたことは確かである。

この騒動を見届けて、検使二人は驚き恐れ、前後の分別もなく西泊の番所へ逃げ込んだ。そのため地役人たちも我先にと逃げ退き、皆そろって西泊で落ち合った。さて、水中へ落ちた通詞たちは、ようやく船に乗り移り、沖手の「どいのくひ」という所(肥前領で、当時、長崎から海路でこの領所まで〔距離〕里ほどある所である)へ逃げて行き、そこから陸路で戸町番所まで来たという。異国船は高鉾島の脇に碇を入れ、船を繋いだ。

ただし、オランダ人二人を奪い取ったあと、ただちにオランダ国の旗印を取り除き、イギリス(ヱゲレス)国の旗印に引き替えた。しかし、まだどこの国の船かは分からない。一説にはロシア(魯西亜)とも、あるいはイギリスともいう。

同月十八日 同じく

右の船は、オランダの旗印などまで出して湊口に碇を下ろしたので、出向いた役人たちもオランダ船と思い込んだ。諸船が異国船に近寄ったところ、突然、端船に十四、五人が乗り組み、オランダ人の乗っている船へ無礼に乗り込み、剣などを抜いた様子で二人を脅して奪い取った。さらに湊内へ端船を乗り入れる振る舞いが不法と思われたので、奪い取ったオランダ人を返したうえは焼き打ちを命じられるべきだとのお含みで、十六日の昼ごろから急にその準備が始まった。長崎の大筒役薬師寺久左衛門が大波戸へ出張し、陣幕を張って、預かりの石火矢(大砲)そのほか大筒などを船々へ載せ付ける準備をした。また、船中へ載せ付ける竹束を作るため、長崎中の材木屋に蓄えてある竹を買い上げ、大工や輪替(桶の輪を替える職人)が残らず大波戸へ出張して、数多くの竹束を作った。湊内に繋いである諸国の商船や唐船(中国船)などは稲佐や大浦のあたりへ移し、湊内で鉄砲などを撃っても差し支えないようにと命じられた。唐人屋敷・オランダ屋敷、そのほか湊内の海手や町中の警備は、町年寄のうちへ担当を命じ、七十七町の乙名が地区割りで付き添い、町々の火消しの者たちで固めた。これに伴い、地役人たちは折から「御借刀」という名目で急に帯刀を許され、昼夜大勢で町中を歩き回った。昼は大旗を掲げ、夜は高張提灯をともし、役人たちは火事羽織を着用した。こうしたわけで、長崎中は上を下への大騒動となった。諸家の蔵屋敷もこれにならって夜回りなどを行い、夜は門に大丸提灯をともした。十五日の夜遅くからは、図書頭も海手や町中の見回りを行い、厳重ながらも大混乱であった。

同日 長崎発のある書状

旗合わせの日本船を取り巻いた端船一艘に、異国人がおよそ十二、三人ずつ乗り組み、三艘では五十人余りでオランダ人を奪い取った。多勢に無勢で、役人や水主(船乗り)たちも防ごうとしたが手に負えず、やむをえず引き返し、あるいは海中へ飛び込んだとのことで、たいへんな不覚であり、うろたえた様子に見え、不手際は言いようもない。

同日 同じく

八月十五日、大波戸そのほか海手の警備について、ただちに触れ達しがあり、わずかな間に備えが整い、厳重な手当てとなった。そのうえで、肥前・筑前・大村へだけ増援を早く差し向けるよう命じられた。ほかに敵の同伴船がないので、ほかの国々から増援を出すには及ばない旨が、諸家の附人(留守居役や家臣)へ伝えられた。

陸手・海手とも、そのほか各所には高張提灯や篝火が夥しくともされ、二里ほどの間は昼のようであった。

諸家の附人や地役人が残らず奉行所の門前に控え、わずかな空き地もないほど押し合った。いずれも陣羽織・野袴、あるいは火事装束、半纏、打裂羽織などを着用していた。

同日 同じく

黒船(異国船)を焼き打ちするお含みだったので、最初は、大村様には湊内・領地の警備と手当てをしておくよう、唐津様には長崎の見回りには及ばない旨を伝えておいた。しかしその後、急に大村様には長崎へ来て松平肥前守様の人数へ加勢してほしいと伝え、唐津には増援を出すよう伝えた。

同年九月二十一日 オランダ通詞名村多吉郎の書状

八月十五日にイギリス(ヱゲレス)船一艘が長崎へ来た顛末を、おおよそ次の通り申し上げる。

八月十五日、辰の刻(午前八時)ごろに白帆が見えたと、肥前の鍋島七左衛門殿から報告があった。同じく肥前の野母遠見からは、白帆一艘を見つけたとの報告、午の刻(正午)ごろには瀬戸から十七、八里のところに見えたとの報告があったと、奉行所からお達しがあった。そのとき、旗合わせの検使として菅谷保次郎殿・上川伝右衛門殿、それにオランダ人と通詞が付き添って沖へ出た。すると、申の下刻(午後四時)ごろに白帆の船が次第に伊王島の近くまで走り寄ってきたので、四郎ケ島あたりまで、検使とオランダ人がいずれも出向いた。赤・白・青の横縞の旗印が鮮やかに見え、検使から尋ねられてオランダ人に確かめたところ、「オランダの旗に相違ないように見える」とオランダ人は言った。その後さらに近寄ったが、とりわけ順風で、白帆の船へは乗り付けにくいほどであった。すると、あの船から急に端船を漕ぎ出し、オランダ人の乗った船へ漕ぎ付けてきた。その船から来た者たちにオランダ人が「どこの国の船か」と尋ねると、「オランダ船でバタヴィアを出帆した」とオランダ語で答えた。そこで「去年帰帆した役人、オランダのハクキスは乗っているか」と尋ねると、「乗っている」と言うので、まもなく検使一同が本船へ行くべきだとオランダ人が答えた。ところが端船の者たちが、隠し持っていた剣を振り上げて残らず立ちかかり、オランダ人の乗った船へ飛び込み、理不尽にもオランダ人をあの端船へ捕らえて行き、漕ぎ出したと見えた。本船から端船へ縄が付けてあったのを、本船から引き寄せた。以上。(観聴草)

文化五年八月十六日 大村上総介(按ずるに、大村の城主)の届け

口上覚え
異国船一艘が、昨十五日に長崎へ渡来したことについて、湊や領内の海固めの船のことを、松平図書頭から、かの地に置いている私の家来の者へ達せられたので、ただちに差し出した。この件をお届け申し上げる。以上。
八月十六日 大村上総介

右と同じく、一緒に差し出したもの。
口上覚え
昨十五日に長崎へ渡来した異国船は、そのまま放置しがたく、場合によっては打ち砕くことになるかもしれない。そこで陸地の固めを差し出し、かつ、この船が神崎へ出て、万一、番所当番の松平肥前守の人数が不揃いのまま出帆されては済まないことなので、私の人数が揃いしだい神崎へも差し出すよう、松平図書頭から、かの地に置いている家来の者へも達せられた。そこでただちに、陸地固めの人数も船手の固めもともに差し出した。この件をお届け申し上げる。以上。
八月十六日 大村上総介

右は、九月三日、早追飛脚で(至急のため酉の中刻、午後六時ごろ)、御用番の土井大炊頭様(按ずるに、老中利厚)へ、笠坊八助が持参し、御取次の落合権平方へ渡したところ受け取られた。なお、赤間関を渡るとき風向きが悪く、また大井川が増水して差し支えたため、遅れたと申し述べておいた。

同月十七日 松平肥前守の届け

長崎で、一昨十五日に白帆船が見え、次第に乗り寄せて伊王島で旗合わせを行った。オランダ人と検使の者を出したところ、旗印もオランダ船に相違なかったので、例の通り、出役の検使がその船へ乗り移ろうとした。ところが端船から旗合わせのオランダ船へ乗り移り、オランダ人二人を捕らえて本船へ連れて行った。検使の者がしきりに防ごうといろいろ手を尽くしたが、思いがけず急なことだったので、防ぎきれずに引き取った。これにより、在留のオランダ人がこのような不法行為に遭っては、そのまま放置できないので、別に検使を出し、これらの訳をきっと問いただすつもりだという。これについて、当番方から警固船を出すよう、また、日本人に手向かいするわけではないけれども、不意のこともありうるので、その覚悟で出張するよう、いずれも松平図書頭から、長崎へ出しておいた私の家来の者へ達せられたとのこと、承知した。これにより、準備のことをさらに申し付けた。この件をお届け申し上げる。以上。
八月十七日 松平肥前守
右は、八月晦日、御用番の青山下野守様(按ずるに、老中忠斎)へ届けたものである。

同月晦日 松平主殿頭(按ずるに、肥前国島原の城主である)の届け

去る十五日午の刻(正午)ごろ、オランダ船が長崎沖に見えたので、旗合わせのためオランダ人を連れ、検使の者を出して、小瀬戸沖で旗合わせを行った。何もかもオランダ人のやり方で、旗もオランダの旗を出し、言葉もオランダ語だったので、いよいよオランダ人と思い、本船へ乗り移ろうと漕ぎ寄せた。ところが異国船から端船を下ろし、こちらの船に乗るオランダ人二人を捕らえて、その船へ連れて行く様子だったので、「行かせまい」としたところ、異人十四、五人が剣を振り回して脅したので、やむをえず捕らえられて連れて行かれた。これについて、検使の者たちが続いて乗り移ろうとしたが、その端船は早々に漕ぎ去り、本船は大船なのでなかなか容易には乗り移れず、特に少人数だったのでなすべき方法もなく、そのまま引き返したという。

同年九月四日、松平官兵衛の家来による届け

長崎で、先月十五日に異国船一艘が渡来したことについて、松平図書頭様がかの地に置いている家来の者が出向いて様子を伺ったところ、図書頭様との対面があり、こう伝えられた。「この船は、例のオランダ船が入港する沖合で陸地へ乗り付けたので、旗合わせに差し向けたオランダ人から問いを掛けたところ、オランダ語で答えた。その船から端船を出し、オランダ人二人を捕らえて本船へ連れて行った。そのまま放置しがたいので、当番方と番船を付けておき、もし出帆する様子であれば引き留めるようにし、かつ、非番方が受け持つ石火矢(大砲)台場へ警備を行うように」。黒田甲斐守(按ずるに、筑前秋月の城主)はこれを承知した。これにより、手当ての人数として、官兵衛の家老黒田源右衛門もただちに差し向けた。これについて、官兵衛に代わって甲斐守が伝えたことを申し送る。この件を、使者をもって申し述べる。以上。(戊辰時陽記)

(按ずるに、このほかにも諸国からの届けや長崎発の書状など数通があるが、おおむね同じ内容なので載せない。)

通航一覧 巻之二百五十六 終

通航一覧 巻之二百五十七
諳厄利亞国部六
○狼藉始末 肥前国長崎

文化五年戊辰年八月十五日の夜、異人の端船三艘が港内を乗り回して狼藉に及んでいるとの報告があった。これにより奉行は要所の警衛を指示し、かつ、その船を両番所で逃さず召し捕らえるよう、肥前・筑前の聞役そのほかへ達した。このとき、在留のオランダ人は異人の所業を恐れ、御朱印を携えて奉行所へ来た。

文化五年戊辰年八月十五日

調役人と町年寄一同を呼び出したところ、高島四郎兵衛・高島作兵衛・福田十郎左衛門・久松善兵衛・後藤惣太郎・薬師寺久三郎が出てきた。書院で直接伝達がなされている最中に、異国船がバッテイラで湊内の唐船へ押し掛けたとの報告があった。そのまま座を立ち、四郎兵衛一人を居間まで呼び寄せて直接伝達した。いずれも警備場所の人数割りの書面などは徳右衛門から受け取るよう申し渡され、用部屋で書付を渡した。

ただし、このとき湊内は急に大風となり、わめき叫ぶ声がし、唐船は船ごとに煙を