77 手紙

フリートウッドが正午前後に商館長ドゥーフへ届けさせた四通の書付は、いずれも急ぎ書かれた不明瞭な英語によるものであった。そこには、補給を受けたことへの簡潔な謝意と出帆予定の伝達に加え、バタヴィア情勢への短い言及、さらにドゥーフの書簡を預かって運ぶという提案が含まれていた。文体には誇張された修辞が目立ち、前夜の強硬な態度からは明らかに調子を変えていた。

書付が扱っていた中心的な用件は、補給の受領と出帆予定に関するものであった。フリートウッドは形式上の謝意を述べつつ、補給が無事に実施されたことをあらためて記し、文末には「真正に忠実な従僕」という誇張された敬辞を添えている。こうした修辞は、英国海軍士官が相手への敬意と自らの面目を保つために用いる慣習的表現に属するが、十八歳の艦長による急ぎの書簡では不自然さとして現れ、ドゥーフには過剰に響いた。

書付に含まれていた情勢説明の部分では、バタヴィアの状況にも触れられていた。フリートウッドは、英蘭の敵対関係は本来的なものではなく、ナポレオン政権の政治が両国を対立に追い込んだと説明している。アジアで生じている事態をヨーロッパ大陸の戦争の延長に位置づける議論は、当時の海軍士官が共有していた認識であり、若いながらも大局を見ようとした姿勢を示している。

しかし、これらの文言以上に注目すべきは、フリートウッドが書簡の取次を申し出た点である。ドゥーフがヨーロッパないしシャワ方面へ送る書状があれば、自らがそれを預かり、必要に応じて中国で商館員に手渡すか、翌一月にヨーロッパへ向かう英国船に託すという。この申し出は一見すると友好的であるが、当時の海軍実務に照らすならば、寄港地の通信を掌握するための行為と理解すべきものである。十九世紀前半の英国海軍では、預かった書簡を開封して情報価値を評価することが当然視されており、海軍・外交・商社はいずれも通信を最重要の情報源とみなしていた。

ヨーロッパではロスチャイルド家をはじめ、金融家や大商人が郵便物を密かに閲読して情勢分析を行っていた例が知られているが、海軍・植民地官僚の世界でも同様の“通信掌握”が一般化していた。したがって、フリートウッドの申し出は、書簡の内容に目を通しうることを前提としたものであり、オランダ商館長の通信が持つ政治的・軍事的価値を理解したうえでの行動とみるのが妥当である。

ここには若い艦長の個人的事情も反映している。フリートウッドが長崎に派遣された背景には、父エドワード・ペリュー提督の意向がある。英国は戦時下においてオランダ船を見つけ次第拿捕する方針を採り、積荷は国王との分配となり、艦長には三割以上の取り分があった。父ペリューは息子に戦果を挙げさせ、富を得させたいという期待を抱いており、今回の遠征にもその思いが反映されていた。したがって、長崎にオランダ船がいなかったことは残念ではあったが失態ではなく、父に対して大きな問題となるものではなかった。

しかし、艦隊行動のうえでは事情が異なる。フリートウッドの上官であるDruryは、マカオ攻撃の準備を進めており、長崎への寄航を快く思っていなかった。Druryと父ペリューの関係は良好ではなく、権限移譲をめぐる摩擦が続いていた時期でもある。英国海軍では手柄争いや戦利品の配分をめぐる対立が日常化しており、前任者の影響力が強く残る局面ではなおさら衝突が起こりやすかった。Druryにとって、若い艦長が独断に近い形で長崎へ向かったことは、不満の種となった可能性が高い。

こうした状況のなかで、フリートウッドにとってドゥーフの書簡は、戦利品に代わりうる政治的価値を持つものであった。積荷を伴うオランダ船は見つからず、目に見える戦果は得られなかったが、商館長の書簡は、バタヴィアの最新政情、幕府の対外姿勢、アジア航路の情報など、英国海軍が最も欲する内容を含む可能性がある。若い艦長がこれを持ち帰れば、作戦準備を進めるDruryに対しても一定の成果を示すことができる。フリートウッドの書簡取次の申し出には、こうした実務的・政治的判断が透けて見える。

四通の書付は、日本側には伝わっていない。ドゥーフは不明瞭な文面から要点だけを抜き出し、奉行所に必要最小限の情報を返すにとどめた。図書頭は英国艦長の意図を知ることなく、長崎港の防備と儀礼秩序の維持に集中し、終始、奉行所の立場を崩さなかった。

フリートウッドの書付は、彼がこの三日間において何を理解し、何を成果と見なし、何を上官に示そうとしていたかを示す一次史料である。文体は未成熟であるが、その背後には、戦利品制度、艦隊内の権限争い、情報の価値といった英国海軍の構造が反映されており、フェートン号事件を国際政治史・軍事史の文脈に位置づけるための重要な手がかりとなる。

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