文化五年八月十八日(1808年10月6日)の朝が明けた。
この日の長崎の日の出は午前六時十八分頃で、江戸(午前五時三十九分頃)より約三十九分遅れている(いずれも現代の天文計算による換算値である)。もっとも江戸は関東平野にあって東に太平洋が開け、水平線から昇る朝日が直ちに見えるのに対し、長崎は山々に囲まれた湾の奥にあり、太陽が稜線を越えて町に光を届かせるまで時間を要した。当時の人々は天文時計ではなく実際に光が差し込む時刻を「日の出」と感じていたため、体感としては江戸より50分ほど遅れる印象であった。
明るくなると、待機していた水船4艘を含む補給に赴く船列が異国船を目指して出発した。その任務を担った通詞は森山金左衛門である。彼の名は他の史料『通航一覧』(『用部屋日記』を含む)『長崎商館日記』には登場しない。この補給を報じた『崎陽日録』にだけ、次のように述べられている。
「八月十七日朝水野菜積候て森山金左衛門沖ゑげれす船へ相越」(『崎陽日録』37頁)。
ドゥーフの『長崎オランダ商館日記』では、彼を「稽古通詞(オランダ語では leerling-tolk/英語は apprentice interpreter)」と記している。すなわち、通詞の家に生まれ、実地修行の途上にあったことになる。通詞の家に生まれた男児は通詞となるように育てられ、十歳前後で出島や奉行所に出仕し、書簡の翻訳や筆写を通じてオランダ語を修めた。
10代半ばで稽古通詞となり、20代に入って小通詞になるのが名門通詞家の跡取りの習いであるから、この時稽古通詞であった森山金左衛門は20歳前後の若者であったろう。
その若さで補給船列と共に赴いたのは、大通詞・小通詞が15日の「異国船来る」の白帆注進があってから不眠不休であったことから、16日夜に帰宅を許されている。その関係から若い森山金左衛門が指名されたのかも知れない。若くてもしっかりした人物、という評価があったとも考えられる。
森山家は代々阿蘭陀通詞を務めた名家で、十八世紀中葉以降、長崎通詞組にその名を連ねている。片桐一男『阿蘭陀通詞の研究』(144頁)の「年番通詞リスト」に見る森山家の系譜は次の通りである。
1724(享保9)年 森山徳太夫 年番小通詞
1731(享保16)年 同 年番大通詞
1750〜1765(寛延〜明和期) 森山金左衛門 年番小通詞
1835(天保6)年 森山源左衛門 年番小通詞
1765年を最後に森山家は年番職から遠ざかり、その後およそ七十年間、年番通詞の記録に名が見えなくなる。文化五年の事件において再び現れるこの森山金左衛門は、何らかの事情で長く空白となっていた森山家の再興を担う若者であったとみられる。1750年から1765年にかけて年番小通詞を勤めた森山金左衛門は、この若者の父もしくは祖父であろう。
その後、森山家は幕末に再び長崎通詞界に名を残す。森山栄之助(多吉郎)はペリー来航の翌年にロシア使節プチャーチンが長崎に来航した際、通詞として中心的役割を果たした。彼はロシア語・オランダ語の双方に通じ、通訳兼翻訳の中心人物として交渉にあたり日露和親条約(1855年〈安政元年〉)締結に際して幕府側文書の翻訳を担当した。プチャーチン自身の記録にも、森山の卓越した語学力と冷静な対応が言及されていると言う。彼は幕府外交の最前線に立った、長崎通詞出身の実務外交官だった。
さて稽古通詞の森山金左衛門である。異国船への補給といっても同乗していたのは水夫や町役人であり、経験の浅い稽古通詞にとっては過酷な現場であった筈である。
この時の補給は前夜、石橋助左衛門がフェートン号艦内で饗応を受けるオランダ人二人を引き戻すために何度も「明日の朝、間違いなく届ける」と約束した、その補給に他ならない。
その品は、ドゥーフの商館日記によれば「二艘分の薪、艀五艘分の水、二篭の馬鈴薯、一包の梨、煙草若干」を届けたとある。フェートン号船上のストックデールの記録(航海日記)によれば10月6日木曜日、「水4樽と薪、野菜、果物など少量を受け取った」とある。前日の5日水曜日の航海日記には「食用牛四頭、水四樽、薪小量、山羊数匹、野菜若干を受取った」と記録しているが、この時は図書頭の指示で水船1艘にした筈だから、5日に受領した水樽のサイズは小さかったのかも知れない。
この時に不思議なことが起きている。
『崎陽日録』37頁によれば、
「8月17日朝水野菜を積んで森山金左衛門が沖のイギリス船へ行きかひたんより目録を添えたその和訳は次の通り
覚 1水5艘 1薪2艘 1芋2百斤 1梨30
この品々を届けますのでお受け取りください」
この「目録」は、単なる物資の記録ではなかった。
それは、長崎奉行がきわめて危うい政治判断のもとにとった外交上の形式を示す文書である。
外国船への補給そのものは、必ずしも法で禁じられていたわけではない。
幕府はこれに先立つ数年のあいだ、遭難や寄港を理由とする外国船への給水・食料補給を、長崎奉行の裁量で認めてきた。
そして図書頭松平康英が長崎奉行に着任する直前――文化五年八月上旬、
一隻のイギリス商船が風波のため長崎に漂着し、奉行所の監督のもとで水・薪・食料の補給を受けて出帆している。
『通航一覧』には「英船一艘入津、風波漂着ニ付、長崎奉行所ヨリ水薪食料ヲ給ス」と明記され、
『用部屋日記』にも「漂着異国船ニ給仕ヲ以テ出帆セシム」とある。
これは、幕府が国法を踏み越えたのではなく、外交管理の範囲内で柔軟に補給を行った確かな前例であった。
しかし、図書頭が着任したその翌月、状況は一変した。
フェートン号は「漂着」ではなく「襲来」であった。
威嚇の砲を備え、オランダ人を拘束し、脅迫によって補給を要求する艦に対して、
従来の補給と同じ形式をとることは、もはや容易ではなかった。
図書頭はそこで、「オランダ商館からの供給」という形式を採った、とも言える。
形式を変えることで幕府は法を守り、ドゥーフにその実務を託すことで秩序を保とうとした、という仮説が成り立つ。
森山金左衛門はその命を受けて海に漕ぎ出し、ドゥーフは商館にあって次の文を記した。
―― Lijst van geleverde goederen aan het Engelsch oorlogsschip “Phaëton”.
(英軍艦フェートン号へ納入された物資の目録)
この一文が、事実上の外交文書であり、長崎奉行の判断とオランダ商館長の責任を一体にした妥協の印であった。
この目録は、幕府が「外国船への補給を許す」こと自体を否定していなかったことを示す。
問題はその相手の性質と行為であり、フェートン号の要求は、従来の救難・寄港の枠を越えた明白な武力を背景とする圧迫であった。
奉行は「直接補給」ではなく「商館補給」とすることで、幕府の体面を守ったのである。
この「目録」の現物は伝わっていないが、その存在は三つの史料によって確かめられる。
第一に『崎陽日録』。そこには「朝、水と野菜を積み森山金左衛門沖の英艦に行く。カピタン目録を作る」と明記されている。
第二に『通航一覧』。「商館ヨリ給スル所ノ物件、別紙ニ列記アリ」とあり、幕府側でもこの目録を添付文書として扱っていたことがわかる。
第三に『長崎オランダ商館日記』。ドゥーフ自身がその日の記録の冒頭に “Lijst van geleverde goederen aan het Engelsch oorlogsschip ‘Phaëton’”(英軍艦フェートン号へ納入された物資の目録)と記している。
ただしこの項目は雄松堂版『長崎オランダ商館日記』には掲載されていない。だが、実際のドゥーフの日記には記録されていた。
この蘭文の記録を最初に学術的に公表したのは、オランダの歴史家 M.G. Schilling(スヒリング 1877–1942)である。
1909年に発表した論文「De Engelsche inval in de baai van Nagasaki in 1808」(『1808年ナガサキ湾へのイギリス侵入』)の中で、彼は蘭国立公文書館に保管されていたドゥーフの手稿を翻刻し、この “Lijst”(英語の list)の文言を原文そのまま掲載した。
後年、日蘭学会による雄松堂版『長崎オランダ商館日記』が刊行されたが、ここでは “Lijst” の題辞は訳文から省略され、物資供給の内容のみが叙述として記されている。
したがって、「ドゥーフの補給目録」そのものを史料として確立させたのは Schilling(1909)の論文である。
スヒリングは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、オランダ植民地史と東西交流史の研究を推進した歴史家である。
当時、バタヴィア(ジャカルタ)のオランダ学士院やライデン大学には、東インド会社(VOC)の残した膨大な手稿群が整理されぬまま眠っていた。
彼はその整理事業の初期に参加し、アジア関連史料の中から「ナガサキ」の名を繰り返し見出した。
スヒリングの論文「De Engelsche inval in de baai van Nagasaki in 1808」(1808年の長崎湾におけるイギリス軍の侵入)はその成果のひとつであり、1909年に雑誌『Bijdragen tot de Taal-, Land- en Volkenkunde』(「言語・地理・民族誌研究紀要」)に掲載された。
(デ・エングルスフ・インファル・イン・デ・バーイ・ファン・ナガサキ・イン・アハトティンホンダルトアフト)
この論文は、フェートン号事件を初めてオランダ語史料から全体的に再構成した試みで、のちに日本の研究者たちが「ドゥーフ補給目録」と呼ぶことになる一節を、原文のまま翻刻して世に伝えた。
※本章における Schilling(1909)論文および蘭文「Lijst」原文の照合、ならびに『Bijdragen tot de Taal-, Land- en Volkenkunde』(言語・地理・民族学誌)誌の掲載情報は、著者の研究支援AI〈ゆら〉(ChatGPT-5)との協働による調査結果に基づく。
また、〈ゆら〉による目録の調査の副産物で、フェートン号の船医が Walter Gourlay であることも判明した。この名前は「15 スチュワートの登場」で触れた “Camel for the Shogun” の著者と同姓同名であるが、偶然に過ぎない。
彼は H.B. Morse による The Chronicles of the East India Company, vol.3, 1910, p.381 に
“According to the surgeon Walter Gourlay … provisions and water were sent by the Dutch factory under Japanese authority.”
(船医のウォルター・グーリーによれば、食料と水は日本政府の下にオランダ商館から行われた)
と書かれている。これもイギリス側が「補給はオランダ商館によってなされた」と認識した証左である。
ちなみに、H.B. Morse(ホゼア・バルー・モース, 1855–1934)は、清末の中国海関に勤務したアメリカ人研究者である。退職後に東インド会社の対中貿易史を研究し、その成果を『The Chronicles of the East India Company Trading to China, 1635–1834』(Oxford University Press, 1910)としてまとめた。同書は、同社の中国航路と東アジア貿易を体系的に整理した基本文献とされている。
話を元に戻すと、『崎陽日録』37頁によれば、「(これらの品々をイギリス船に届けたところ)イギリス文字で書いた書付4通を森山金左衛門に差し出した」とある。
つまり、この朝の補給の際にはドゥーフの目録を添え補給したところ、それを受領した証の返事として英文書付4通をフェートン号が寄越した、ということだ。
これはフェートン号とのやりとりでフェーズの変化が起こったことを意味する。
その英文の手紙4通がドゥーフの元に届けられたのは12時ごろのことである。『長崎オランダ商館日記』218頁によれば、
「十二時頃、今朝食料品を持って船に行った稽古通詞(注:森山金左衛門のこと)が戻って来て、私に船長からのきわめて不明瞭な英語で書かれた短い手紙を手渡したが、私はこの手紙から次のようにしか理解することができなかった。すなわち、
彼船長は食料品を受取った、そして午後には沖に出るつもりである。彼は喜んで何がしかの品を私に贈りたいと思ったが、日本人の猜疑心のため彼はそうしなかった。さらに何かが述べられており、極めて不分明であるが、
バタビアからの船舶について、最後のバタビア攻撃のさいは彼もその場にいた、とし、さらに彼はボネパルテの憎むべき政治が、オランダとイギリス人のような、きわめて友好的に結びつけられていた二国民の疎隔の原因であるとはっきり述べている。
さらにまた、もし私にヨーロッパまたはシャワへの手紙があれば、彼はそれを持って行き、中国において彼の地のわが商館の職員に渡すなり、あるいは一月にヨーロッパへ出発するイギリスの船舶に托すなりしたいと思う、と記し、さらに私は大いなる畏敬の念をもって、あなたの真正に忠実な従僕で今後ともあるでしょう、と結び、そしてイギリス海軍フェートン号船長、グリットウッド・ペリューと署名し、宛名は(フランス語で)長崎商館長ドゥフ殿とし、このあて名のそばには(やはりフランス語で)大将ダーンデルスがバタビアに着いた、彼はその時オランダ所有地とその各部分の総督の職務についていると記す。」
この手紙はフリートウッド・ペリューの若さ、身勝手さをよく表している。これまで不法な侵入者として法外にもオランダ人を拉致し、翌朝までに補給がなければ港内の和船・唐船を焼き払うと脅迫するなど無法の限りを尽くして来たにもかかわらず、補給品の質の高さに驚いて態度を豹変し、「私は大いなる畏敬の念をもって、あなたの真正に忠実な従僕で今後ともある」などと、19世紀初頭当時らしい華美な麗句を並べてドゥーフの手紙をどこへでも届けようと言い出したのである。
それももっともかも知れない。フェートン号が最後に水を補給したのは珠江デルタで8月末(陽暦)である。それから1ヶ月以上、もともとマカオの水が清冽とは程遠く、洋上の暑さでボウフラが湧くような状態になっていたと思われる。
長崎で補給された新鮮な野菜や生牛(これはオランダ商館で荷役に使っていた牛が提供された)、そして新鮮な清水は、フリートウッド・ペリュー等フェートン号艦上の乗組員に等しく感動を与えたに違いない。しかも薪はきちんと切り揃えられていた。
それは単なる几帳面さではなく、相手に恥じぬよう務めを尽くすという日本人の職分意識の表れであった。
彼はのちにドルーリー提督に提出した報告書に、
「翌朝、彼等は我々に水と野菜を送ってきた。水はとても清潔な大樽に容れられて運ばれてきた。それらは彼等のボートの中ほどに据えられ、1バットより多くの水がはいっていた。薪も我々のもとに送られたが、きわめて良質なもので、目的にかなった長さに切り揃えられていた。かなりの身分の男が、全体を監督するため、我々の近くにいた。そして我々は、あらゆるものを気前よく彼に差し出したのだが、彼は御礼にどのようなものをも、決して受け取ろうとはしなかったし、船に上ってくるように説き伏せられもしなかった。彼等は長崎に寄港するあらゆる船に対し、その欠乏品を供給することを不変の規則としている。」
と記している。ここには日本側からの補給品の品質への評価、並びに「かなりの身分の男」の表現で分かるように指揮する人物の身なりの良さ(正装した与力・同心クラスか)を示唆している。これはマカオとの対比で、日本への彼の認識が変化していったことがうかがえる。
眞島亜有の『肌色の憂鬱』によれば、フェートン号事件から30年後の1840年代にアメリカ大陸への中国労働者の流入が始まり、1850年代から1860年代にかけて鉄道網の建設のために大規模に流入し始めた。明治維新を迎えた日本から多くの留学生が海を渡ったが、太平洋航路の船舶の最下層の船倉に詰め込まれた中国人の様子も描かれている。
「一八六七年七月、一四歳の高橋是清の乗船したコロラード号は、700トンほどの小さい外輪船だったが、上等室と下等室では『非常な区別』があり、『下等の者』は自由に上等へは行けなかった。下等室は『薄暗くて、臭気がムッと胸をつく』もので、船内は船底から漂う異様な臭気であふれ、見送りにきた是清の祖母は、船内で出された紅茶も気分が悪く飲めなかったという。」(『肌色の憂鬱』眞嶋亜有 42頁)
この下等室の船客はアメリカへ向かう中国人労働者の群れだった。
マカオでフリートウッド・ペリューが見た中国人たちの生活もこのようなものであったろう。その身なりや衛生観念と比べて、日本人の衛生意識と作業の精緻さ、身なりの良い指揮官が贈り物に心を動かされず務めを果たす規律(discipline)は、ペリューに強い印象を与えたに違いない。
報告書には、「⾧崎港は、あらゆる点から考えて、おそらく世界でもっとも素晴しく、またもっとも安全な港の一つだろう。(中略)ボートは一般的にみて、竹でつくられた天蓋と、その上にかぶせる莚をそなえている。そして非常に清潔だ。」と記述する。
さらに「町は大きな谷の部分を占めており、厖大な数の住民を擁しているにちがいない。周囲の土地はきわめてよく耕作されており、我々が見ることのできるかぎり、丘の上にいたるまで、手のかけられていない部分はどこにも残ってはいない。そして、多くの小さな境界から考えると、人口が非常に多いという印象を受ける。」とも描写する。
長崎の町を囲む丘の斜面の手入れの行き届いた田や畑も、フリートウッド・ペリューの目には秩序と勤勉の象徴として映ったに違いない。アジア各地の港で見てきた粗放な街並みや不潔な環境と比べれば、ここには人の手が隅々にまで行き届き、静けさと清潔さとが調和する異質の世界があった。彼は、この整然たる景観の背後に、法と職分を重んじる社会の力を感じ取ったのである。侵入者でありながらも敬意が生まれていた、と言える。
そしてまた、そのような社会で「囚人」として出島に暮らすオランダ人への憐れみと、そのオランダ人が牛や山羊、食料品や薪の手配に尽くしたことへの感謝とが、彼の中でまぜこぜになっていたのだろう。
ドゥーフは正午に受け取った四通の手紙について、まず「きわめて不明瞭な英語」と記している。そこには、補給への謝意と「真正に忠実な従僕」という過剰な敬辞、バタヴィア情勢への言及や書簡の取次提案など、脈絡の緩い話が混在していた。前夜までの威迫と、今朝の懐柔的な文言との落差は、ドゥーフの筆致にも戸惑いとして表れている。
とはいえ、これらの言葉は単なる気まぐれではない。補給が実現して当面の目的を果たしたフリートウッド・ペリューが、今後は「礼儀の形」の中で事を進めようとした表れと見える。宛名や書き添えにフランス語を交えたこと、誇張した言い回しが多いことは、当時の海軍士官が相手への敬意と自分の面目を同時に保つためによく用いた修辞だった。ドゥーフはそうした語法を理解したうえで、手紙の核心――補給を受け取ったという報告と出帆の予定――だけを冷静に読み取っている。
このような気分の揺れは、フリートウッドの若さにもよるのだろう。実際、彼は後日の報告書の中で、こうした補給を「自分の粘り強い要求の成果」であるかのように誇らしげに書き残している。
「私がなおも去勢雄牛を強く要求しつづけたので、彼等はそれらを入手するのに多大な努力をおこない、夕刻に我々は四頭の良質な去勢雄牛と十頭から十二頭の山羊、大量の野菜と薩摩芋、そしてまたもや薪と水とを受け取った。我々の船は長崎で去勢雄牛を獲得した、まさに最初の船であったのだ。」
自分に都合よく物語を組み替えてしまうこの調子は、威嚇と礼辞を自在に行き来した彼の態度と通底しており、若い海軍士官らしい勢いと軽さがよく現れている。
フリートウッド・ペリューは三日間のあいだに、調子の異なる書付と伝言を次々に発している。
来航当初は奉行所の照会に応じず、検使船をバッテイラで挟んでオランダ人二名を拘束し、夜には小艇を出して出島桟橋の至近まで接近し、
「明朝までに水と食糧を供給しなければ、港内の日本船および唐船を焼き払う」
と脅迫する書付を送りつけた。
ところが翌朝になると態度は一転する。補給を条件に「捕らえた者を返す」と述べ、約束どおりホウセマンとシキンムルを返還した。二人には食事と酒が供され、菓子を添えて歓待され、帰還のときには土産まで持たされている。さらに、ペリューは「敵意はない」との趣旨を伝えており(ドゥーフ記録)、前日の脅迫とは質の異なる言辞を用いている。
しかし、この変化を日本側の防備や毅然とした態度への「恐れ」と結びつけて理解することはできない。ペリューはすでに、港口の佐賀藩警備所に大砲がなく、出島桟橋に至近距離まで小艇を寄せても反撃を受けないことを確認していた。彼にとって長崎は、軍事的には無力に近い港と映っていた。したがって態度の変化は、軍事的評価ではなく、補給を確実に得るための実利的判断と、若い艦長特有の気分の変動によるものである。
正午、森山金左衛門が四通の英文書付を携えて商館に戻ると、ドゥーフはその文言を「不明瞭」かつ「不分明」と記し、要点だけを抜き出して奉行に伝えた。そこには、補給の受領、出帆予定、バタヴィア情勢、書簡の取次提案などが含まれていた。調子の変わったその書付を受け取っても、図書頭の方針は微動だにしない。補給は商館を通して行い、日本側は直接前面に出ない。その枠組みは終始変わらなかった。
図書頭にとって無法な異国船に補給することは本来許されず、補給を決めたのは、拘束されたオランダ人二名を取り戻すためにやむなく応じた例外措置にすぎない。よって、日本側は「商館補給」という形式を採ることで、国法と奉行所の体面を守りながら、最小限の供給のみを許したのである。
一方で、長崎側に広がっていたのは、単なる緊張ではなく、強烈な怒りであった。図書頭・松平康侯は就任して一年足らずの奉行であったが、英艦が国法を破り、しかも賓客であるオランダ商館員二名を拘束した行為は、長崎奉行として断じて許すことのできない侮辱だった。『通航一覧』や『用部屋日記』には、図書頭が第一報を受けた段階から、厳しさを帯びた口調で状況を確認し、立て続けに指示を飛ばし続けたことが記されている。
返還されたホウセマンとシキンムルが、英艦で饗応を受け、酒や菓子、土産まで持たされて戻ったと報告しても、図書頭は表面の友好を信じなかった。むしろ、番所の配置、火縄の扱い、消火体制、艀の統制、警備をさらに強めている。図書頭の対応は、責務を貫こうとする意志だった。英艦がどれほど強大であろうと、「踏みにじられた法」と「辱められた賓客」を前に退く理由はない。
以上のやりとりのなかで、イギリス側にとって目録は、脅迫の結果として補給を得た証のように映った。フリートウッド・ペリューは後日の報告書で、この補給を自らの強硬な要求の成果として語っている。
しかし日本側の立場はまったく異なる。図書頭にとって無法な異国船に補給することは本来ありえず、補給の決定はあくまで拘束されたオランダ人を取り戻すためにやむなく応じた例外措置であった。そのため日本側は、直接の給付ではなく「商館からの提供」という形式を採り、国法と奉行所の体面を保ちつつ、最小限の供給だけを許したのである。
イギリス側はこれを「要求が通った」と理解し、日本側は「形式と手順を崩さない例外措置」として扱った。目録が示す最大の意味は、三日間の危機のあいだ、日本側が一度も自らの枠組みを動かさなかったという、その一点にあった。