フェートン号艦上のフリートウッド・ペリューが目に見える戦利品の代わりにドゥーフの書簡を戦果として持ち帰ろうとしていたその夜、図書頭は異国船を何らの措置もなく出航させることを避けるため、港内に引き留める手立てをなお模索していた。
大村藩や諫早藩の軍勢が到着するまで、ただ時間を稼ぐしかなかったのである。
ドゥーフの回想記によれば(102p)、
「真夜中に、彼は再び私に、船の出航を防ぐ方法について助言がないか尋ねた。」
図書頭は、異国船と同じ西洋人であるドゥーフなら助言が出来るかもしれない、と考えたのだろう。必死で策を考える図書頭の孤立無援さがよくわかる状況である。
リアルタイムの記録であれば、通詞を通して聞いて来た、と書かれるところだろうが、25年後に出版になった回想記では詳細は省かれている。
この時ドゥーフは、
「私は日本側に十分な力があるとは考えていなかった。フリゲート艦は十分に武装していたからだ。私はそのことを率直に彼に伝えた。」
と答えたと言う。このような幕府の体面を汚すようなことを率直に言えたのは、ドゥーフが正直な意見を取り入れる度量のある奉行の人柄を理解していたからだろう。
一方で、リアルタイムの記録である商館日記にはこのような回答には熟慮して真正面から答えることを避けている(10月6日の日記。 214p)。このことは「78疑念」でも触れた。回想記を書くまでの25年の時節の経過が、彼の記憶をより単純にかつ正当化するように働いた可能性がある。
しかし、回想記では図書頭の問いにドゥーフは閉塞案を提案したことが記されている。
「私は彼に、パペンベルグ(高鉾島)といわゆるカヴァロス(伊王島)の間の最も狭い水路に、様々な小さな日本の港から集めた多数の船を石で満載して沈めるのに必要な時間だけ船を引き留めるよう助言した。これらの水路は非常に狭いので、どの船も通過することはできないだろう。」 (102p)
すなわち、パペンベルグとカヴァロスの間の狭い水路を沈船によって閉塞する案である。
長崎では、港口封鎖の前例がすでに知られていた。
その最も早い例は、慶長十四年(1610)のポルトガル船ダ・グラサ号事件である。
この時、有馬晴信は長崎奉行長谷川藤広の支援を受け、兵船三十艘、兵員千二百名に及ぶ軍勢を長崎港内に展開し、停泊していたポルトガルの大型ガレオン船ダ・グラサ号を包囲した。
日本側は当初交渉を試みたが、船長アンドレ・ペソアはこれを拒絶し、船に備えられた大砲を発射して日本側の船を撃沈・炎上させた。
これに対して有馬軍は小型船を用いて接近戦を行い、さらに長谷川忠兵衛が考案したと伝えられる「井楼船」を投入した。巨大なガレオン船は舷側が高く小船からは乗り込むことが出来なかったため、小舟の上に高い櫓を組み、甲板を見下ろす高所から攻撃するための装置であった。
数日にわたる戦闘の末、日本側の攻撃で船体に火が及び、ペソアは降伏を拒んで火薬庫を爆発させ、船を自沈させた。ダ・グラサ号は長崎港内で爆沈し、ポルトガル側は二百余名の死者を出した。
さらに正保四年(1647)、来航したポルトガル船に対して幕府は神崎と女神の間の狭水道に多数の小船を繋いで「舟橋」を架設し、港口を物理的に閉塞して退路を断った。約二百年前のこの事件の記憶は長崎町政層にも残っていたと考えられる。
五箇所宿老が、
「先年南蛮船焼き討ちの際、船仕切りは宿老が一手に引き受けさせられた例があり…」
と申し出ているのは、このような過去の出来事の伝承を踏まえたものであった。長崎の町政層には、異国船に対して港口を封鎖するという対応の記憶が伝承として鮮明に残っていたのである。だからこそ宿老たちは、これを引き受ける気概をもって申し出たのであろう。
当時の回船は、現代にたとえれば十万トン級タンカーにも匹敵するほどの経済的価値を持つ資産であった。そのような船舶を封鎖のために提供するという覚悟は、単なる勇みでは説明できない。
長崎の町政層には、港を守るために私財をもって応じる気概が、伝承とともに脈々と息づいていたのである。しかし今回の異国船は、当時のポルトガル船とは状況が根本的に異なっていた。フェートン号は港内に入らず、常に警戒して港口の外側に位置していたのである。
長崎港の入口には、神崎と女神の間に港口が著しく狭まる水道がある。港内に入った船は必ずこの水道を通過しなければならないため、ここを塞ぐことが出来れば港内の船の退路は断たれることになる。正保四年(1647)に来航したポルトガル船の際には、まさにこの地点に多数の小船を繋ぎ合わせて「舟橋」を架設し、港口を物理的に閉塞する措置が取られた。これは長崎港の地形を利用した典型的な封鎖であり、港内に入った船に対しては極めて有効な方法であった。
しかしフェートン号はその外側に位置していたため、この方法をそのまま適用することは出来なかった。神崎—女神の水道は港口の最狭部であるとはいえ、それより外側に出れば海面は一挙に広がる。港外にいる船を封じようとすれば、この広い海面を横断する形で封鎖線を構築しなければならない。
それは、神崎—女神の狭水道を塞ぐ場合とは比較にならない規模となる。必要となる船数も人員も大幅に増大し、当時長崎に集めることの出来る船舶や人足の数をはるかに超える作業となるのである。
すなわち、過去に前例のある港口封鎖の方法も、この時の状況では現実的な手段とはなり得なかったのである。
しかしこの閉塞策には、最大の障害があった。すなわち準備に時間を要することである。各地から船を集め、石を積んで沈める準備が必要であり、少なくとも翌日までの時間を要するとされ、計画は早くても次の夜にしか実行出来ないと言うのである。
さらに回想記では、
「この協議に同席していた日本の港湾長は、すぐにこの計画の実現可能性を図面を描いて証明し、直ちに進行して必要なすべての船を集めるよう命じられた。」
と記されている。
以上は回想記による叙述である。
しかし筆者は、実は『通航一覧』および商館日記の記述を見落としていたのである。
通航一覧には、オランダ人二人が拉致された直後に奉行所に避難して来たドゥーフらの様子が次のように描かれている。
「かぴたん、へとる(商館長と幹部)が色々と用部屋で方法につき落涙しながら話した様子、入港したイギリス船は傍若無人の有様、オランダ本国であればそれぞれ兵器の備えもあり、この船を留置してどのようにも水中から鎮めることもできるが、(われらは)他国の客(他国に住む客人の身)残念ですと頻りに落涙した。本国での留置法を聞いたところ一々法律にかなうことなので宿老共に申しつけ鉄鎖を打立させ、紅毛オランダ人が指図して平鎖厚薄大小手本の鎖を又左衛門持参して見せる。精を出して打ち立てる用命ず。今回用いなくても後日の役に立つことがあろう。」(415p、読点は筆者)
これはドゥーフの商館日記(10月5日)でも確認出来る。
「例の船を抑留するにはどんな手段があるか、また船上にはどれほどの乗組員がいるだろうかと尋ねられた。私は、もし加農砲四十門を備えた武装船であれば三百人以上の乗組員がいるはずであると答えた。これを当地に抑留するには、出港の際に通る出口に大型船を何艘も沈める以外に方法はないが、それには多くの時間と労力が必要であり、その準備をしているうちに船は出帆してしまうであろう、と述べた。」
これら三つの史料を照合すると、閉塞案は回想記に描かれるように事件の終盤に突然浮上したものではなく、もっと早い段階から検討されていた可能性が高い。
通航一覧の記事(恐らく用部屋日記の一部)は、「本国での留置法を聞いたところ」以下の部分が、それまでの叙述とは別に、後に起こった準備の動きをまとめて記したものと思われる。
すなわち、鉄鎖の製作が命じられ、オランダ人の指図のもとで見本の鎖まで持参されたという記述は、閉塞のための準備が実際に検討されていたことを示している。
鉄鎖を持参した又左衛門とは、高島又左衛門と思われる。高島家は長崎の有力商人で、町年寄の一人でもあり、海事・造船・資材に関係する家柄で港湾設備や船舶資材にも関わっていた。幕末には、この家から砲術研究家高島秋帆が生まれている。
また「57 侠気」で触れたように、五箇所宿老が
「私どもは先年南蛮船焼き討ちの際、船仕切りは宿老が一手に引き受けさせられた例があり、当時は力及びませんでしたが手附人足が五箇所会所に集合しておりますので、いつでもご用命ください」
と申し出ている。これは、港湾閉塞の検討が進められていた状況の中で、町政を担う宿老層が自ら人足動員を申し出たものと理解することができる。
問題は方法ではなく時間であった。
閉塞の準備には船の収集、資材の調達、人足の動員など多くの作業が必要であった。そしてその準備が整う前に、結果としてフェートン号は出帆してしまった。
図書頭が模索していたのは、異国船を撃退する方法ではなく、まず港内に留め置くことで時間を稼ぐことであったと考えられる。
長崎の防備は限られていた。フェートン号が四十門の砲を備えたフリゲート艦であることは、艦上に赴いた小通詞末永甚左衛門の報告からも明らかであった。このような武装艦に対して直ちに対抗できる兵力は長崎には存在しなかった。図書頭が求めていたのは、大村藩や諫早藩の軍勢が到着するまでの時間であり、その間に異国船を港内に引き留めることで事態の主導権を取り戻すことであった。
実際、この時の長崎側の行動を見ていくと、その多くが出港を遅らせることを目的とした措置であったことが、通航一覧および商館日記の記述からもうかがえる。
水の補給についても、まず一艘だけを差し向け、必要量の全ては翌朝に配給する扱いとしていた。これは補給をその夜のうちに完了させないための措置であり、少なくとも翌朝までは異国船を港内に滞留させる意図を示すものと言えよう。
また図書頭がドゥーフに出航阻止の方法を尋ねたのも、直ちに攻撃するためではなく、何らかの形で船を港内に留め置く手立てを探るためであった。
ドゥーフが提案した沈船による閉塞案も、同じ目的に沿うものであった。パペンベルグとカヴァロスの間の狭い水路に船を沈めて航路を塞ぐという案は、敵船を撃破する作戦ではなく、出港を不可能にすることによって時間を確保するための措置である。
さらに通航一覧に見える鉄鎖製作の準備も、港口を封鎖するための手段として検討されたものであり、これもまた船を港外へ出さないための措置であった。
このように見てくると、図書頭の一連の対応は無秩序な思いつきではなく、異国船を港内に留め置くことによって時間を稼ぎ、援軍の到着を待つという一つの方針に沿っていたことがわかる。
問題は方法の有無ではなく、その準備に必要な時間であった。沈船による閉塞にしても鉄鎖による封鎖にしても、船の収集、資材の調達、人足の動員など多くの作業を必要とする。その準備が整う前にフェートン号は出帆することになるのである。