8月16日(日本時間。陽暦では10月5日)の夜、奉行所西役所ではようやく一時の静けさが訪れていた。
前日から続いていた不眠不休の緊張のなか、最大の懸案であったオランダ人二名が21時頃(長崎オランダ商館日記ドゥーフの記録)帰還し、関係者の間には束の間の安堵が広がったと考えられる。
この時、大通詞たちにはいったん自宅に戻る許可が下された(異国船出現以来、50時間以上西役所に詰め続けていたのだろう)が、通詞目付の伝之進は、なおドゥーフに付き添って奉行所に留まるよう命が下された。深夜を過ぎた頃である。
ドゥーフは、朝から秘書官(上條徳右衛門)が詰めていた部屋に滞在していた。病状のため少しでも休息を取りたいと願っていたが、神経の高ぶりと不安がそれを許さず、伝之進とともにそのまま起きて過ごすことになった。
このドゥーフの不安は、オランダの敵対国であるイギリスの軍艦がドゥーフの部下の商館員二人を解放した後もなお食料と水の追加補給を求めて高鉾島脇に停泊していることであった。
ドゥーフの秘密(ヨーロッパの政治状況とオランダの政体を幕府に秘匿していること)を暴きかねない軍艦、ヨーロッパの現状とオランダの現在を知り尽くしている英艦がわずか5km先に停泊し続けているのは、耐え難い懊悩であった。
病状(体の不調がどういう症状かはドゥーフは書き残していない)が悪いためドゥーフは西役所内にいたが、表へ出れば夜の長崎港の沿岸に点々と篝火(かがりび)が見え、その先の暗闇に異国船(フェートン号)が潜んでいる筈である。満月ではあるが、フェートン号の視認は難しかったろう。
同じ西役所にいる甲冑姿の図書頭はドゥーフとは別の焦燥感に襲われていた。
図書頭は高橋忠左衛門の諫言で心理的に追い詰められてはいたが、職責を果たさねば、という彼の思いはいささかも削(そ)がれなかった。
北風は攻撃に好都合であるが、一方で異国船にとっても出航に好都合の風である。彼等が求めていた食料は野菜類に加え4頭の牛と11頭の山羊が既に補給済みである。水の補給は足留めのために1艘に抑えたが、とりあえずそれで十分と判断して出航することもあり得る。増援はまだ到着しないが、攻撃すべきではないのか?もし出航してしまったら長崎港の警備最高責任者として重大な失態になる。図書頭にとっては「失態」というよりも自らの責任を果たさねば、という彼らしい自責の念の方が勝っていただろう。
しかし、図書頭はこの土壇場でドゥーフの意見を聞かねば、と思い立つ。率いる兵力は自らの家来を始めとするわずかな手勢のみで、残りは恐らく役に立たぬ町人たちの警邏組織(町使散使)だけである。これでイギリスの軍艦に立ち向えるかどうか?彼は武人であったから、自分の命を投げ出すことには何の躊躇い(ためらい)も無かった。攻撃により死傷者が出ることも躊躇(いと)わなかったであろう。とにかく命が第一、という現代とは死生観がまるで違うのだ。
彼がもっとも恐れたのは不様(ぶざま)な敗北であり、それが御公議(幕府)の権威を地に落とすことだった。薩摩(島津)福岡(黒田)熊本(細川)佐賀(鍋島)の九州雄藩は陰で嘲笑うだろう。
朝の4時頃(日本最西端の長崎では曙光の気配も無い。満月[月の入りは朝7時]は稲佐山上に差し掛かっていた)、図書頭の命を受けて上條徳右衛門がドゥーフと傳之進の二人を呼んだ(長崎オランダ商館日記213p)。
「奉行は、敵艦を焼き払う覚悟である。しかし貴殿の意見を伺いたい」と。
これは実はなかなか出来ることではない。長崎奉行と言う地位は絶対的なNo1である。そういう地位にあると人によっては権威を保つために弱みを見せたくない、すなわち人の意見など聞くのはもっての外、と考えるタイプも少なくない。
だが図書頭は率直だった。自分に戦闘経験が無いどころか、長崎にいる誰もが現代戦を経験していない。武士といったところで1638年(寛永15年)島原の乱終息以来170年もの間戦(いくさ)はなかった。4年前のロシア使節レザノフの来航とそれに続く魯寇(ロシア使節への返答に憤慨したロシア側が1806年(文化3年)から1807年(文化4年)にかけて、ロシア帝国の軍人ニコライ・フヴォストフによって引き起こされた日本北方への軍事的襲撃事件)で対外緊張は高まっていたが、老中から長崎奉行に台場の調査と整備の指示があったくらいで本格的な対応はまだ手がついてない。
そういう事態を正確に認識していたからこそ、西洋の現実を知っているドゥーフに聞こうと思い立ったのである。
通詞目付傳之進に上條は「奉行の名において、今なお神崎に投錨している船を敵意をもって攻撃し、そしてもし可能であれば焼き払わなければならぬとする奉行の決意をどう思うか、私(ドゥーフ)の考えを尋ねさせた。」(長崎オランダ商館日記213p)
傳之進は、思うが儘のことをお伝えせよ、と上條に言われた通りに促したドゥーフは深呼吸して、気を静めたと思われる。これこそ異国船(フェートン号)が出現して以来、もっとも恐れ続けてきた質問であり、その答えについて懊悩し続けてきたからである。
ドゥーフは「そのような重大な質問に軽々にお答えするわけにはいきません。お時間をください」と言い、実際に熟考した。異国船攻撃の成否とそれによる結果がどうなるか、そしてそれはオランダ人の在留の正当性にどう影響するか、その鋭利な頭脳が高速で思考を巡らした。ひとつだけ明快なことは攻撃はおよそ無謀に過ぎないことだ。ドゥーフはその思考過程を日記(213pから215p)に詳しく書き残している。それは次の文章である。
「これまで当地長崎には、その数が総計でなお300人にも達しない僅かの兵士がいたのみで、あのような武装された船を征服するには決して充分耐えうる数ではない、ましてや日本の戦争のための装備は人々が悲しまねばならぬほどきわめてみじめなものであり (私の見た限りでは) 矢と弓、火縄付き燧石銃および砲車なしの加農砲以外には何も持っていない、その上に日本人は200年来、怠惰なそして惰弱な生活をして来た、それ故戦争に不慣れで、おそらくイギリス人が仕掛ける最初の砲撃で敗走するだろう、
そしてイギリス人はそれから幸先がよいと見て、しかも敵意を以て攻撃されたなら、間違いなく彼らは彼らの船かまたは武装した艀を以て長崎に来て焼き打ちをかけるだろう。 もしも一度そのようなことが起こったならば、日本国民は何と言うだろうか? イギリス船は単にオランダ船をしかもオランダ人たちだけを拿捕するために来た、そして今や長崎の住民たちは、オランダ人がイギリス人と行なった戦争のために、破滅させられた! とでも言うだろう、たしかにイギリス国民は当地では、スペイン人やポルトガル人同様に当地に来航することを禁止されている、しかし1672年(この年、当地にあったイギリス船としては、最後のものが知られている)以来、その措置はおそらくすでにかなり効力を失っていて、人々は、今いかにそれが考えられているかを知らない。
今や私は軍隊の脆弱さと日本人の惨めな戦争装備を知っているので、私は奉行に対し次のような回答以外に別の答えを与えることができようか、 すなわち、
まだ長崎には充分な数の兵士が到着していないので、私は例の船を黙って出港させるべきだと判断している、
と言うのは、私がそうではなく別のことを忠告し、そして奉行が私の勧告に従った場合は、長崎の大勢の生命の滅亡が私の良心を悩ますことになることは必定であるからである、イギリス人 (艦長) は、 彼の言うごとく、ただオランダ人を求めて当地に来たのであって日本人を求めて来たのではなく、しかもそれ故もし私が日本人たちをオランダ人のために戦わせようとするなら、それは破局を招くこととなりうるからである、と。」
こう思考した上で、傳之進とドゥーフがいる部屋に現れた大通詞中山作三郎に、奉行に対し次のように伝えるように言った。
「兵士と優れた武器が豊富にあったなら、 そして彼らの勝利が確実にされるならば、例の船を攻撃することはきわめて良策であり、また望まれることであるに違いない。
しかしながら、今なお長崎の兵士の数は決して充分ではなく、そしてそれ故もし少数の兵員をもって攻撃を企てるならば当然多数の兵士が無益に殺害されることになり、しかもイギリス人は当地で長崎ばかりか沿岸一帯を火と剣で破壊しつくすであろうから、
それ故私の考えでは、もしイギリス船が敵対行動を行なわないなら、同船を黙って出発させることが最善の策であるに違いない」と。
1777年に生まれたドゥーフは17歳で祖国オランダ王国がナポレオン軍に占領されて属国となる経験をしている。ナポレオン戦争は彼の日常であった。それだけに近代戦をよく理解しているし、国を閉ざして太平の世を謳歌していた日本の虚弱さを誰よりも承知していたのである。
このように日本側の戦力劣勢を指摘したドゥーフだったが、それは単なる軍事的観察ではなく、 攻撃を避けさせたいという彼の強い思いがあった。
その根本には、オランダという国家の正統性の危機があった。
何度も述べてきたことだがこの時のオランダは、すでにナポレオンのフランスによって占領されており、 「バタヴィア共和国」および「ホラント王国」という傀儡政権下にあった。
バタビア共和国(Bataafse Republiek)は1795年1月19日、フランス革命軍がネーデルラント連邦共和国を占領して成立し、1806年6月5日にナポレオンが弟ルイ・ボナパルトを国王に据えたことで終焉した。
その後に発足したホラント王国(Koninkrijk Holland)は1806年6月5日に始まり、1810年7月9日にフランス帝国へ併合されて消滅し、さらにナポレオン失脚後の1813年11月に「オランダ連合王国」が成立して、現在のオランダ王国へとつながっている。
正統なオランダ王はイギリスへ亡命しており、ドゥーフらが日本に対して 「家康公から御朱印状を授かったオランダ国の代表」であると主張する根拠は、事実上失われていた。オランダの実情が明るみに出れば、御朱印国としての正統性も、長崎商館の存在意義すら否定されかねない
オランダの現状について幕府に疑義を持たれないためには、このまま出航させるのが一番安心である。何としても奉行に「不戦」を決断させる必要があった。
ドゥーフは、奉行に対してこう進言する。
「私は御奉行に対し次のような回答以外に別の答えを申し上げることはできません。すなわち、『まだ長崎には十分な兵が到着しておりませんので、私は例の船を黙って出港させるべきと判断しております』と。
もしそれとは異なる忠告を申し上げ、御奉行が私の進言に従われた結果として、長崎の多くの命が失われるようなことになれば、私の良心は決して安らかではいられません。
加えて、イギリスの船長は、自ら『我々はオランダ人を求めて来たのであり、日本人を求めて来たのではない』と申しております。
それゆえ、もし私が日本人の方々をオランダ人のために戦わせようとすれば、それは難題をもちかけることになりかねません。」
このドゥーフの回答は図書頭(奉行)に伝えられたが、間もなく作三郎が戻り、奉行はこの答えをよく理解し根拠あるものと認めたが、なお書面で示すよう求めた。これは事件対応の重要な公式文書とすべき応答だからだ。オランダ王国の使節である長崎オランダ商館長(かぴたん)の発言はそれなりの重みを持つ
ドゥーフは逡巡した。「兵が足りない」と明記すれば、「幕府では、奉行にとって良くないことと受取られるに違いないからである」(日記原文)。そこで彼は、その点はあえて伏せ、自身の見解のみを記すことにするが、さらに奉行はこう尋ねた、と作三郎が告げてきた。
「イギリス船が来た目的は、本当にオランダ船を狙うためだけか。他の理由はあり得ぬのか」と。
この問いは一見素朴だが、ドゥーフにとっては死活的な意味を持っていた。ここで「オランダを狙ってきた」と答えれば、長崎に降りかかった災厄の責任はすべてオランダに帰せられることになる。ドゥーフは慎重に考えをめぐらしたうえで答えた。
「いいえ。敵の言葉をそのまま信じることはできません。私はそれを保証はできません」と。
ここには一つの計算がある。すなわち、イギリス来航の真因をオランダに帰さず、他の要因の可能性を示唆することで、幕府の矛先がオランダに向かうのを避けたのである。商館長としてのドゥーフの必死の知恵が、こうした一語に込められていた。
奉行はそのこともまたその書面の中に含めるように命じた、と伝えられた。
かくして大通詞助左衛門、多吉郎らの立ち会いの下、ドゥーフは筆を執った。
原文を下に記す(長崎オランダ商館日記4 216p)
「大通詞たちにより私に、\[奉行〕閣下の名において、次のような仕方でお話がありました。 すなわち、すでにお知らせしたように、オランダはイギリスと戦争状態にあり、そして今や一隻のイギリス船が当地に到着しましたが、それはオランダ船を征服する目的のためであり、そのことは私には甚だ遺憾なことですが、 それ故、閣下は同イギリス船を武力を以て抑留しようと考えておられ、そしてそれにつき私の意見を求められたので、このような信頼の証に対して署名者は閣下に心から感謝いたします。
そして上記イギリス船が当地に来航した理由はオランダ船を征服するためだと申し上げましたが、署名者はあえてそれと確定いたしません、と言うのは、敵の言葉や話したことは決して信用することはできないからです。
船長はその上、水とその他の食料品を恵与されるよう要求しました。そして、奉行閣下はそれらのものを彼に送り届けましたが、彼、船長は舷門のところに来てそれに対し謝意を表しました。
そしてその時、彼、船長は捕えられていた二人のオランダ人を解放しました。 そしてさらに彼は直ちに立去るつもりであり、 再び来るつもりはない、と言いました。
同船を今や閣下のお尋ねに従って征服する方法を署名者は充分熟考しました。 そして、同船を黙って出発させるのが最善の策と考えます。その理由は、もし同船を征服するならば、そのことは極めて望ましく、また良策ではあるに違いありませんが、しかしもし万一何かの事故によって、その見込みが立たなくなってそれをなし遂げられなくなり、 そしてそれ故におそらくほとんど損害を与えることができず、 同船をそれ故当地から再び沖に出させてしまう場合、私の考えでは、そのようなことはおそらく多くの事柄にとって一段と障害になるに違いありません。 それ故に、もし同船が彼〔船長〕の望みに従って出発するなら、署名者の意見では、船長は大いに感謝の念を抱くに違いありません。」
長い文書であるので、要約すると以下になる。
1奉行の問い:イギリス船を武力で抑留すべきかどうか、意見を求められた。
2敵の目的についての見解:イギリス船がオランダ船を狙って来航した可能性はあるが、それを断定はできない。また、敵の言葉を信用することはできない。
3食糧と水の要求・捕虜解放:船長は水と食料を要求し、奉行がそれを与えると感謝を表し、捕らえていたオランダ人二人を解放した。さらに船長は「すぐに去り、再び来るつもりはない」と告げた。
4武力制圧(征服)の可能性について:熟考の結果、イギリス船を征服することは「望ましいが成功が不確実」。もし失敗すれば被害は甚大で、事態はさらに悪化するだろう。
5結論:最善の策は「黙って出港を許す」ことである。そうすれば船長は感謝を抱き、長崎にとっての危険も避けられる。
ここで「イギリス船を征服することは望ましい」と述べたのは、もちろんドゥーフの本心ではない。ドゥーフにしてみれば、攻撃などすればどういう事態が出来(しゅったい)するか予想もつかないのだ。図書頭の体面を立てるための方便にすぎない。オランダ商館長として、図書頭に周到に配慮していたのである。
ドゥーフの回答文書は即座に大通詞たちによって日本語の書面となり中山作三郎によって奉行に届けられ、間もなく作三郎は戻ってきて、 「奉行は私の回答をきわめてよく理解し、そして根拠のあるのを知り、そしてそのことを書面にしてほしいと求めたと、言った。」(長崎オランダ商館日記217p)
奉行はこの文書に満足したと伝えられる。しかし一方で、秘書官筋はこう漏らした。「奉行は本心では攻撃を望んでいた。だが兵の不足を見てどうにもならぬと、胸が張り裂ける思いであった」と。
だが、この朝4時のやり取りもドゥーフが作成したという文書も日本側史料には残っていない。おそらく「書き留めよ」と命じられたが、最終的には「口頭+日記の記録」にとどまり、奉行所に残るような公式文書にはならなかった可能性が高いと思われる。
図書頭にとっていまや頼みの綱は大村藩の到着だけであった。大村藩からは出発の届けは記録にはないが届いていたはずである。それが早く来なければ異国船は出航してしまうかもしれない。それだけが大村藩だけが今や図書頭の唯一の頼みの綱であった。
その大村藩はこの時刻 、まさに大村湾対岸の時津港に向けて500人の軍勢が出船を開始したばかりであった。
しかし「71 大村藩出動」で見たように、異国船焼打ちに好都合な北風はその大村藩の大村湾渡海を散々な難儀にあわせ、長崎への到着は大幅に遅れることになる。
この頃、長崎の東の空は茜色が忍び寄っていた。晴天の兆しである。夜明けが間近であった。