上條徳右衛門は現代風に言うなら、奉行副官として図書頭の命を受けて行軍行列の指図をしていたことになる。だが上條の沈着冷静さがここでも窺えることになる。奉行所の隣にある岩原目付屋敷には中村継次郎人見藤左衛門と言う格上の幕臣がいるが、非常時の戦闘体制では指揮官たる奉行のNo.2は上條である。だから全力で図書頭の指示を達成するのが彼の役目である。奉行の命に応じて指揮しながらも、彼の理性は図書頭の異国船攻撃命令が無謀な企てである事を理解していた。だが奉行の命令を実行する彼が攻撃中止を進言することは出来ない。
だから図書頭の家来、筆頭用人である高橋忠左衛門に諫言させるのである。私(筆者)は図書頭の用人は高橋忠左衛門と木部幸八郎であることはわかっていたが、この件で高橋忠左衛門が筆頭用人であることが判明した。筆頭用人こそ主人(殿)に時によって諫言せねばならない立場であるからだ。
通航一覧(427P)にはこう記されている。
”勝手賄頭取左久へ兵糧送り方申付る、 ”という出陣の指揮慌ただしい中で「一高橋忠左衛門申聞候者、專御出陣之樣子御諫言 可申申候に付、先自分に而御諌め申候様相答 則同人落涙に面、御留守宅御老母之御心配を引御 諫め申候處、委細心得候間、案し申間敷と被答候樣 」。
「一、高橋忠左衛門が申し上げるには、これは専ら御出陣の様子であり、御諫言申し上げるべきとのことであったので、まず自分から御諫め申し上げるよう答えた。
すると忠左衛門は涙を面に流し、御留守宅の御老母の心配を引き合いに出して御諫め申し上げたところ、奉行は「委細心得た、しかし今は案じるまでもない」とお答えになったという」。
これを解説すると、図書頭は出陣準備に忙しい中で老臣の高橋忠左衛門が諫言しようとしているのを察し、「諫言するなら言ってみよ」と自ら促したところ、高橋は「老いた御母上様が(図書頭に何かあれば)どれほどお嘆きになりますことか」とまさに情に訴えて出陣を思いとどまらせようとしたのである。しかし図書頭は「わかっている。今は心配するな」と答えたのだ。
図書頭は高家旗本前田清長の三男であったが、旗本の小普請組松平舎人康疆に養子婿入りし2千石取りを相続した人である。だからこの老母とは婿入り先の養母のことであろう。 上條徳右衛門が老母のことを持ち出して諫言せよ、とまで細かく指示を高橋忠左衛門にしたのかどうか、はわからない。上條が高橋に「御奉行(あるいは鎮台と言ったかも知れない)は死ぬお積もりだ。諫言して阻止せよ」と言い、「ならば御母上のことで諫言申し上げる」という会話があったのだろうか。
高橋忠左衛門の諫言を受けた図書頭は、まったく動揺しなかった、とは言い切れない。当時の武家の心理としては、産みの母より婿入りした養母の方に、より道徳的な圧力を感じる事があり、それを分かっていて高橋は「老いた御母上様がどれほどお嘆きになりますことか」と諫言したのかも知れない。「わかっている。今は心配するな」と答えた図書頭にはこの「情」による説得は意外と効いたのではなかろうか。老母のことなど気にしなければ「「何を申すか!この非常の折に老母を持ち出して己が身を保たんとは、不忠不義の至り!そちは奉公の道を忘れたか!」と怒鳴りつけたかも知れない。「わかっている」とは、すなわち老母のことを気にしたという証である。 一方で、現実には港内の小早船の準備、火器や兵糧の配備、町民の避難誘導など、多くの準備が未完成であったろう。用部屋日記には、奉行所が唐方年番通詞に命じ、唐船を梅ヶ崎へ避難させる措置を講じたことが記されている_が、このこと自体が戦闘準備の慌ただしさを示している。
この夜、佐賀藩が用意すべき一千人の警備兵が実際には百人程度しか現地におらず、福岡藩・大村藩・諫早藩などへ至急の増援を指示したが、いずれも未だ到着していない。図書頭の家来十数人、岩原目付屋敷の中村継次郎と人見藤左衛門、幕府派遣の六人の与力(検使役で失態を演じた菅谷保次郎と上川伝右衛門など)と十人ほどの同心、などが実戦力として見込める武士である。町使散使などの町役人は数は数十人単位だがそもそも武術の心得があるかさえ不確かである。市内には14の藩が蔵屋敷を置いているが、駐在しているのは佐賀藩の聞役関傳之允のように武士の風上にも置けないような腑抜けの武士かも知れず戦力としては未知数である。
図書頭の懊悩と焦燥は募るばかりであった。その胸中に湧いたのは、異国船と同じ紅毛人(ヨーロッパの人)すなわちドゥーフに尋ねてみよう、ということだった。