73 北風

「奉行所では万事が少しく静かになったので、大通詞たちは一度彼らの家に帰る許しを得たが通詞目付は私のもとに留まるよう命ぜられた。その時は十二時頃であった」。

これは長崎商館日記213pのドゥーフの記述である。8月16日(和暦)の夜、拉致されていたオランダ人二人が帰還したことで、大きな課題の一つが取り敢えず実現し、異国船出現から続いていた不眠不休の緊張のなか、束の間の安堵が広がったと考えられる。

ドゥーフは、朝から秘書官が詰めていた部屋に滞在していた。病状のため少しでも休息を取りたいと願っていたが、神経の高ぶりと不安がそれを許さず、通詞目付伝之進とともにそのまま起きて過ごすことになった。大通詞だちが帰宅したので、いざという時の通訳として通詞目付が付き添っていたのであろう。

だが、寝つけなかったのはドゥーフだけではなかった。図書頭と彼の配下も寝る余裕など無かった。日本国法を踏みにじった異国船を放置するしておくことは出来ないからだ。図書頭としては、オランダ人を解放し、ある程度の食料の補給が済んだ事がかえって別の心配を生んだ。
「出航してしまうのではないか?」という心配である。水の補給は意図的に水船一艘に抑えたが、異国船としては「それで良し」として出航する可能性がある。そういう事態になったら不法入国船を処罰する奉行の職務を果たせなくなる。

本来の図書頭は冷静沈着な人である。だがこの時は違った。異国船の出現以来、錯誤の連続だった。国禁のイギリス船が無法に侵入し幕府の保護下にあるオランダ人を拉致すると言う前代未聞の大事件が勃発したのに、長崎港警備の年番である佐賀藩が手抜きをして一千人の警備体制であるはずが百人程度しかいないことから始まって、何もかも思い通りに動かないもどかしさで胸の中は一杯であった。加えてオランダ人拉致から既に30時間以上が経過したがこの間は不眠不休の緊張と憤怒と後悔の念で心が休まることは一瞬たりともなかった。平常心を保つにはあまりにも過酷な状況であった。

オランダ人が帰還した今、異国船はなんとしても打ち破らねばならない。そう思い詰めていた図書頭に思わぬ知らせが届いた。風が北からに変わったと言うのだ。この当時、船旅はまさに「風まかせ」である。港町では風見(かざみ)は重要な務めであった。オランダ船唐船が来航する長崎港では常時観測していたはずである。

北風という知らせに図書頭等は色めき立った。長崎港は南北に長い。鶴の港と呼ばれるように、外洋から鶴が首を伸ばした形で長崎港は形作られている。その首の根元が港口だから異国船は長崎港の南端に停泊している。北風ならこの異国船を火炎で攻撃しても炎や火の粉は長崎の市街には降り注がない。

図書頭は俄かに、異国船攻撃を決する。16日深更である。佐賀藩の警備陣も福岡藩も大村藩も諫早藩も、緊急出動を命じた兵力はいずれも長崎に到着してはいない。しかしやるしか無いのだ、と言う(失礼だが)自暴自棄な思いも多少あったのでは無いだろうか。この時の様子を通航一覧(425P)は 次のように伝える。

「十六日夜、北風烈敷御座候に付、焼討十分之御都合申事にて、俄かに其御手当てにて御乗船之小早船も、大波戸に打廻り幕張相調、御手廻り之人数は勿論、市中御供之人數も追々打揃候」。すなわち、
「北風が烈しく吹いていたので、焼き討ちの準備は十分に整ったとのことで、急ぎその手当として、御乗船の小早船も大波戸に回し、幕を張って調えた。御手廻りの人数はもちろん、市中からの供の人数も次第に揃った」と言う。

小早船(こはやぶね)とは、江戸時代の長崎港で港内警備や連絡用に用いられた小型・高速の、喫水が浅く浅瀬でも自在に航行できる機動性を特徴とした長さ10mから15mの和船である。この船の屋形の部分に白黒または白紺の幔幕を張り巡らして奉行公用で乗船を示したのである。
だが用部屋日記では、この準備状況をもっと生々しく伝える。すなわち、
「一)唐方年番通詞呼出し、唐船不殘梅が崎へ引込候様に申渡す 一)手勢行軍行列書被成御渡、徳右衛門請取之、諸物頭へ相圖定置、 一」奉行出陣に付、海陸備方、旗、長柄、鐘、太鼓、行列奉行差引、玄關より廣間へかけ明き間もなく並へ立る、 一)勝手頭取左久へ、兵糧送り方申付る」と緊迫した動きを描いている。

「一)唐方の年番通詞を呼び出し、唐船を残らず梅ヶ崎へ引き入れるように申し渡すこと。  一)手勢(武装した部隊)の行軍・行列の書付をお渡しになり、徳右衛門がこれを受け取り、各物頭(部隊指揮者)へ図り定め置くこと。 一)奉行が出陣するにあたり、海陸の備え方、旗、長柄、鐘、太鼓、行列の順序を差し引き、玄関から広間へかけて、間を空けずに並び立てた。一)勝手方(台所)主任の佐久に兵糧の準備を命じた」と言うのだ。この通りなら図書頭自らが行軍行列を指示したこと(書付は祐筆と言う書記役が清書したのだろう)になる。

上部へスクロール