長崎奉行松平図書頭の出動指令は、飛脚と早舟によって伝えられた。
福岡藩は、黒田家が統治する西国屈指の雄藩であり、島津藩と並ぶ存在と見なされていた。初代藩主黒田長政は関ヶ原の戦いにおいて東軍の中核を担い、筑前52万石を与えられた名将であった。以降、黒田家は「武断の藩」としての気風を育み、藩士たちは黒田節に象徴される敢闘精神と忠義を重んじてきた。戦場での果敢さを美徳とする精神は、平時においても藩政と軍備の根幹を支えていたと見られる。これは佐賀藩との大きな違いで、この出動指令への対応に大藩どうしながら両藩の違いが如実に浮かび上がる。
8月16日未明、飛脚が福岡城下に到着すると、ただちに城中で緊急評定が開かれ、非番であることを顧みず「国家の大事」として長崎防衛出動が決定された。海路と陸路の二手に分かれて出動準備が進められ、藩士らは一糸乱れぬ迅速な動員を示した。
海路では、砲隊を中心とする約300人の先発隊が御座船2隻に乗り込み、博多港より出発した。武器は博多浜御蔵から急ぎ搬出され、石火矢6門、鉄砲150挺などが積載された。先発隊は海上防衛と港内支援を想定した機動的編成であった。
一方、陸路の本隊は約700人が編成され、福岡城を出立後、唐津街道を南下して長崎を目指した。本隊は唐津城下を経由して有田に宿泊し、翌日の進軍に備えた。陸路進軍では補給路の確保と沿道の治安維持も担い、全体の防衛線を補強する役割を担った。
8月17日午前には、海路の先発隊が壱岐水道を航行中であり、本隊は有田に到着していた。福岡藩の海陸両面からの迅速な出動は、黒田家が代々培ってきた武家精神と藩の誇りを体現するものであり、その緊張感と規律は他藩にも強い印象を与えたと伝えられる。
これらの詳細は、『長崎御番手続控』や黒田家年寄留書などに詳述されており、福岡藩が非常時にいかにして組織的かつ誇り高く行動したかを今に伝える貴重な史料となっている。