8月15日、異国船(フェートン号)に旗合わせ(バタビア発のオランダ船か、の確認手続き)のオランダ人二人が白刃を振るわれて拉致された、との第一報が入った時、長崎奉行松平図書頭は大村藩に長崎港周辺の大村藩領地
の警備を厳重にせよ、と命じた。しかしオランダ人二人を拉致したまま異国船が出動する可能性があると見て、大村藩に異国船攻撃のための出動を命じた。これを受けて大村藩は即座に出動態勢に着手した。これは財政窮乏に貧した佐賀藩の対応とはまるで違って迅速果敢なものであった。
大村藩への第一報は長崎駐在の聞役北条杢之允からのものである
「文化五年八月十五日夕方、紅毛船が沖合に姿を見せ、合印のため野母の御番所に立ち寄ったとの報告が、小瀬戸の御番所経由で波戸場役所から届けられました。その後、同船が野母沖二十五里の地点に見えたとの注進もございました。
これを受けて、在留の紅毛人に使者を差し向けましたところ、紅毛人は船に乗って異国船に接近しようといたしました。しかし、異国船側から小舟が下ろされ、紅毛人が次々と乗り移る様子が見えたため、警戒して差し止めた結果、両者とも引き返しました。
なお、奉行所役人らは沖合に留まり、使者は戻って御奉行所へ注進したとのことです。右の船はオランダ船との認識でございます。以上、取り急ぎご報告申し上げます。
大村右膳様
大村永學様
八月十五日 北條杢之丞」(日英交通資料(10)4p)
とある。オランダ船との認識など、事件後の緊急報なので不正確である。この一報は恐らく大村藩へは真夜中に届いたと思われる。長崎市中から時津街道(西彼街道とも言う)を10㎞北上すると、大村湾の時津港に着く。そこから船で14㎞も漕げば大村の市街である。時津へ向かわず、東へ日見峠を越えて諫早経由で行くと十里(享和2年1802年肥州長崎図(「長崎奉行」外山幹夫に収録))だから、時津経由で飛脚が走ったのは間違いない。
深堀藩諫早藩(いずれも佐賀藩支藩)を除けば、真っ先に急報が届いた藩であろう。
報告を受けた大村右膳は家老、永學は詳細は分からないが藩主一族の高官と思われる。
大村藩は諫早藩や深堀藩のように佐賀藩の支藩ではない。独立した藩である。初代藩主・大村喜前は関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、徳川家康から所領を安堵された。その後、大村藩主は日蓮宗に改宗し、キリスト教を厳しく弾圧した。藩の石高は約27,900石であり、藩校として五教館を設置し、教育にも力を注いだ。ほぼ3万石の小藩だが、この時期別に珍しいことではない。
文化年間(1804〜1818年)全国の藩数が約 270藩前後に対して三万石以下の小藩は160から180藩にも上った。だから当時の平均的な藩の一つと言ってもいいだろう。ただ豊かではなかった。東に多良岳が聳え、耕作地は海岸沿いに限られる。主食はサツマイモであったと言われる。
それでも藩風であろうか、士気は高く(これは恐らく藩主によるものだろう。大藩佐賀藩は藩主斉直の蕩尽で財政危機にあり、長崎出動の要請を受けて徹夜で激論が続いた(古賀穀堂日記)有様だった。
北條杢之丞の報告と相前後して長崎奉行松平図書頭からの長崎港領地の警備固め、続いて出動指令が届いた筈である。
動員令が藩内に下令され、出動準備を始めると当時に、もう一つ極めて重要な課題があった。幕閣への報告である。江戸幕府成立後の過酷な武断政治の時代から綱吉以降の文治政治になって久しいが、それでも軍勢を勝手に動員するわけにはいかない。家光までの武断政治であれば即座に改易か御家断絶になって当然だった。
幕閣への報告は16日に至急飛脚が発った。だが当時は台風の後だったのだろうか、行く先々で増水に阻まれた。通航一覧407pによれば「赤間関(関門海峡)渡りの際風向き悪く大井川満水のため遅延」し、ようやく9月3日の酉中刻(午後6時ごろ)月番老中大井大炊頭(おおいのかみ)利厚のお取次ぎ落合權平方に笠坊八助が持参、届けられた。実に17日後である。
この笠坊八助は大村藩士ではなく「「笠坊」は姓ではなく屋号や通称のようなもので、江戸時代に下級武士や町人、飛脚などが所属や職務、居所を示すために用いた「〇〇坊」という呼び名の一例と考えられます(ChatGPT調べ)」というから飛脚の名前である。
大村藩だけではなく、諸藩の届けも相次いだ。8月晦日(30日)に佐賀藩主と島原藩主、9月4日には福岡藩の届けが老中の元に届いている。
佐賀藩の届け出は、事件のあらましを述べた後は「在留オランダ人にも同様の措置が必要と判断し、別に使者を派遣して事情を厳しく追及する方針とした。万一の不測の事態に備え、長崎の警備を強化し、藩士にも出動を命じた」と詳細を述べていない。実は詳細の述べようがないのだ、実態が無いのだから。
一方で福岡藩の届け出は「手当ての人員として、家老の黒田源右衛門を早速派遣した」と迅速な対応が記されている。実際、黒田源右衛門は大軍を率いて8月18日に長崎に到着した。この差は際立っている。
通航一覧の407pには大村藩の届けが笠坊八助が届けたとなっているが、日英交通資料(10)401pには「当初今道佐助を江戸早追御用人として今道佐助を指名したが今道佐助が長崎出動のため山口市九郎が侍飛脚となったとある。この山口の江戸到着と老中への届け出は通航一覧には収録されていない。上記の福岡藩の届け出は家人(福岡藩士)とあるが、これは福岡藩の侍飛脚ではなかろうか。事の重大さから、諸藩は急ぎの飛脚と侍飛脚を合わせて発送したのかもしれない。なお、この侍飛脚は特に誰とは決めてなく足の速い者を選抜したとChatGPTは言う。
大村藩では出動に備え
(例えば島原藩)
✅ 基本的な解釈
「笠坊八助」は、おそらく大村藩の公用飛脚もしくは下級の藩士・用人であり、幕府の老中(土井大炊頭利厚)に緊急の文書を届ける役目を担った人物と考えられます。
✅ 名乗りとしての「笠坊」
「笠坊(かさぼう)」は、姓ではなく屋号や通称のような性格をもつ言葉と見られます。
→ 江戸時代、下級武士や町人・飛脚などにこうした通称がつく例は多く、「〇〇坊」と呼ばれることで、所属や職務、居所を示していたこともあります。
「笠坊」は、おそらく飛脚宿や藩内の某施設・役所の名、または家筋を示す屋号的呼称であり、そこに属する者・もしくはそこの出の者である「八助」という人物という意味になります。
✅ 八助という名について
「八助」は、当時よくある名乗り(庶民名、通称)で、飛脚・役人・足軽・小者などに多く使われた名です。
✅ つまり…
「笠坊八助」は、大村藩の命を受けて江戸に向かった公用飛脚または使番(しかばん/伝令役)であり、特定の飛脚宿もしくは役宅に属していた人物である可能性が高いです。
幕末期には薩摩藩や長州藩とともに倒幕運動に参加している。
結論を急げば先陣を切って長崎に到着したのが大村藩。大軍を率い堂々たる体制で到着したのが福岡藩であった。
大村藩出動時の部隊編成と藩士名表
大村藩では出動に備え、以下のような部隊編成と人員を準備した。これは「通航一覧」や関係史料に記載された記録に基づくものである。比較的小藩ながらも迅速な編成が行われた点は特筆に値する。
分類 役職・兵種名 人数 備考
火器部隊 手筒之者(火縄銃手) 6 手筒(火縄銃)担当
火器部隊 鍵砲(カノン砲) 10 大筒支配(砲術担当)
火器部隊 餓砲之者(砲兵) 5 別部門の砲兵
火器部隊 砲足隊 6 砲器運搬・操作補助と推定
音楽隊 伶人(第1記録) 8 軍楽隊(太鼓・笛等)
音楽隊 伶人(第2記録) 3 同上・別記録により追加
支援部隊 給人足附(兵糧係) 5 糧食・台所業務
歩兵隊 足軽(歩兵) 6 複数箇所に登場(6人明記)
警備役 石火矢役(薬師寺久左衛門) 1 正面警備担当者として名指し
なお、この編成表に記載された人数は、記録に残った特定の部隊・役職の数であり、大村藩出動時の総兵力全体を示すものではない。史料に現れないその他の歩兵・支援要員などが相当数動員されたと考えられる。
また、出動藩士名として以下の者が確認されている(順不同・重複名も含まれる)。
番号 氏名
1 松岡右往之丞
2 北俊安之丞
3 一瀬久右衛門
4 古川波友衛門
5 松添仁兵衛
6 小付藤助
7 朝長恕兵衛
8 総兵衛
9 戸内山永茂三郎
10 中嶋珂右衛門
11 今井才八
12 石忠兵衛
13 吉村武八
14 関川武太夫
15 朝野四郎八
16 加瀬順治衛門
17 河野時間布衛門
18 添作永柏
19 山川八郎
20 細川弘随
21 佐藤義右衛門
22 野嘉兵衛
23 林じ
24 淵山武信
25 佐川防総栄
26 小川十郎兵衛
27 山口琢助
28 山川幸太夫
29 石橋五郎治
30 池川市崎七郎
31 今村町T助
32 林健兵衛
33 今里丸兵衛
34 浦町帯八
35 河野戸一郎
36 森挙兵衛
37 岡村議助
38 富永慾七
39 永粥左衛門
40 上野儀兵
41 加瀬順治衛門
42 山川徳五郎
43 松内山永茂三郎
44 石火矢薬師寺久左衛門
45 井上元助
46 北脇陣外街
47 山尚之丞
48 今道成治
49 小佐舟路勝
50 石井才太
51 井石忠兵衛
52 野城定勝
53 千議応
54 瀬多背骨太
55 河野時間布衛門
56 脱却問調忠
57 河野戸一郎
58 浦町帯八
59 山事徳五郎
60 戸森挙兵衛
61 羽田記和太
62 岩永助衛門
63 中村平八
64 宇都繁記
65 篠山孤門
こうした編成と人員により、大村藩は迅速に長崎港周辺警備・出動態勢に入った。後続の諸藩とは対照的なその即応ぶりは、当時の史料にも強く印象を残している。
さらに、大村藩出動に際しては、当時の風況も重要な要素であった。通航一覧 p.440 によれば、文化五年八月十七日付 大村上総介の御届として、「今暁(八月十七日未明)寅の刻(午前四時)に時津港へ向けて出船し、風波強かったが強行に渡り、午の刻(正午)に時津に着船した」旨が明記されている。これは崎陽日録に記された「北風が強く、焼打ちには絶好の条件」とする長崎奉行松平図書頭の判断と完全に一致する。加えて、この御届文中には「十六日夜、焼打ちの予定」と明言されており、奉行方がすでに実戦投入を視野に入れた出動計画を持っていたことがわかる。\ \ 特筆すべきはその対応の迅速さである。出動命令が長崎駐在の家来を通じて伝達されたのは今子(八月十七日午前零時)であり、そのわずか四時間後の午前四時には大村藩の出船が実行されている。小藩ながら極めて高い準備態勢と士気の高さを示す出動であり、他藩と比較しても迅速な初動対応の代表例といえる。\ \ このように、通航一覧と崎陽日録の双方の記録が相互に符合することで、大村藩出動当夜の行動状況と気象状況が史料的に裏付けられた形となっている。この点は、フェートン号事件における当時の緊迫した軍事対応の一端を如実に示すものとして、極めて重要な意味を持つ。