「降りて来た二人はオランダ番船に乗り、石橋助左衛門等と漕ぎだしたところ、3艘ほどの小舟が近寄り「オランダ人は降りたか?」と尋ねた。これは監視役の御役所付きの町役人で、彼等の指示で御番所方面(フェートン号のいる沖合から長崎港内方面)へ乗り返し、菅谷保次郎と花井常蔵が乗る佳行丸へ乗り移った。そこで沖の異国船の様子をひと通り尋ねられた後、菅谷保次郎がオランダ人二人と石橋助左衛門岩瀬弥十郎を連れて別船に乗り庁(奉行所)へ向かった。残った人見藤左衛門は戸町番所へ、山田吉左衛門は西泊番所へそれぞれ行き、「紅毛人二人とも取り戻したが御番所の人数が揃わず打ち払うことが出来ない ついては異国船が出帆しようとも止めることもなくそのまま出帆に任せ御番所の警備は厳重に固めるように」と西泊番頭鍋島七衛門・戸町番頭蒲原次右衛門に命じ(この二人は事件後切腹の運命となる)、御役所附遠見番両組の番船へ異国船を見守り怪しいことがあれば直ぐに急報する様に言い渡して人見藤左衛門花井常蔵荒堀五兵衛木部幸八郎一同も奉行所へ引き上げた。庁では二人のオランダ人が上陸したとの報をカピタン其の外が聞いて廣間から出迎え二人に面会し喜びは限りなかった カピタンが言うには誠にお陰様で二人が無事に戻って有難うございますと作三郎を通じて申し上げる」と崎陽日録は伝えるが、この場面はドゥーフが書いた商館日記209pがより詳細である。
「九時頃に捕虜となっていた両代表委員が上陸して来た。 そして直ちに奉行所へ案内されて来た。そこには私もいたが、その場ではすぐに秘書官(上條徳右衛門であろう)が来て、奉行の名において、彼らが解放されたことに対して祝辞を述べた。そして私は彼らのために秘書官に対し、捕虜を解放させるために閣下がとった労に対する私の感謝の意を奉行に伝えるように頼んだが、秘書官はそうすることを約束した。その後、なおその他多くの奉行所の人々が、捕虜の方々が解放されたと聞いて、 祝辞を述べに来た。そのうちには(菅谷)保次郎様およびゲンネモン (上川伝右衛門)Gennemon 様という名の二人の検使もいて、彼ら両人は、奉行から、二人のオランダ人か、さもなくば 〔イギリス〕 船乗組員のうちから二人を拉致するよう命令され、もし彼ら両検使がそれをし損なったら二度と再び生きて奉行所に顔を出すことはできいとされていた。 私は、それらの方々にも挨拶を行なった。 そして上記の方々が置かれている酷しい情況に対して遺憾の意を表した。しかしながら、 今や彼らは二人のオランダ人を解放し連れ戻したので、私は彼らに、この幸運な事件の結末を見たことに対して祝意を述べ、そして彼らはそれに対して私に謝意を表した。」
ここでは菅谷保次郎と上川源右衛門がこれで切腹が免れるだろう、というドゥーフの憶測が述べられている。
ドゥーフがオランダ帰国後に書いた日本回想記Recollection of Japan(英文)102pにはさらに詳しく以下のように書いている。
「オランダ人代表の帰還を担当していた2人の主要な検使ほど喜んだ者はいなかった。彼らの解放がなければ、この2人の検使は死ぬまで戦うか、切腹するか、あるいは別の恥ずべき死に方をしなければならず、それは彼らの子孫が不名誉とみなされることを意味していた。オランダ人の帰還は彼らにとって死刑からの解放のようなものだった。やがて彼らは江戸に向かったが、二度と長崎に戻ることはなかった。その後、私は2回江戸に行ったが、彼らの消息を聞くことはなかった。」
これは詳しくのちの章で触れるが、彼ら二人は事件後「免職」という厳しい処分を受け、逼塞した暮らしをしていたからである。
解放された二人はドゥーフに短い報告をしたが、商館日記210pには次の様に記録されている。
「彼らは、昨日昼、彼らの受けた(ドゥーフの)委任に従い、検使の方々とともに、この湾に向かって帆走している船はどこの船かを問合わせるため、沖へ航行した。彼らは五時頃検使の方々とともに、他の旗がなく、オランダの旗だけを所定の場所に翻していた船に向かって航行した。彼ら〔の小船〕は検使の乗った小船の側に寄り添い、検使から、いかなる船かを尋ねるよう命ぜられたが、その時、例の船からオランダ船だと大声で叫びかけられた。
そうこうする間に、一艘の艀が船から下ろされ、それはあっと言う間に両代表委員の小船に近づいた。そして両代表委員はもう一度それに向かって、これはいかなる船かと尋ねたところ、それに対し艀の艇長はバタビアから来たオランダ船だ、そしてさらに皆様は艀に来なさいと言った。そこで両代表委員は、それはできない、われわれは検使の方々と一緒なら乗船しようと答えた。
すると途端に伝声器(メガホン)で船から何やら呼びかけがあり、その瞬間数名の鞘を払ったサーベルを持った乗組員たちが両代表委員の船に飛び移って来て、そして暴力で両代表委員を無理にボートに連行したが、そのさいスヒンメルは彼の帽子と靴を失なった。彼らはそれから船上へ、そして船長(艦長)室へ連れて行かれ (オランダの旗はその間ずっと翻り続けていた)、そこに間もなく船長(艦長)が二人の兵士を連れて入って来て、そして来航船の士官たちへの警告のいつもの手紙(入港時の注意書き)と、同じくまた代表委員たちと検使たちの間に起こった出来事の記録を彼らから奪い取った。ついで二人の兵士は彼らの抜き身のサーベルをかざし、船長の命令で、各々の胸の上にそれを突きつけ、そしてそのままの状態で船長はオランダ船はどこに碇泊しているかと尋ねた。それに対し彼ら両代表委員は、今年はまだ船は来ていないと答えた。それに対して船長は「私が見に行く」と言った。そう言うと彼は果して数艘の武装した艀で船から離れ、そして夜十時頃に戻って来た。そしてその時、彼らに短い手紙を一通書くように命じた(これが私が夜12時4、5分過ぎに受取ったものである)。それから、彼らが船上にいた間ずっと船長または士官たちは、もしも本日昼に食料品が早く来るように配慮するため上陸したホーゼマン自身が戻って来なかった場合は、 彼、船長はスヒンメルの首を切ると言って、なおも脅かしたことを除いては、彼らを丁寧にそしてよく取扱った。代表委員たちと船長に関して起こった応酬はすべてカラカス生れでメッツェラールと言う名を持つオランダ人によって通訳されたが、同人は水夫として〔この船で〕働いているが、エリザベート号に乗っていて捕えられたと言っていた」と。
私は両代表委員に、船上で起こったすべてのことについて文書により報告するよう命令した。
この日記によると、石橋助左衛門は補給品を届けた際の出来事を次の様にドゥーフに話している。
「船長は、彼のところになお艀二艘分の薪と艀五艘分の水、 それになお二俵分の馬鈴薯が送られてくるまでは代表委員たちをまだ解放する気はなかった、しかし助左衛門は、それらのものが明朝早い時間に運び込まれることを誓って約束したので、遂に捕えられていた代表委員たちは解放されることになった」。これは「66章ホウセマン再び」に引用した崎陽日録32pの通りである。
崎陽日録33pには、「用人上條徳右衛門が二人のオランダ人と会い異国船の出来事を尋ねカピタンが書簡で答えた」とあるが、それと合致するドゥーフの日記(オランダ商館日記
にはこう書いてある。
「すべての大通詞たちは奉行の名において、私に、できるだけ短い期間のうちに
簡単な報告を、しかも江戸において理解されるほどに明瞭な報告をするように」と命じたというのだ。図書頭の指示が上條を通して大通詞たちに伝えられ、それをドゥーフに命じた大通詞たちが「江戸において理解されるほどに明瞭な報告」と念を押したことは実に注目すべき事柄である。
19世紀の人々は例外なく実に大袈裟な字句で文章を飾る。「赫々たる武勲に輝き慈愛を以て領民を収める○○閣下にその忠実な僕(しもべ)である○○が恐れ多くも伏してお願い申し上げます」と言った具合である。
その文体のせいもあるだろうが、ドゥーフの用心深さもあったろう。彼等オランダ人は常時監視下にあり、幕府と奉行の窓である通詞たちもいざという時はドゥーフに責任を擦り(なすり)付けてくる。だから注意深く、言質を取られないように書く必要がある。その上、書く内容には嘘もあった(本国オランダが消滅したこと、アメリカが独立国家となったこと、等々)から回りくどい文書だったのであろう。
それに加えて長崎の通詞たちのオランダ語の文書の読解能力もある。事件に関わった通詞の中では石橋助左衛門と馬場佐十郎が優秀な通詞として名を馳せているが、オランダ語の構文のニュアンスを正確に当時の日本語(これまた現代と比べると表現が直截的ではないことが多い)に反映することはかなりの困難があったろう。外国語の構文に馴染みのない幕閣高官には「明瞭な報告」と認識されなかったこともあったのだろう。
この命によってドゥーフが提出した文書(商館日記211p)は次の通りである。
「尊敬する長崎奉行松平図書頭様
イギリス船はイギリスを出発し、そして高鉾島の島かげに投錨しました。 その船の船長はホーゼマン(注、商館日記はホウセマンをホーゼマンと表記)に、その船はイギリスを出発し、 そしてその地からベンガルに行き、この最終の地から49日で当地に到着したが、イギリスから当地まで合計八か月の航海であった、と話しました。船長の言によれば船の乗組員の数は350名であります。
同船来航の目的につき、イギリス船長は、オランダ船を拿捕するために来たのだ、と言いました。オランダのいつもの代表委員たちをイギリス船長は、翻訳と情報のために、策略を以て捕えました。そしてイギリスの船長は、次のように言いました。すなわち、日本人に損害を与えるために来たのではない、そしてきわめて長い間旅をしたので、食料品と水が欠乏した、 そしてそれらのものを捕虜になった代表委員たちを通じて船長(敵である)の名において、署名者 〔商館長〕 に要求しそしてそれが得られたら、 両オランダ代表委員を直ちに解放するだろう、と。そして今や水と食料品が船に送られて来ました。その好意により欠乏は除かれました。 そして船長はオランダ代表委員を解放し、そして水と食料品が送られて来たことに感謝しました。そのことによって上記の船長は、できるだけ速やかに出発し、再び戻って来ることはないだろうと言いました。 云々。」
意図は判らないが、フリートウッド・ペリューはホウセマンに正確に伝えていない。ベンガルから長崎までは49日ではなく87日を要しているし、イギリスからベンガル経由で来航したのでもない。ベンガルに再派遣されたのは1806年である。
フェートン号は1803年7月、アミアンの和約崩壊を受けて再就役し、東インド艦隊に配属された。以後、モーニントン号の奪還作戦(1804年)、フィリピン沖での仏艦交戦(1805年)などを経て、1806年に一度イギリス本国へ帰還した後、再びインドに配属された。
フリートウッド・ペリュー艦長がなぜ「英国から」と言ったのは興味深い。彼には英国代表という思い込み、あるいは自分がいま行っている強制入港が歴史的偉業であることを意識していたからであろう。
現に航海日誌を記述した航海士(Master’s Mate 下士官)ストックデールは、長崎について航海日誌に1ページ分の特別文を書いているがそこには「帝国軍艦フェートン号は此処に入港した最初の英国艦であり、更に住民から食用牛を得た最初のヨーロッパ船である」と誇らしげに書いていることから、フリートウッド・ペリュー艦長が乗組員に長崎入港をどう説明していたか、が良くわかる。
だからこそ、ベンガルに寄港はしたが本来は英国本国から来たのだ、と主張したかったのであろう。
一方で崎陽日録33pに収録されているホウセマンの報告は細部が微妙に異なる。これも収録しておこう。
「一) イギリス船は本国を出発してベンガル国へ行き同所より49日経って当地へ着岸しました 本国を出帆して8ヶ月になります
一)本船には350人乗り組んでいます 33
一)今般ご当地へ渡来したのはこれまでも申し上げた通りイギリス国とは不和(戦争状態)の国であり御当国までも来て妨害したい心算で航海してきました ついては旗合わせの際にオランダ人を召し捕らえたのは通訳をさせるためでお国に対しご不敬などをしようとしたつもりは御座いません しかし航海中に薪や水が乏しくなりついては非友好国ではあるが難儀のためオランダカピタンへ申し伝えるように留置しオランダ人に書簡を書かせ送りつけたところ薪水食料を早速用意していただき有り難く思っております その上はオランダ人二人を返し速やかにご当地を出帆し二度とご当地へは近寄りませんことを恐れながら申し上げます
右はイギリス船主が口頭で言ったことを阿蘭陀人ホウセマンが承って申し上げます
かぴたん へんてれきとうふ 」
人質二人は帰還した。だが、異国船の脅威が去ったわけではない。
図書頭の指令に、いち早く応じた藩があった。大村藩である。