「水は明日の朝必ず届ける」と石橋助左衛門と岩瀬弥十郎の二人が懸命に言うのを聞いてホウセマンがそれを伝えに船縁から消えてから随分待たされた。ようやくホウセマンが再度姿を現すと「今、食事をしているところです。直ぐに私共二人ともすぐに戻すと船主(艦長)が言っております」と言うのだ。石橋助左衛門はさぞや驚いたろう。食事?人が心配しているのに何という事を言うのだ、と。
「御奉行様がお前たち二人のことをどれほど心配されているか存じているのか?すぐに船を降りて来い」と命じた。この石橋助左衛門の言葉は記録には残っていない。だが、のちにホウセマンが「御奉行が心配されているから」と言った情報がある。これは石橋助左衛門に言われたことをホウセマンが口にしたと考えていいだろう。
「船主が芋は今晩届くのか、と聞いておられます」と尋ねるので、助左衛門は「芋も明日の朝、水や薪と一緒に届ける」と返答した。
この応答の間もいろいろな補給品の船積み作業が続いていた。それがようやく終わったころ、『安針役体の者異国船よりバッテイラへ降り立ち助左衛門へ厚く挨拶をして言葉はわからなかったけれども望みの品を届けてくださり感謝していると言う様子に見えた』という(崎陽日録32p)。
「按針」とは水先案内人(パイロット)のことである。身なりから助左衛門はそう言ったのであろうが、恐らく士官クラスの人間だったのだろう。フリートウッド・ペリュー艦長だったら「船主が現れた」と言う筈だからフェートン号に乗り組んでいる数人の士官、中でも副官ではなかったろうか。残念ながら副官の氏名は不詳である。ストックデールはそのような記録を残していないので彼ではない。
フェートン号に横付けしている日本側のバッテイラ(小舟を意味するポルトガル語が長崎で定着してこう呼ぶ)に按針役体の士官が降り立って丁寧に礼を述べたというのだ。崎陽日録は淡々と描写しているが、目の前に現れた士官と直に対面して石橋助左衛門はさぞ驚いたに違いない。だが石橋助左衛門の手紙類は殆ど通航一覧に収録されていない。名村多吉郎や中山作三郎の手紙は残っているのだが、石橋助左衛門はなぜか記録が無い。このため彼のこの時の生の声は残念ながら判らない。
言葉は判らないが、感謝しているように見えた、というのは按針役体の士官の話し方が丁寧な語り口であったのだろう。
その後待ち続けたが、相変わらず二人は現れない。しびれを切らして助左衛門が声をかけると水夫が船縁に現れた。これはオランダ人水夫のメッツェラールだったのだろう、助左衛門の言うことを理解したらしく、シキンムルが現れた。
「あまりにも遅いではないか。早く降りて来い」と言うと、「食事は終わりましたので、すぐに降ります。もうしばらくお待ちください」と答えた。
ほどなく「船主その他安針役体の者5、6人が船の梯子の際まで両人を送り懇ろに別れをして(二人を)差し戻した」と石橋助左衛門は言うのだ。これはフリートウッド・ペリュー艦長と直に対面した貴重な記録である。この時、石橋助左衛門の船には岩瀬弥十郎と御役所付き(町役人)溝口仙兵衛と林輿次右衛門が同乗していた。助左衛門等この4人が唯一日本人としてフリートウッドと会ったことになる。だが石橋助左衛門はなぜか手記や書簡を一切残していないので、残念ながら日本人から見たフリートウッドの感想は残らないままであった。フリートウッドの描写をする日本人がいなかったのは実に残念である。
艦を降りる二人のためにフリートウッドは『戻す際には梯子の綱も緋の羅紗で包んだ新しい綱に巻き返えるなど全体にとても丁寧に扱った様子であった』という。
真赤な羅紗を梯子の綱に巻いたという事は、二人が賓客であることの印である。赤い羅紗は大英帝国を象徴するカラーであり、赤い陸軍兵の制服はRedcoat として敵を威嚇するに十分であった。
だがそもそも赤い絨毯(レッドカーペット)の起源は古代ギリシアからあり、「高貴な者に捧げる道」の色で、特に18〜19世紀ヨーロッパでは、外交儀礼・接待・婚礼などで赤い布=賓客への最大級の敬意とされた。これは今でもいろんな授賞式で「レッドカーペット」は用いられているし、国賓を迎える儀式でも使われている。
英海軍のシンボルカラーは青(ネイビーブルー)であるが、儀式や接遇の場では赤を使うのが通例であった。
だからフリートウッドには「拉致されたオランダ人は敵ではなく「保護下にある捕虜」であり、彼らを返すにあたって、英国海軍の名誉と威厳を示しつつ、国際礼儀に適う扱いを意識していた」と考えられる。赤い羅紗で包んだ梯子は、この上ない「礼を尽くした」象徴であり、裏を返せば、「我らは君らを侮辱したわけではない、政治的要求があったまでだ」という暗黙のメッセージでもあったのかも知れない。
だとすれば、ここから導き出されるヒントは、①フリートウッドは白刃を振るって2人を連行し、補給の要求に送り出すホウセマンに「戻らなければシキンムルを殺す」と脅迫した残忍なフリートウッドと、いざ水食糧が届けられると一転して賓客扱いする身勝手さ、という観点と、②そもそもオランダ船の略奪が目的だったのだから、オランダ船がいない以上、2人はcollateral(軍事活動中の不注意による民間人への被害や破壊)であり、その分の償いを意識して「敵ではなく、礼儀をもって処した」イギリス海軍の気品と、若き艦長の誇りを示した、と言う観点が考えられる。
赤い羅紗の持つ意味が「敬意の表明」であることは通詞たちには十分理解されていた。それだけに石橋助左衛門等に「蛮船ではなく礼儀をわきまえた英海軍の軍艦である」という強い印象を残し、それが崎陽日録に収録されたのだろう。その事情を書き残さなかった石橋助左衛門には恨みが残る。
崎陽日録32pを続ける。
「しばらく待たされまもなくホウセマンが現れて食事をしているところであるがすぐに2人とも戻すと船主が申しておりますとホウセマンが言う
芋は今晩届くのかと尋ねてきたのでこれも明日の朝水や薪と一緒に届けると返答した
運んできた牛野牛その他食用の品々の船積みが済んだ頃安針役体の者異国船よりバッテイラへ降り立ち助左衛門に厚く挨拶をして言葉はわからなかったけれども望みの品を届けてくださり感謝していると言う様子に見えた
その後しばらく待っていたがあまりにも時間がかかるので異国船へ声をかけると水夫体の者が異国船から答えたので オランダ人2人を戻すようにと言うとほどなくシキンムルが現れたのであまりにも遅すぎる早くこちらに引き上げるようにと言ったところもう食事は終りましたので直ぐに降ります もうしばらくお待ちくださいと言って船内に戻った
程なく船主その他安針役体の者5、6人が船の舷梯(船のハシゴ)の際まで両人を送り懇ろに別れをして差し戻した 戻す際には梯子の綱も緋の羅紗で包んだ新しい敷綱に巻き返えるなど全体にとても丁寧に扱った様子であった 2人をオランダ番船に乗せ異国船を離れて漕ぎ出したところ2、 3艘の小船がいて「 オランダ人は2人とも降りたか」と尋ねるので2人とも降りましたと答えた これは検使の船でお役所付きのものが尋ねてきた
それより管谷保次郎花井常蔵が乗る佳行丸へ召連れるように命じ御番所の方へ乗り返し佳行丸へ乗り移り沖の様子などを尋ね菅谷保次郎が紅毛人二人と通詞助左衛門等を召し連れ別船にて庁(奉行所のこと。この庁が維新後県庁の語源になったと思われる)へ行き、あとは人見藤左衛門は戸町御番所へ、山田吉左衛門は西泊御番所へ行き、紅毛人二人とも取り戻したが御番所の人数が揃わず打ち払うことが出来ない ついては異国船が出帆しようとも止めることもなくそのまま出帆に任せ御番所の警備は厳重に固めるように西泊番頭鍋島七衛門・戸町番頭蒲原次右衛門に命じ御役所附遠見番両組の番船へ異国船を見守り怪しいことがあればあれば直ぐに急報する様に言い渡す 人見藤左衛門花井常蔵荒堀五兵衛木部幸八郎一同引き上げた 庁では二人のオランダ人が上陸したとの報をカピタン其の外が聞いて廣間から出迎え二人に面会し喜びは限りなかった カピタンが言うには誠にお陰様で二人が無事に戻って有難うございますと作三郎を通じて申し上げる 用人上條徳右衛門が二人のオランダ人と会い異国船の出来事を尋ねカピタンが書簡で答えた」
という。その和訳は以下の通りである。
「昨日高鉾島前に錨を入れたイギリス船の船主より筆者役阿蘭陀ホウセマンに言った事を左に申し上げます
一)イギリス船は本国を出発してベンガル国へ行き同所より49日経って当地へ着岸しました 本国を出帆して8ヶ月になります
一)本船には350人乗り組んでいます 33
一)今般ご当地へ渡来したのはこれまでも申し上げた通りイギリス国とは不和(戦争状態)の国であり御当国までも来て妨害したい心算で航海してきました ついては旗合わせの際にオランダ人を召し捕らえたのは通訳をさせるためでお国に対しご不敬などをしようとしたつもりは御座いません しかし航海中に薪や水が乏しくなりついては非友好国ではあるが難儀のためオランダカピタンへ申し伝えるように留置しオランダ人に書簡を書かせ送りつけたところ薪水食料を早速用意していただき有り難く思っております その上はオランダ人二人を返し速やかにご当地を出帆し二度とご当地へは近寄りませんことを恐れながら申し上げます
右はイギリス船主が口頭で言ったことを阿蘭陀人ホウセマンが承って申し上げます
かぴたん へんてれきとうふ
右のことはカピタンの横文字書付をもって申し上げたことを和訳いたしました
辰8月16日 大小通詞連印」
この証言に見るのは、砲火を交えることなく解かれた拘束に浮かび上がる、武力と外交の狭間に揺れる時代の面影である。
異国の艦上において、人質だった二人は客人として緋羅紗の梯を降りた。
それは、栄光と威厳を重んずる英国海軍の礼法であると同時に、オランダ商館員と士官たちの間に交わされた、言葉を超えた敬意の証であった。