鍋島家は寛政7年(1795年)に将軍家から松平姓を授かっている。さらに9代斉直(なりなお)は藩主就任の頃に当時の将軍家斉から家斉から(「斉」の字の偏諱授与)も行われている。この2件から想像できることは老中など幕閣中枢や将軍家斉への運動(すなわち高額品や珍奇品の贈答など)が行われていたことの成果と見てよい。当時の大名達は江戸城での序列(拝謁時の並びの順番)や控えの間の序列、さらには官位(中将とか大納言とか)を巡ってお互いにライバル視し、競争していた。佐賀藩もこのことに熱心だったと思えるのがこの松平姓と「斉」の字の偏諱授与である。前の章で触れたように佐賀藩の全出費に占める江戸藩邸での経費の大きさは、このような藩主の見栄や虚飾への執着が大きかったことと無縁ではないだろう。藩士の生活困窮に目を向けない暗君像が浮かび上がる。
しかも9代斉直はそれに輪をかける暗愚な君主であったことが古賀穀堂の日誌に描かれている。
『十八日 情勢が逆転するような策を持つ者は、胸を叩きながら長く嘆息している。近頃、浪華(大坂)藩邸の役人である塘源藏が急ぎ帰り、浪華の事情を報告した。しかし、肉食の者(権力者)は長期的な憂慮を持たず、嘆かわしいことである。
また、一つには、本藩が奢侈にふけり、女色とおべっかが横行し、国をむしばむ害悪となっている。人情は崩壊し、財政は行き詰まり、金銀や穀物は底をついている。軍備は荒廃し、人材は無能で怠惰であり、奸臣ばかりで、頼るべきものが何一つない。釜の底が焼け尽くされるほどの危機にあるというのに、なおもだらだらと無策であるのは、まるで𦾔(カエル)のようである。
さらに、崎陽(長崎)は万国の防衛の要所であり、きわめて重要である。しかし、舟船の備えは貧弱であり、兵卒の数は少なく、官吏には統制力や機略がない。軍事計画はまるで子供の遊びのようであり、嘆かわしいことである。』(日英交通資料11/427p)
この斉直は藩主として1805年(文化2年)から1830年(文政13年/ 天保1年)まで25年間も君臨した。
斉直は第8代藩主・鍋島治茂の長男として生まれたから、当然のこととして9代藩主になった。1780年(安永9年)の生まれだからこの時25歳、男盛りである。壮健であったと考えられる。だが彼は藩政にはほとんど関心を示さなかった。代わりに古賀穀堂が嘆くように酒色に耽(ふけ)った。夜毎の酒宴や側室・腰元たちとの放蕩に明け暮れ、生涯で産んだ子女はなんと20名を超える。正確な数が残らないほど多かった。
側室の数が増えれば衣装や化粧品、使用人の費用も藩の財政から支出される。側室が増えることで、藩邸内の生活コストが膨らむ。
さらに藩主の子供たちには、それぞれ世話役や教育係(侍講)をつける必要がある。例えば、藩主の正室の子には乳母や侍女、近習(身の回りの世話をする家臣)がつく。
側室の子でも、それなりの身分があるため最低限の家臣をつける必要がある。子供の数が多いほど、こうした家臣団の人件費が膨らむ。
さらに子供たちが成長すると①他家に養子に出す(→養子縁組の際に持参金が必要)、②藩内で分家させる(→新たに屋敷や家臣を与える必要がある)、③寺社に入れる(→僧侶や神職となる場合は寺や神社に寄付金が必要)④良家との縁組(→婚姻の際には莫大な持参金(嫁入り道具、結納金)が必要となる)などの費用がかさむことで、藩財政に大きな負担がかかる。しかも藩主の子供の多くが江戸の藩邸で育てられた。江戸での生活は贅沢であり、維持費が高い。
これに加えて公式には倹約令を出しながらも裏では散財癖を改めず、趣味の茶道や芸事にも湯水のごとく金を使った。これは彼に「斉」の字を与えた将軍家斉の治世で享楽的風潮が広がったという背景もあった。
前の章で見たように佐賀藩は構造的に困窮する宿命にあった。斉直が藩主になった時に1万5千貫の借財があり、このため前章の古賀穀堂の日記で見たように異国船(フェートン号)襲来のため長崎奉行から出動命令が下ったさなかに佐賀藩内では『藩士が大阪へ行き藩の借財の利息軽減に赴くことであり、その借財について藩論が沸騰している』有様であったから、9代藩主斉直が倹約令を発布したというのが表向きの歴史教科書敵記述となる。
だが実態はそうでは無かったろう。斉直は藩政に関心を抱かず湯水のように金を浪費していた。倹約政策に乗り出したと言ってもそれは彼の意思ではなくて、そうしなければならないほど追い詰められて藩の政策担当者がそうしたというだけのことである。
その人物は誰か?
家老の多久茂堅(たく しげかた)である。彼が藩政の実権を握り、運営していた。多久家は鍋島家の親族にあたり代々家老職を勤めた。多久茂堅は幸い確かな判断力と先を見通す能力があったようだ。藩主斉直の下で倹約令を発し、次代に向けて数多い斉直の多くの息子の中から17男の貞丸を後継者に選んだことから佐賀藩は救われた。1819年(文政2年)多久茂堅は斉直を厳しく批判する古賀穀堂を江戸佐賀藩邸に赴任させまだ6歳の貞丸(17男)の教育係に任じ、あるべき藩主像を徹底的に学ばせた。
1830年(1830年)、直正(貞丸改め)は15歳で10代藩主に就任した。父・斉直の放漫な政治と財政破綻を引き継ぎながらも、質素倹約と実学の振興を基本方針とし、藩政改革に乗り出した。幼少期から教育を受けた古賀穀堂の教えを基に、藩士の能力主義を徹底し、藩校弘道館の整備を進めた。これにより、のちに明治維新で活躍する江藤新平、大木喬任、副島種臣、大隈重信といった人材を輩出する素地を築いた。
さらに直正は軍事力の強化を図り、日本で初めて鉄製大砲を鋳造。幕末期における佐賀藩の軍事的優位性を確立し、「薩長土肥」(肥は肥前)の一角として維新を主導する立場を得た。これらの改革を通じて佐賀藩を雄藩へと成長させ、その影響は明治政府にまで及んだ。
一方で斉直は隠居しても放蕩をやめず、「藩主様は隠居後も反省なさらず酒池肉林」と揶揄する声もあったという。
彼が珍しく藩主らしいことを二つ手がけた。だが、それはいかにも彼らしいと言えるものの、なんとも器の小さい政策であった。
佐賀藩困窮の原因が構造的である、と前に書いた。それは蓮池藩・小城藩・鹿島藩 という三つの支藩を抱えていたからである。これらの支藩は佐賀藩の分家であり、それぞれが独立した藩政を運営していた。その中で鹿島藩 は財政規模が小さく、佐賀藩にとって経済的なメリットが少なかったため、斉直はこれを廃止しようと考えた。鹿島藩の領地(約2万石)を佐賀藩直轄地とすることで2万石が藩の収入となり、鹿島藩の参勤交代も廃止出来るなど財政負担を軽減する考えだった。
だがこれは他の支藩(蓮池藩・小城藩)の強い反対にあった。鹿島藩だけが廃止されると、次は蓮池藩や小城藩も廃止されるのではないかという危機感を持たれ、反発を受けたのである。
鹿島藩側の抵抗もあった。鹿島藩主鍋島家は独立を維持するために幕府に直訴し、廃藩の動きを阻止した。
このころ幕府は大名家の取り潰しには慎重であり(幕府創設初期の武断政治とは様変わりしていたことになる)、佐賀藩内の問題に干渉することを避けた。そのうえ佐賀藩内部での反対が大きかったため、幕府も鹿島藩廃止には消極的だった。
この結果、鹿島藩の廃止は実現せず、佐賀藩の財政は引き続き厳しいままとなった。
もう一つ画策したのは、負担の大きい長崎警備の返上である。恐るべきことに斉直はフェートン号事件で100日間の閉門(登城禁止と蟄居)を命じられていながら、それに懲りず、性懲りも無く警備返上を試みる。
肥後細川藩が長崎警備に意欲があったという歴史資料は残念ながら見当たらない。だが細川藩にとってメリットは大いにあった。
第一に、政治的影響力の強化。幕府直轄の長崎を守ることで忠誠を示し、フェートン号事件で揺らいだ佐賀藩に代わり九州での優位性を確立できる。第二に、貿易利権の確保。警備を通じて唐人屋敷やオランダ商館と接触し、交易に影響を及ぼす余地があった。第三に、経済的利益。銀の取引に関与し、幕府の補助金と引き換えに警備を負担する可能性があった。第四に、軍事的影響力の拡大。長崎は対外防衛の最前線であり、武力行使の機会も想定された。
文政九年(1826年)、密かに肥後細川藩への警備譲渡を画策した。これを取り仕切ったのは佐賀藩家老・有田権之允 である。彼は内密に交渉を進めたが、事は幕府の知るところとなり、佐賀藩への不信を招いた。幕府は厳しく追及し、責任を問われた有田権之允は切腹を命じられた。この一件により、佐賀藩の幕府内での立場はさらに悪化し、長崎警備の責務は引き続き藩の重荷として残ることとなった。結局、斉直が主導した政策はいずれも行き詰まったという事になる。
さらに自然災害も彼に災厄をもたらした。1828年のシーボルト台風である。シーボルトが乗船していたオランダ船「ハウトマン号」が座礁し、その修理中に積荷を調査した幕府役人によって、伊能忠敬の作成した日本地図などの禁制品が発見されシーボルトは国外追放となった台風であるが、佐賀をも直撃して死者1万人にも及ぶ壊滅的被害が生じた。この結果、藩の借金は13万両以上にまで膨れあがり佐賀藩の財政は逼迫の極みに達した。天も放蕩を尽くす斉直を見放したと言うべきだろう。
斉直は49歳で家督を直正に譲ったがその背景は判然としない。家老の多久茂堅(たく しげかた)の工作とも思えるが一切その資料は残っていない。募るばかりの借財に嫌気がさして藩政を放り出したのが真実かも知れない。しかも引退してからもなお贅沢三昧の日々を送り続けたというのだ。人生を通じて愚かな藩主であった。おそらく彼は領民と会ったことも無かっただろう。
ここで疑問が浮かぶ。17男の貞丸の天稟に目を付け古賀穀堂をして次期藩主の教育をさせたほどの知恵と鋭利さをもつ多久茂堅をもってしても斉直が藩主である限りは諫言は出来なかったのであろうか。恐らく出来なかったのであろう。
佐賀藩は「葉隠」で知られる。『葉隠』とは佐賀藩士山本常朝(1659-1719)が語った武士道論を田代陣基が筆記したのが『葉隠』である。本書は「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉で知られ、武士の覚悟、忠義、日々の鍛錬の重要性を説く。常朝は主家への絶対的忠誠を強調し、死を恐れず使命を全うする姿勢を理想とした。江戸中期の平和な時代にあっても、武士は常に戦う心構えを持つべきだと説いたが、当時の佐賀藩では急進的とされ、公式には顧みられなかった。
とは言え「葉隠」を生むだけの素地が佐賀藩の気風にあったという事だ。現に長崎では関傳之允は長崎蔵屋敷の18歳の重役を終始長崎奉行松平図書頭の前に出頭させなかったし「藩の命令で」などの言い訳をしなかった。ただただ主君と藩の名誉を守ることばかりが念頭にあった。
同様に当時の中でもなお堅苦しい忠義を説いた例に会津藩がある。その教え「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」は、例え理不尽でも逆らうな、ということだ。
これを松平図書頭とその用人たちや上條徳右衛門との交わりと比べると、図書頭たちの振る舞いはまるで現代社会のように明るくて自由にものが言えるように見えてしまう。
諫言を許されない藩風の中で多久茂堅(たく しげかた)は斉直の治世がやがて朽ちることを予感し、その日に備えて次期藩主の育成に励むことが精一杯だったのだろう。
堂々たる雄藩の福岡黒田藩と唐オランダ貿易に沸く長崎に挟まれてすっかり埋没していた佐賀藩だが、茂堅が未来を託した直正の時には幕末から維新の時期に光彩を放った。それも江藤新平らの佐賀の乱でそれもまた今失われている。
隣接する長崎は、維新の横浜神戸などの開港で唯一の海外に開いたと言う特権を失って長崎会所(長崎の町民たちが、実験を握った。公的貿易機関)は雲散霧消したが、トマス・グラバーの存在により三菱財閥の要覧の地となり、戦艦武蔵を建造した三菱造船所、また上海との長崎上海との航路(長崎の中学生は、修学旅行は上海へ行った)等で、かつてほどの繁栄ではないが、日本の歴史上重要な地位を占め続けた。原爆と言う悲劇によっても「ナガサキ」は歴史に名を刻むことになった。
だが長崎と福岡に挟まれた佐賀県の話はあまり聞かない。温泉、有田焼磁器、海の幸などが話題になるくらいである。人々に九州の地図を書いてくださいと言うと、佐賀の場所を正確に書けない人が多い。
斉直、直正の時代の記憶は佐賀の地にただひっそりと眠っているのである。