1 出現

1 出現

五島沖
文化5年8月14日、西暦1808年10月3日の正午。フェートン号は、五島列島の南端をちょうど真西に望む海の上にあった。長崎からおよそ60キロ、五島の漁師でさえ、櫓を漕いでここまで出てくることはない、外海の只中である。
7月10日にマドラスの港を発ってから、すでに86日。8月31日にマカオを離れてからも、ひと月あまりが過ぎていた。樽に残る水も、蓄えた食料も、いまや心許ない。それでも艦がこの海域に留まり続けたのは、ただ一艘のオランダ船を待つためであった。だが、その船は、ついに水平線に姿を見せなかった。
艦長フリートウッド・ペリューは、この朝、決断を下す。9月16日以来、幾日も続けてきた長崎沖の哨戒を、打ち切る。そう腹を決めたのである。日本の銅を満載したオランダ船は、まだ長崎港の奥深くに碇を下ろしたままだ。ならば、海上で待ち伏せ、これを拿捕するという当初の目論見は、もはや成り立たない。残された道は、ひとつしかなかった。
長崎港へみずから乗り入れ、港内に潜むオランダ船を襲う。
幸いにも、明日は満月であった。月の光さえあれば、夜に入っても港内をくまなく捜索でき、たとえ逆襲を受けたとしても、暗い海の上で応戦できる。襲撃にこれほど誂え向きの条件は、そうそう巡ってくるものではない。オランダ国旗を掲げての偽装も、上陸襲撃隊の編成も、手筈はすでに整っていた。乗組員たちは東シナ海を渡るあいだ、幾度となく演習を重ねてきている。誰もが、自分に課された役目を、そらんじるほどに承知していた。
ペリューは舵を切り、進路を東へ向けた。長崎まで、あと175キロ。
この日の午後の初め、ストックデールは航海日誌に、ただ短く、こう書きつけている。
Fresh Breezes and dark gloomy weather.
疾風、暗く陰鬱な天気。航海日誌の全編を通じて、ストックデールがgloomyという語を選んだのは、わずか4日のことでしかない。
午後3時、風が南東へと回った。願ってもない順風である。メインマスト最上の主帆、トゲランスルが高々と張られ、艦は水を切って速度を増していった。
午後5時30分、総員点呼。明朝の手筈が、いま一度、声に出して確かめられた。
午後10時40分、ストックデールは、切れ切れの曇天のあいだに五島列島の島影を認めた。隔たりは3、4リーグ、17から22キロ。頭上の空には、満月が懸かっていた。
夜明け
日付が8月15日、10月4日へと移った午前1時、フェートン号は五島の島影を北西へ見送りながら、その南端をゆるやかに回り込んでいった。
日の出は、6時17分。やがて、ほぼ真東の海の彼方に、低く黒く横たわる陸地が浮かび上がってくる。野母半島である。長崎から南へ、細く長く突き出したこの半島は、長崎を目指す船乗りにとって、またとない目印となる。
ちょうど同じ頃、その野母半島の突端、海抜195メートルの権現山に据えられた野母遠見番所では、当番の遠見番が、水平線の上に一本の白い線を見出していた。兎の毛ほどの、細く頼りない線。それが、マストの先端であった。線はやがて、ゆっくりと、白い一点を頂に浮かべてゆく。
「白帆だ。」
野母遠見番所には、オランダ渡りの遠眼鏡が、実に七挺も備え付けられている。当番の触頭、原嘉兵衛は、幾重にも折り重なった帆影を見据え、これを唐船ではなく紅毛船、オランダ船と見極めた。和船なら一枚帆、唐船なら四角い二枚帆、そして紅毛船は三本の檣に何枚もの帆を張る。見分けは、さして難しいことではない。
見分けは、たしかに難しくない。だが原嘉兵衛に分かったのは、三本檣の西洋式帆船だということまでである。オランダ船か、それ以外の西洋の船か。その区別をつける手立ては、この番所にはなかった。紅毛船とは、実のところ、ヨーロッパから来た船という以上の意味を持たない言葉であった。
「ヲランダ印を上げよ。」
長崎弁で「オランダ印ばあげろ」と言ったであろう。
番所に立つ三本の印柱のうち、浦上村淵の松で作られた「ヲランダ印柱」に、信号用の生枝が高々と掲げられた。これは、長崎港の西20キロ先に置かれた小瀬戸遠見番所への合図である。小瀬戸が同じ印を立て、それを対岸の十人町が受け、勧善寺観音堂の二階に構えた番所へ、さらに立山役所へと、次々に伝えていく。これが、本来あるべき手順であった。
だがこの朝、小瀬戸番所は、野母の信号を見落としてしまう。季節外れのこの時期、緊張は緩んでいた。
この見落とし自体は、結果に大きく響いてはいない。のちに触れるとおり、深堀からの注進のほうが先に役所へ届いたからである。だが、朝のこの一件は覚えておいてよい。長崎の情報の網には、すでに穴が空いていた。同じ穴が、この日、いくつも開くことになる。
ちょうどその頃、東シナ海の上では、フェートン号の艦上に立つ士官たちが、一斉に遠眼鏡を目に当てていた。マストの見張りが、声を張り上げる。
Land ho!
ランドホー。陸地が見えたぞ。
野母半島である。
7時、風が北東から南東へと変わった。フェートン号にとっては、これも順風。船足は、いよいよ速まっていった。
深堀の走使
長崎側に届いた第一報は、野母からではなく、深堀からであった。
野母遠見番所は権現山の頂から、好天なら160キロ先まで見渡せた。だが、そこから奉行所までの道のりは23キロもあり、あまりに遠い。
一方、深堀藩の遠見番所は伊王島や香焼島などに置かれ、船を見つけたのは野母に遅れたものの、長崎港までは、わずか7キロである。飛船で大波止まで漕ぎ着け、そこから早馬か早駕籠を仕立てれば、立山役所までは1キロに満たない。
こうして結局、深堀からの注進が、ひと足先に役所へ届いたのである。最も早く見つけた者の報せが、最も遅く届く。長崎の情報の網は、そういう形をしていた。
『崎陽日録』は、こう幕を開ける。
文化五戊辰年八月十五日朝雨そ々ぎて天不明辰の刻少し前にもあらんか沖手に白帆の見ゆる由深堀詰松平肥前守家来鍋島七左衛門より走使をもて注進す
辰の刻少し前、つまり午前7時ごろ、深堀の藩士から走使が発たれた。立山役所への到着は、8時半から9時前であったろう。
奉行所は、白帆の注進に沸き立った。この夏、オランダ船はとうとう一艘も来航しなかったのである。長崎の貿易高の、実に三分の一を担う、あのオランダ船だ。港に礼砲の響かぬ夏は、過去10年をさかのぼっても、初めてに近い。それが、季節こそ外れているとはいえ、ようやく姿を現したのだ。
廣間用人の上條徳右衛門は、小走りに廊下を渡り、奉行・松平図書頭康英のもとへ報告に上がった。
図書頭はすでに、執務の間に端然と座している。昨年9月の着任以来、これが初めて迎える紅毛船であった。
その報を受けて、図書頭の胸には、ひとつ引っかかるものがあった。
季節外れ、というその一点である。
例年であれば、オランダ船がバタビアへ戻る出航の期限は、来月の9月20日と定まっている。昨年のマウント・ヴァーノン号もマリア・スザンナ号も、その日までには長崎を発っていた。今年に限って、これほど遅れて到着するというのは、どうにも腑に落ちない。
加えて4年前の文化元年、ロシア使節レザノフが来航したのも、ちょうどこの時期、和暦9月6日のことであった。
この4月、図書頭は老中・牧野備前守から、長崎港警備の点検を命じられていた。にもかかわらず、外四台場への石火矢の常備は、交代奉行の到着を待ってからにするとの判断で、7月末にいったん先延ばしにされていた。その延期から、ちょうど2週間後の朝である。
外四台場は、空のままであった。
この先延ばしを渋って押し通したのは、岩原屋敷の支配勘定、中村継次郎である。必要な経費とは認めがたい、というのがその理由であった。役目としては筋の通った判断だったのであろう。だがそのわずか2週間後に、砲を据えるはずだった台場の前を、四十門を積んだ軍艦が素通りしていく。この男は、事件のあいだじゅう、みずから蒔いた種の上を歩き続けることになる。
図書頭は、白帆をただちにオランダ船とは決めつけなかった。
「まず、カピタンの見立てを聞こう。」
奉行所の動員
図書頭の指示を受け、上條徳右衛門の采配のもと、動員が始まった。
まず呼び出されたのは、年番大通詞・中山作三郎である。出島のドゥーフのもとへ白帆の注進を知らせ、異船についての見立てを尋ねるためであった。
隠密方・吉岡十左衛門と、盗賊改方・田口惣兵衛にも出動が命じられ、用意銀とオランダ語の御証文が手渡される。
「もし異国船であれば直ちに報告せよ。紅毛船であれば、入港の手続き通りに進めよ。」
遠見番当番の児島唯助と吉川次郎平にも、同じく証文と用意銀が渡された。沖へ乗り出し、その船に最初に接触する役目である。
波止場役・諸熊作大夫と白木理十郎には、役船の手配が命じられた。検使船、オランダ委員を乗せる鯨船、隠密方船、盗賊改方船、そして遠見番船。
鯨船とは、帆を持たず、八人の水主が櫓で漕ぐ、長さ12.5メートル、幅2メートルの快速船である。さらに曳舟も出された。オランダ船が入港すれば、所定の停泊場まで二十艘もの手漕ぎ船で曳いていくのが、長崎の定めた手順であった。
こうした動員の指示は、その一つひとつが、上條徳右衛門の右筆とおぼしき書記役の手で、用人日記に丹念に書き留められていく。
江戸幕府の運営は、家康が定めた祖法と前例の踏襲を旨とする法治主義であり、長崎奉行所の動きもまた、ほとんど分刻みで、記録の上に刻まれていったのである。200年前に定められた手順を、200年後の者が寸分たがえず踏む。それがこの役所の強みであり、そしてこの日、弱みでもあった。手順の外にあるものは、誰の目にも映らない。
ポンばかま
上條徳右衛門は、年番町年寄に剪紙を回した。
「白帆の注進これあり。諸事、例年の通り心得て準備せよ。」
長崎の七十七町は、陸手四十七町と船手三十町とに分かれている。ひとたび黒船来航となれば、船手三十町には、稲佐御備所、西役所長屋、大波戸の船差配、奉行所御供、出島、新地、築町の俵物会所、遠見番所と、それぞれの持ち場が隈なく定められていた。
剪紙がひとたび回れば、まるでエンジンが始動するように、すべての町が一斉に動き出す。
長崎には、「ポンばかま」という言葉がある。オランダ船の祝砲を聞くやいなや、質に入れていた礼装の袴を、慌てて受け出しに走る者。それを、そう呼びならわした。
この朝、祝砲はまだ聞こえていない。それでも町には、「今年最初の紅毛船だ」という噂が、すでに広がり始めていた。
この浮き立ちようを、覚えておいていただきたい。同じ町が、その日の夜には、家財を車に積んで山へ逃げることになる。
加えてこの15日は、月例のお礼行事の日でもあった。8月1日の八朔、家康の江戸入城を祝う、幕府にとって正月に次ぐ祝日に集められた八朔銀は、長崎奉行への余禄として、例年25貫から40貫にも及ぶ。元禄の頃には72貫、いまの貨幣に直せば9000万円相当にもなった。長崎奉行が、希望者の絶えぬ役職であった理由の、ひとつがこれである。
その月例の式もまた、この日は上條の指示で延期となった。
ドゥーフの懸念
中山作三郎が出島に着いたのは、午前10時ごろであった。
ドゥーフは、病に臥せっていた。病名は、記録に残っていない。満30歳。21歳で出島の土を踏み、商館長となって5年になる。小柄で、利発そうな大きな目をしていることから、長崎の人々からは「オランダ大目」と呼ばれていた。
中山が、奉行がこの異船についてカピタンの意見を聞きたがっている旨を伝えると、ドゥーフは人払いを命じ、中山ひとりだけを別室へ招き入れた。
ドゥーフは、出島という場所を知り尽くしていた。四方をスパイに囲まれ、絶えず監視されている。通詞は日々の仕事を共にする相手だが、ときに自分たちの失策を、オランダ人のせいに歪めて報告することもある。
加えてドゥーフ自身が、決して通詞に知られてはならぬ秘密を抱えていた。
家康が朱印を与えた、あのオランダ、ネーデルラント連邦共和国という新教国は、もはやこの世に存在しない。いまのオランダはフランスの属国であり、そのフランスはカトリックの国、すなわち幕府が厳しく禁じる宗教の国である。フランス革命もアメリカ独立も、オランダ風説書からはことごとく抹消されてきた。その隠蔽の主犯のひとりが、ほかならぬドゥーフ自身であった。
招かれざる客が長崎に現れるたび、ドゥーフは、壊れやすいガラスの上に座らされているような恐怖を覚える。
中山と二人きりになると、ドゥーフはオランダ語で語り始めた。
「私どもオランダ商館員一同も、待ち侘びていた本国からの船が参りましたこと、皆、大喜びしております。市中も同様とのこと、申し分ございませんが」
そう述べてから、ドゥーフは慎重に言葉を継いだ。
「バタビアを出航して、この時期まで到着が遅れるとは考えにくいことです。もし航海の途中で嵐に遭い、檣の一本二本を折られているのであれば、帆の扱いもままならず、船足は遅くなっているはずです」
ドゥーフは、いったん言葉を切った。
「しかし、風に向かって速やかに進み、檣にも別状がないように見えるのであれば、万にひとつ、他国の船かもしれません。警備をなさるべきかと存じます」
さらに、声を落とした。
「この懸念をお伝えせぬのは不忠にあたりますゆえ、何卒ご内密に、お役人中へご報告くださいませ」
そして、もうひとこと、静かに付け加えた。
「これほど遅い来航は、過去にただ一度だけ、1646年、正保3年9月29日という例がございます」
病床から、この男はほとんど正解を言い当てている。損傷がなく、速い。ならば他国の船かもしれぬ。この推論は、翌日までのすべてを言い尽くしていた。長崎でこの朝、最も正確な見立てを述べたのが、長崎に対して最も多くを偽っていた男であったというのは、皮肉な話である。もっとも、偽り続けてきたからこそ、彼は疑うということに人一倍長けていたのかもしれない。
なお、ドゥーフが挙げた正保3年の、その翌年である。禁を破って入港したポルトガル船二艘を封じるため、長崎に九州諸藩の兵五万が集まったのは。この符合に気づいた者は、この日、ひとりもいない。
中山は、この懸念を内密に、奉行へ報告した。
ドゥーフの見立ては、図書頭がすでに抱いていた疑念を裏づけるものであった。
季節外れでありながら、檣にも帆にも損傷がない。しかも、風を受けて速やかに長崎へ向かってくる。
それが確認されれば、尋常のオランダ船とは思うな。図書頭の警戒は、ここに定まった。
奉行、検使に直達
午前11時ごろ、野母遠見番所の触頭・原嘉兵衛が、ようやく立山役所にたどり着いた。
「卯の中刻、未申の方角、24、5里の沖、100キロ弱に、紅毛船一艘を発見いたしました」
「海上、風強し」とも、原は言い添えた。
報告を終えると、原はすぐさま大波止へ取って返し、自らも沖出役の支度にかかった。
正午過ぎには、小瀬戸番所の古川徳四郎から、続報が届く。
「午の中刻、異国船は17、8里の沖、65キロ」
野母の発見からおよそ5時間で、7里、28キロもの距離を、一気に詰めてきていた。
さらに午後1時ごろ、小瀬戸からは「8里まで接近」との報せが入る。30キロ余ともなれば、オランダ製の遠眼鏡には、いよいよ船型が見え始める。やはり、紅毛船である。ただし、沖手の風はかなり強い。その但し書きもまた、報告には添えられていた。
早めに出迎えよ。
検使には、菅谷保次郎と上川伝右衛門が任じられた。奉行・松平図書頭に随って赴任した与力六人のうち、筆頭格の二人であり、いずれも長崎は再任である。
奉行は二人を書院に呼び、じきじきに申し渡した。
「紅毛船は、季節外れの入港である。例年より刻限を早めて出よ」
「本船には近寄らず、まず旗合せをせよ」
「沖出方の迎船として先に出ている者どもへ、よくよく状況を尋ね、もし疑わしき儀があれば、即刻、両御番所へ申し達し、湊内へは一歩も立ち入らせるな」
「オランダ委員は、検使の跡に従わせよ。決して先へは出すな」
図書頭は、ただオランダ船を迎えさせようとしたのではない。入港を許す前に、その正体を見極めようとしていた。
ドゥーフの言葉は、その判断に、さらに具体的な警戒の基準を与えていた。
書院を退がった上條徳右衛門は、検使の二人を呼び止め、重ねて言い添えた。
「檣や帆に損傷が見えぬようなら、尋常のオランダ船とは思うな。厳重に警戒せよ」
ここまでの手当ては、非のうちどころがない。奉行は疑い、商館長は根拠を示し、用人は念を押した。判断の連なりとしては、これ以上のものは望めなかったであろう。
ただし、こうした細部のことごとくが、風浪の激しい沖の海上で、検使たちの頭から吹き飛んでしまうことを、このときはまだ、誰ひとり知らない。
大波止
オランダ委員には、簿記役ホウセマンと商務員シキンムルが指名された。ドゥーフ本人は、病のため、立ち合いを避けている。
「もし、バタビア発のオランダ船ではないという疑いが少しでもあれば、直ちに検使たちへ伝えよ」
ドゥーフはそう念を押し、二人に船長への警告書、武装の解除、宗教書の持込禁止、船員名簿の提出などを記したものを持たせた。
二人は慣例に従い、家康が朱印状を与えた200年前のオランダ人の正装に着替え、出島を発った。
大波止に、船団が集まってくる。西役所の北斜面の下、出島のすぐそばに築かれた広場と埠頭である。東西25間、45メートル。南北の石段は20間、36メートル。4年前、レザノフが幕府検使と対面するために上陸したのも、この場所であった。
まず、検使二人の役船。これに御役所附の大木常次と村井兵太夫の船が随う。
オランダ委員団の船には、ホウセマン、シキンムル、それに通詞の吉雄六次郎・猪股繁次郎・植村作七郎を加えた五人が乗り、御役所附・野村栄次右衛門の船が付き従う。
出役の通詞、今村金兵衛・今村才右衛門ら六人は、一船に乗り合わせた。援兵として波止場役・白木理十郎の船、援船として通詞・松村又左衛門と三島松五郎の船、さらに、その援船を見届ける御役所附・船番・町役の一船。
合わせて八艘、役人だけで二十二人。水主を一船あたり十人と見積もれば、総勢は百人近くにのぼる。
八艘はいずれも屋形を備え、オランダ委員団の船には、オランダ国旗が掲げられた。三色旗の幕が、屋形を鮮やかに彩る。検使はとんきょ帽、通詞は羽織袴、奉行所の役人は正装である。
百人が、正装で漕ぎ出す。武器らしい武器は、役船に立てた槍のほかにない。彼らが向かうのは、儀礼の場であって、戦場ではなかった。少なくとも、そのつもりであった。
午後2時。
船団は、大波止を漕ぎ出た。
オランダ船は、まだそこにいる。長崎は、そう信じて疑わなかった。

J版

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